こんな我をも信じ求めて・・・続き2015年04月02日 21時58分01秒

★自らの固いベッドで眠れ              アクセスランキング: 192位

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 自業自得とは、仏教用語で、現在は本来の意味とは違い、悪いことをした報いが自らに及ぶという意味で用いられている。いわば因果応報であり、巷間、身から出た錆と同義で使われているようだ。

 いっときのベストセラー本で、『原因と結果の法則』なる翻訳本があったが、それもまた同様のことを説いていたかと覚える。
 自らのしでかした失態、失敗から多くの関係者に不信の念を与えてしまい、深く反省した、もう繰り返さないと宣言しても一度失った信頼は戻らず旧くからの友すらも失ってしまった。

 まさに我が身の不徳の致すところであり、忸怩たる痛恨の思いがあるが、振り返ってみるとわが人生はそうしたことの繰り返しであって、根本がバカだからちっとも改まらないのであろう。
 むろん、そうした愚かなデフォルトが良いはずはないし、肯定どころか開き直りもできない。結果、人様にご迷惑と不快の念、傷つけ不信の念を与えるだけでトラブルを起こすだけなのだから反省どころか深く悔い改めなくてはならない。

 今は失ってしまった信頼が少しでも取り戻せるよう言葉ではなく行動で示すしかない。が、今の状況、自らのまいた種が招いた苦境もまた個人的には全面的に悪いことばかりではないと思えてきた。何より自分という人間を深く知り見つめ直すことに繋がったからだ。全ての根本原因は、我が甘さ、甘え故であった。むろんご迷惑をおかけした関係者にとってはとんでもない、許しがたい話であろうが。

 聖書の中、ヨハネ伝に興味深い記述がある。弟子たちを連れたイエスが生まれつきの盲人と出会う第九章。

 弟子たち曰く「先生、この人が盲人なのは誰が罪を犯したためですか。本人ですか。それともその両親ですか」と問う。
 その問いに対してイエスは「本人でも両親が罪を犯したからではない。ただ、神のみわざが、彼の上に現れるためだ」と言い、地に唾を吐き泥をこねて、その泥を盲人の目に塗り「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じた。池で目を洗い見えるようになった彼は大喜びでイエスを讃えた、と記される。この章は繰り返し読んでも様々な解釈が得られる。

 気の毒な盲人を前に、彼の罪について論ずる弟子たちも思えばずいぶん無神経であろう。また、多くの人が指摘するように古代ユダヤ社会でも仏教的因果応報の考えがあったことがわかる。つまり、悪結果は、悪い根本要因がそもそもあるが故もたらされたのだと。
 が、イエスはそれを否定し、神の御子として、神の業で盲人の目を治された。自分にはずっとイエスの言っていることが良く理解できなかった。
 イエスとリアルタイムで出会った者ならばこうした奇跡に与れよう。が、それから二千年後の我々には、「神のみわざ」などどれほど願ってもかなわぬことでナンセンスではないのかと。

 障害を持って生まれた人、健常であっても何かのきっかけで障碍者となった者は、むろんのこと因果応報の結果ではない。が、この国には「親の因果が子に報い」という考えも長くあったし、自業自得どころか先祖の祟りという民間信仰のようなものすらもあった。が、イエスはそれを全面否定した。そのことは素晴らしい。が、神のみわざが現れるためとはどういうことなのか。

 今の自分にはわかる。全てのことは神の計らい、恵みであり、良いことも悪いことも愛と慈しみという神の「光」が当てられるがためにあることが。むろんのこと全ての行いは、原因があるから結果が起こる。ある意味、自業自得なのである。が、その悪い結果すらからも得るものと学ぶところ、つまり良いこともあるわけで、それこそが「神のみわざ」か現れるためなのではないのかと。

 他者を非難することも批判することもたやすい。が、苦難の時こそ、ヨブの元を訪れた友人たちのようになってはならないと信ずる。ヨブに訪れた苦難はヨブ自らが招いたものではない。我がそんなことを言える立場にないのもわかっているが。