夕陽のようにしみじみと2017年03月31日 09時23分55秒

★誰にも訪れる人生の黄昏に思う

 朝日のように爽やかに、というジャズのスタンダード曲があるが、人、生き物の一生が一日に喩えられれば、まさに若き日は、朝日のように爽やかに、スッキリとした気持ちで意欲満々これからのことを迎え入れる気概にあふれていることだろう。
 それが灼熱の午後を過ぎ、じょじょに陽が傾きだし、夕暮れ時となり黄昏が訪れる。都会では、もう山の端や海に沈む赤い夕陽など見ることはなくなってしまったが、幸い拙宅からは、向いの八王子の滝山と呼ばれる山と呼ぶには低い丘陵側、奥多摩寄りに、夕陽は沈んでいく。
 このところ天気は春先なので曇りがちだが、昨日は晴れて穏やかで夕焼けも見えた。
 そして不意にシミジミとした感慨に襲われた。そう、夕陽のようにしみじみと、人も動物も生き物もみんな死んでいくのだなあと思った。

 当たり前のことだが、生き物はいつか必ず死ぬ。生まれて来た者は必ず死なねばならない。
 老いて衰弱して死ぬ者もあれば、不治の病気や不慮の事故で突然死ぬ場合もある。が、大概は老いと病は一体になってやってくるものであるから、母のように、高齢になって癌に見舞われ最後はなす術もなく痩せ衰えて命のエネルギーが尽き果てて死ぬ場合も多々あろう。
 そうした病気に関係した死は、ある程度医師たち医療関係者は余命の予測もつく。一方、特に癌のように進行性の病がないまま高齢まで生きた者は、じょじょに全身の機能が衰えて、頭脳も身体能力も低下して食事の量も減り、痩せて呆けて寝たきりとなり最後はロウソクの灯が消えるように静かに死んでいく。

 我が父は、まだ健在ではあるが、母の場合とは違い、ただ老化が甚だしいだけで、特に治療や投薬を要する病はない。おそらくこのままさらに全機能が衰えて「老衰」により、眠りながら死ぬのかと思える。
 むろん誤嚥性肺炎の怖れや転倒にる再度の骨折など危険はいくらでもはらんでいるから、肺炎や骨折などをきっかけにそのまま病院内で、退院することなく看取られるかと予想している。しかし、先のことは誰もわからない。人が希望してもかなうものではないし、まさに神の意思、はからいでしかない。

 さて、老犬ブラ彦である。もう何を与えてもほとんど何も食べなくなって来て、水を飲むのがやっとという段階に入って来た。私感だが、あと数日ではないかと思える。
 以前は、小便などしたくなると、室内にいる故、吠えて知らせて我は夜中も起こされたが、このところは寝ながら垂れ流し状態のようで、自らは吠えもしない。で、我は朝早く起きて、一度抱いて起こして庭先歩かせて簡単に用便は済ませている。
 が、先日までは自らゆっくりでも歩けたが、食べていないので体力も尽きて来たのか、リードに連られてよろよろと数メートルは歩くけれど、途中で塀にもたれかかったり座り込んで動けなくなってしまう。
 仕方なく抱きかかえて家にまた入れた。

 いったい何なら食べてくれるのか、このところあちこちのペットフード売り場を回っては、食べやすい老犬用高級フード缶、レトルトパックなど買っては与えているのだが、鼻もつけないことばかりだ。
 犬と人は気持ちが通いあい、彼も飼い主の心痛、心配を察したのか昨晩は彼も牛肉の焼いたのを小さく切ってやったら少しは食べてくれた。ほんの少し、2切れ程度だったけど、食べてくれたのでほっと安心した。少しでも食べてくれていればまだもう少しは生きられると思うから。
 が、今朝見たら、どうやらその牛肉は吐いてしまったようで、無理して食べてくれても体がもう受けつけない、消化できないのかと改めて思い知った。ならばもう無理して食べさせないほうが良いだろう。

 ブラ彦も父同様、特に病気はない。有難いことにただただ長く生きてもう18歳を超えた。普通の中型犬の場合、長生きしても15歳、16歳が平均寿命だとされているから、かなりの長命である。
 そして年明けまではごく普通に食べてしっかり遠くまで散歩も行けていたのだ。むろんじょじょに痩せてきて、ほとんど寝てばかりとなってきたけれど、それでもほとんど手はかからなかった。
 それが2月頃から食が細くなり、食べないときも多くなり、食餌に頭を悩まされた。そして今週、三月末には、ついに何も食べなくなってきたということだ。

 こうして命の素、生命エネルギーを完全に空にして、彼は死ぬのだと今はっきりわかってきた。もう十分に生きて十分に世話してきたのだから何も悔やむことはないはずだけど、やはり死に臨む姿を見るのはとても辛い。哀しい。
 この犬は、20世紀の終わりに、この家で生まれた。他の兄弟も入れて確か六匹いたかと思う。皆、他の兄弟は幸い望まれてもらわれて行き、彼だけこの家に残してそれから20年近く共に過ごしてついにその最後のときが来たのである。

 母のとき、親たちを見送ったとき思ったが、親というのは、常に大人であり、我の記憶の中ではずっと親として大人として変わらない姿で存在している。
 犬の場合、生まれたときから、成長し元気に走り周り、あちこち共に旅行にも連れて行ったり、さまざまな拙宅のイベントにも登場したりと、生まれた時から、小さい時から元気な頃までも一貫して記憶がある。
 そしてその若く元気だった犬が、いつしか老いて弱って来てよぼよぼとなってきて今ついに死のうとしている。思い返せばあっという間、夢のようだ。
 そこまで長く生きて、生かすことができて、ずっと共に暮らせたのだからそれだけで満足であり、感謝せねばと思うのだけれど、今また、母の側の世界へと、彼もまた旅立つことはやはり胸が張り裂けそうな思いがしている。生を重ねるということはこうした「別れ」を積み重ねていくこと、受け入れることだとようやくわかって来た。

 若い時は、我もまた朝日のように爽やかな気分で、毎日が楽しく日々意欲的に生きていけた。そして今、人生の夕暮れ時に来て、こうして次々と大切な者たちを失っていくのかと、ただ嘆息している。
 しかし、ならばこそ、今は何が本当に大事なことなのかはっきりとわかる。
 人も動物も元気に動けて何でも食べられて行きたいところへいつどこでも行けることは素晴らしく有難いことなのだと。楽しいことだけでなく辛いことも含めて何でも自由にできた。
 若い時はそれが当たり前だと思っていた。しかし、今は違う。山に沈み入る夕陽を見つめる如く、ただしみじみとした思いで、去りゆく人、死に行く者たちとのかつての楽しかった日々を思い返している。
 まさに走馬灯のような、そんな楽しい日々が我らにはあったのだ。

 さあ、あと何日あるのかわからないが、愛犬をできるだけ苦しまずに楽に死なせてあげることが我の務めだ。辛いことだががんばらねば。泣きたいような淋しいようなシミジミとした気分を抱えながら。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://masdart.asablo.jp/blog/2017/03/31/8436263/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。