母への詫び状2011年02月20日 22時09分41秒

★早朝の病室で泣きながら悔い詫びた。

 昨晩はほとんど眠れなかった。ほんの短時間まどろみ、世が明けるのを待ち車で立川の病院まで一人で行った。

 前回書いたように、腸内に溜まった水分を出すには、鼻からチューブ入れてベッド下の袋に取り溜めるしかない。それを24時間やらないと同じく24時間続けている点滴が続く間、腹にもその水が常に溜まっていく。
点滴をやめれば栄養は摂れない。点滴を続ける限りこのチューブはまだ外せない。

 しかし片方だけとはいえ鼻からパイプを通しているのは息が制限されかなり辛い。自分も前回報告してから自ら試しに母と同じく片鼻を塞ぎ呼吸してみた。
 口はカラカラに渇くし、酸素不足で頭が痛くなってきた。こんな状態で話すことはそのときは息とめることなのでさらに呼吸できなくなる。道理で昨日夕方、パイプ鼻に入れられた後会ったときから顔色が赤いわけがわかった。その苦しみを思い胸がつぶれるような思いがし果たしてこれで大丈夫なのかと不安で眠れなかったのだ。

 夜が明けるのを待って車で7時頃病院へ。母は目覚めていた。
 酸素が足りないため顔色はやや悪いが思ったより元気そうでほっとした。
 呼吸も慣れればこれでも辛くないと言ってくれたが。水も飲めずただカラカラの口内をうがいで湿らせるだけ。ともかくこれが抜けて口からまず口から食べられるようになってからと本人は気丈に前向きだった。

 行って母の顔を見ただけで涙が溢れた。そしてベッドに跪き、これまでの自分の行いを心から詫びた。今にして思えばとるに足らないことでストレスが溜まり、父とぶつかり親子喧嘩したりしてその都度母はおろおろ仲裁に入り胸を痛めていた。また去年は出かけてばかりいて随分家の負担をかけた。
 これまでの自らの愚かさ、そして甘えが彼女を、そして父をこの老いた親たちを苦しめてきたのだ。

 そしてバロンのCDを一枚示して、初めて息子がやっていることを知らせた。実はネットで古本は売っていることは知っていても音楽に何か関わっていることは薄々気がついたとしてもレーベルを作りCDを出したことなど知らせていなかった。
 秘密にしていたわけではないが、もっとモノゴトがうまく動き出して、ライブなど家でやれるようになったら実はこれも、と驚かせようと思っていたのだ。しかしこのところずっと慌しくその機会を逸し、今また母は病に倒れてそのままとなっていたのだ。

 そして今後の自分の夢話し、父とも仲良くやっていくからなにも心配しなくても大丈夫だからと手を握った。
 母はやさしく微笑んでくれた。

 いったん家に戻り、いつも手伝ってくれている友人と一階の個室を片付け母が戻ってきたときのように電動折りたたみベッドを設置し今日はひたすら家の掃除をした。

 母のすぐ下の妹が千葉から来てくれて、午後立川駅前で落ち合って病室に連れて行った。母はもう来なくても良いと早朝のときは言っていたが実の妹が来たのでとても喜んだ。彼女のところは遠いので、今晩はウチに泊まり、明日もう一度見舞いに来る。
 担当医から、息子さんに話しておくことがあると月曜に呼ばれている。そのとき立ち会ってもらおうと考えている。先日の告知のときも別の叔母さんが偶然来て一緒に話を聞いたし、気の弱い自分にとって心強い援軍である。神様はうまく計らってくれると思う。