人は悼み哀しみを分かち合える2014年03月31日 23時20分12秒

★相身互い分かちあい痛みを乗り切っていこう        アクセスランキング: 208位

 前回のブログに関して、直接のコメントはなかったが、私的メールが何人もの方から届いた。皆さん、生前のT氏とウチのイベントなどで面識があり、その死の報告記事に、誰のことかすぐわかった、とても驚いた、ショックを受けたと、さらに当方をも気遣い励ます有難いものであった。個別に後ほど返礼のメールを送るつもりだが、まずはこの場で深く感謝いたしたい。

 おかげさまで、昨晩は久しぶりに深夜に目覚めず朝まで熟睡できた。今も気づくと無意識的に常にT氏のことを考えてしまう自分だが、ブログを書いたこととそれに対しての友人知人からの暖かい励まし、同情によって今はだいぶ救われた気がしている。
 皆、T氏を深く惜しみ悼むと同時に、無頼庵のイベントの場では彼も楽しそうでしたと書いてくれていて、また少し泣いてしまった。そうであれば幸いであり彼の魂の慰安にもなったかと思う。

 そしてようやくわかった。「葬式」というものは故人のためのものでなく、遺された者たちが集い、哀しみを分かちあうためのものであったのだと。
 今まで私的には葬式など不要、時間と金の無駄だと考えていた自分だが、考えを改めた。人の死は個人個人が個別に受け止めるのにはあまりにショックで重すぎるが故、葬式という集いの儀式が生まれたのであった。
 あの世があるとかないとか、死者の無念とか思いは生きている者には何一つわからない。葬式や追悼式、お別れ会をしても亡くなった方は生き返るわけでもなく何一つ彼らは反応しない。抜け殻となった肉体はあってもそこには彼はもういない。だが、そうした儀式は無駄ではなく、それらは生きている者たちにとって哀しみを分かち合うためには必要不可欠な集いであったのだ。特に遺族にとって他者の哀しみが救いと癒しになる。
 人が他の動物と異なる唯一の点は、他者と共感、同情できることだ。他人の出来事にも同情し涙を流したりするのは人間だけだ。つまり喜びも悲しみも怒りさえも共有し分かち合えるのであった。

 今回のT氏の一件、そのブログに、多くの方々から励ましのメールを頂いた。その記事は誰にとってもショッキングなものでしかなかったと思うが、誰もが皆T氏を悼み哀しんだ。その哀しみを分かち合い、その思いが共有できたことで我もまた救われたのである。誰にも話せず一人で悶々とその「痛み」を抱え続けていたらばやがては自分も心を病んでいったかもしれない。辛く哀しいのは自分だけではないと知ってずいぶん楽になれた。その励ましに救われた。そう、どんな辛いことでも人は励まし合い乗り越えられるのだ。

 T氏についても彼を知る方々とはかって、近くお別れ会のような集いを持とうと思っている。人は必ず誰もが死ぬ。葬式とは死者のためのものではなく、遺された者たちがこれからも生きていくため哀しみを語り合うために必要なものであったのだ。
 人はすべてを分かち合える。共有できる。哀しみも喜びも分かち合えるからこそ、人は人なのであった。彼の死はそのことを教えてくれた。

 今も哀しみの大きさは変わらない。が、その荷を共に背負ってくれる仲間たちがいた。本当に皆さんありがとうございました。
 もう大丈夫です。ご心配おかけしました。ごめんなさい。

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