同世代、同時代人の死を悼む・勘三郎が死ぬなんて2012年12月05日 22時37分55秒

★あまりにも早すぎる死であった。

 勘三郎、いや、どうもピンと来ない、今も勘九郎としか呼べない。その中村勘三郎が急逝したとの報が朝から駆け巡った。今日は一日暗澹たる気持ちに囚われている。何でだっ!と憤る気分であった。

 自分はもとより歌舞伎ファンでもないし、伝統芸能にも全く詳しくない門外漢である。でも勘九郎は昔からテレビから書いたものからよく知っていて、じっさいにその舞台を観なくても彼の活動はほぼすべてリアルタイムで共に生きてきたと思っている。それが同時代性ということだ。
 歳は彼のほうが少し上だが、昭和30代生まれのほぼ同世代であり、同時代を生きているというシンパシーをずっと抱いていた。だから気持ちのうえで仲間であり、ファンとして好きだとか以前に同志的に昔から好ましい人、大切な人であった。

 最近次々と団塊の世代の人や、もっと歳若い人も病気で不慮の死を遂げるが、やはり一番つらいのは同世代、同時代の仲間の死であることに今日気がついた。まだ50代半ば。あと20年は十分生きられたはずだし、その頃にはまさに人間国宝となる逸材であった。惜しいとか残念を通り越して憤りさえ覚えるはずだ。
 このところ体調を崩されていることは知っていた。が、食道がんの手術も終え、もう少ししたらまた元気なあの笑顔を見せてくれると誰もが信じていた。なのに、今朝方のまさかの訃報である。当人こそが無念を通り越してあの世で信じられない思いでいるに違いない。これもまた運命とはいえ、運命の神の無慈悲さを呪う。

 勘九郎、あえて勘九郎と書くが、彼の魅力は歌舞伎という今では堅苦しささえ覚える伝統芸能の世界で、ずっとそこに収まらない軽み、ひょうきんさを持ち続けてきたことだ。それはおちゃらけではなく、観客を楽しませ沸かせるサービス精神であり、歌舞伎が本来持っていた「かぶく」という精神そのものであったのだと思える。

 何の舞台だったか、張りぼての石がアクションの途中で外れて動いてしまったことがある。彼は、芝居の途中でわざわざそれを力入れて運ぶしぐさで持ち上げて元の位置に戻して観客を笑わせて大喝采を浴びた。そうしたアドリブ性、お茶目さが彼の持ち味で、自分のツボにすごくはまったし、ゆえに関心を持ち続けていた。封建的な歌舞伎の世界に留まらない彼の個性、生き方は前衛的、アバンギャルドと呼べるほどであった。だから現代劇のドラマにも気軽に出たし、他のジャンルの演劇人との親交も深かった。そうした感覚こそが自分が共感する同時代性であった。

 そしてともかく勉強熱心で教養も深く、彼の書いたもの語った本には独特の含蓄に溢れていたし大スターでありながら腰も低く、義理堅くいちど関わりを持てば他の人の舞台も時間が許さなくても観に出かけた。ゆえにファンのみならず誰からも愛され慕われた。その活躍の場は国内外を問わなかった。誰もが歌舞伎界、日本演劇界を背負って立つトップスターだと目していたのだ。

 ただそうした八面六臂の活躍、がんばりがいつしか彼の体を蝕んでいたのだろう。若いときはともかく、50代は長年の疲れがそろそろ噴出してくる頃である。自分もわかったことだが体のあちこちにガタが出てくる。常にどこかしら不調がある。ここをうまく調整して乗り切りしだいに老人期の肉体とライフスタイルに移行できれば70、80まで生きられる。だが勘九郎はあまりに無理しすぎた・・・そしてあまりにも良い人すぎた・・・

 自分にとって勘九郎の死は、歌舞伎、演劇界のみならず同世代、同時代を牽引したトップランナーを失ったことを意味している。歌舞伎にはろくに関心のない自分のような者にとっても痛恨の極みとしか言葉がない。いつも彼の走り続ける姿を横目に見てきた。もうあの笑顔にも会えず声も聞けないのか。世代を引っ張ってきたリーダーを失った今発する言葉もない。ただ合掌あるのみだ。

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