「共謀コンサート」9/26日のお誘いと、残す3回、ご参加ご協力を2020年09月21日 09時34分41秒

山口敦子と太田三造at国分寺ギーで。
★コロナ禍で、分断と孤立が深まり自殺者が増えていく時代だからこそ

 コロナウィルスの流行と感染防止のためとして常時マスク着用は当然のこととして「三密」を避けるなどの「新たしい日常」やら「新しい生活様式」が感染症専門家や為政者たちから提唱されて以降、直に出かけて人が人と向き合い会うことじたい、すべきでない、避けるべきこととして、テレワークやリモートなる何でもオンラインで代替していく「ニューノーマル」なる社会に変貌してしまった。買物すらネット通販と飲食店から自宅までのデリバリーが大盛況である。人と直に会わずに何でも済ましてしまう、ある意味これはノーマルどころか異常な事態であろう。それしか対策がないとしても、だ。

 我はそんなバカなことはいつまでも続かないと当初は考えていた。そもそもそれは人間の根源的願望、生理的要求と相反することだから。
 が、コロナの本格的流行から約半年が経過して、このところ全国的にはようやく感染者数は減少傾向にあるものの未だ都心部ではウイルスは微増減を繰り返しており、収束とは程遠い状況にあると言えよう。
※ましてイベントの来場・観客者数を緩和してこの三連休に臨めばどこも各地はスゴイ人出である。これではまたも新たな感染拡大の波、第三波が起きても当然至極である。

 ワクチンが近く完成したとしてもそれが広く一般普及するまではかなりの時間がかかるわけで、おそらくこのまま我らは、このウイルスと共にアフターならぬ「ウイズコロナ」としてこの異常な「ニューノーマル」状態は半ば恒久化していくと思えてきた。
 日本人は特に、感染症に対しては過敏かつきわめて神経質な国民性で、ましてコロナに感染するのは恥ずべき、悪いことであるようだから、感染者は収束傾向にある今でもマスクの着用率は、公共機関や電車内やショッピングモール、遊園地など人が「密」になる場所では以前に増して高まりほぼ100%だと我は見ている。この我すらも今ではそうした場に足を踏み入れる時は使い捨てマスクを着用している。でないと周りから何をされるかわからない。
 国内どこそこの空港で、マスクをしていない乗客がつまみ出されたとかの報道があったと記憶するが、この「ニューノーマル」状況が普及し一般化、徹底化された今の雰囲気ではしごく当然のことであろう。

 オンラインで今は確かに何でも代用代行できるのである。日本人は元々欧米人に比べて友人を集めてパーティーを催したり教会に日曜ごとに行って集うという習慣はない。友人を家に招く習慣も少ない。
 ある意味元々オタク的というか、引きこもり的ごくマイホーム主義的国民性であった。そしてこのコロナ禍でその傾向、嗜好性に拍車がかかった。
 そう、ある意味楽なのである。じっさいにわざわざそこまで出かけ足を運び人と会って話して用事を済まさねばならないというのは存外大変でときにかなり苦痛を伴うことだ。人と会うことは向うの立場も気持ちも忖度しないとならないわけでともかく面倒で気の重いことではないか。
 それは我自身そうした性格気質で、人見知り激しく集団生活になじめず不登校から引きこもり的半生を生きてきたからこそ心底わかる。
 通販の配達員とは、言葉もいらないしアマゾンなど今は「置き配」ということもできるから、一切顔すら合わさずに済む。
 買い物にしてもマスクをしていれば余計な会話も不要だから基本他人と関わりを持つ必要はほとんどない。
 父に関してもこのコロナ感染下、人との距離を保つことこそが善であり最優先のことだから、以前はよく訪れてきた市の福祉課の職員も来ないし都内にいる唯一の親族、彼の孫もこの半年以上我が家には感染うつすことを怖れ姿を見せない。

 この新型ウイルスは感染拡大防止の名目で、まさに人と人との距離をつくり、人との関係、人間社会を「分断」してしまったのである。
 そして結果として何が起きて何が起ころうとしているかというと、人々各自の孤独孤立の深まりとそれが引き起こす自殺である。特に一人暮らしの高齢者と若者が多いのではないか。
 若者ならネットで何でも語らえ繋がっているから孤独ではないというのは幻想で、ネット社会こそ自らを取り繕い人気ある、魅力ある姿に見せない限り他者はやってこない。愚痴や情けないことや本音を書くと無視されるならまだまだマシで、時に炎上したり徹底的に否定されもする。
 高齢者も以前なら民生委員や近所の人が頻繁に様子を伺いに来ただろうが、この「ニューノーマル」社会ではそれは控えるのが正しいことだから、結果として自死に近い孤独死を迎えてしまう。
 人は単身者であろうとも以前ならば近くの居酒屋に出向き、酒の力を借りて「知らぬ同士が小皿叩いて」出会い意気投合することもあった。だが、今では席と席も放されて隣の客と語り合う機会もない。そんなことは許されない雰囲気だ。
 人はどこまで孤独に置かれるか、その孤独の先に何があるか、である。耐えられる人はそれでいいが誰もがそんなに強くはない。

 アメリカ社会では、トランプ政権下、コロナ流行もあって分断と差別、格差が広がって大きな社会問題となっている。
 日本の場合は、格差はともかく、コロナ差別と共に、人と人との分断と孤立化がさらに進んでいると我は思える。今、孤独に悩み苦しんでいる人が間違いなくたくさんいる。
 コロナは、当たり前にあった人と人の繋がり、機会と場を断ち切ってしまったのだ。ならばそれを取り戻すアクションを我々は今すべきで、それを成し得てこそ真にコロナに打ち克つ、克服したと言えるのだと我は信ずる。

 人は自分でじぶんを助けることは難しい。それを強いるのなら政治は不要である。公的支援という言葉こそコロナ時代に最も求められているはずではないのか。
 そんな時代に何ができるか。何をどうすべきか。
 ともかくこのコロナ禍で遠く疎遠となってしまった人にまずはメールでも声をかけあい連絡密にして、ともかく一度直に会う場を設けることではないか(もちろん万全の感染防止対策の上で)。

 そのためにまずは「共謀コンサート」、生の素晴らしい音楽を用意して思想心情は抜きにしてどなたでも迎え入れたい。そしてマスク越しでもとことん本音を語り合いたい。
 ただし、客席数には密を避けるべく上限を設けねばならないから、参加予約のご一報入れて頂き、ご参加ご来場ください。


 人はこんな時代だからこそ孤立しないよう手を差し伸べねばならない。むろんお互いよく手は消毒したうえで、だ。