何が起きたのか・3 ~そして今、これから ― 2015年07月11日 06時11分36秒
★弱い、小さい者として 淋しさを見つめ愛を抱え生きていく
こんな大変なご時世にどうでもいい私事をだらだら書いて申し訳なく思う。
あれから数日が過ぎた。
体調のほうだが、実のところメマイはあまり改善されていない。一日中鈍い頭痛と立ちくらみ的ふらつき感は残っている。薬は飲んでいるのだがなかなか収まらない。
しかし、吐き気につながるほどのぐるぐると目が回るようなひどいのは起きていない。だから日常生活としては問題なくやっている。
気分はというと今は台風が過ぎた後のようにスッキリと晴れ渡っている。体調は良くなくても気分は悪くない。何の不安も心配もない。心配事はあってももう囚われはしない。
先に発狂したと書いた。今振り返るとそれは一時的なことではなく、もう何年も同様の状態にあったのだと気づく。
皆様には大変心配とご迷惑をおかけしたが、7月5日を過ぎて、その日を境に「正気」にかえった。
ダマスコでのサウロの「回心」ほどではないけれど、目からうろこのようなものが落ちたわけではないが、心の中にずっと抱えていた煩悩、欲の根源となっていた固まりが落ちた。
つくづく自分は欲深く傲慢な人間だったと思う。臆病なくせにプライドだけは高く、常にすべてを自分勝手に思い通りに動かそうとしていた。何もできないのに自己愛に満ち己惚れていた。まさに罪深い。
そして何よりも常に自由を欲し、思い通りに生きたいと願っていた。それは他者をもとりこみ従わすことを意味していた。
そういう人間がこのところ老親とのことや、自らの失態で引き起こしたトラブルから生じた人間関係の滞りで身動きがとれなくなって、何一つ思い通りに進まず悩み苦しんでいた。ただただ焦り苛立っていたのだ。
人は自らが思い通りにならないと、外にそれを求めていく。物や他者に求めていくと気づく。
ネットでちょっと心惹かれる物に出くわすとやみくもに買い求めたり、他者との関係で新たにあれこれ求め期待していた。が、しょせん「外」のことでは根本解決になるはずもない。物ばかりさらに増えて金だけが確実に減っていった。
まして他者は思い通りになるはずもなく、期待し願い、待つことで囚われまた疲れさらに心は疲弊していくばかりだった。
そしてそうした愚かな行為の積み重ねは当然ながら破綻し爆発した。
ようやく目が覚めた。
自分がダメであること。自分の愚かさや迂闊さ、バカさ、甘さ、考えのなさはこれまでも度々書いたし自認していた。が、それこそが甘えであった。つまるところ、いくら言葉を重ねてもそれは「弱さ」に尽きると気づいた。弱さとは小ささと同義であり、その弱さこそ、卑小さこそが自分の本質であった。
ようやくそのことに気がついた。そしてそれを認めた。認めたくはなかったが、そういう誰よりもたぶん世界でいちばん弱い人間なのだと。
そしたら楽になった。そして抗うことなくすべてを受容れていこうと思った。
まだ神の声を聞いてはいない。けれどもこんな人間でもまだ死なずに生かされているのにはそこに理由はあるはずではないか。
確信も自信も何一つない。が、残りの人生は、誰をも否定せず、全てを受容れてただ感謝して生きていかねばならない。
こんな弱い小さな人間と関わってくれた方々すべてに恩を返して報いていく。たとえ我を詰り、罵った人に対しても同様に。何故なら彼の人は無視することなく対処してくれたのだから。
無情の世界には愛が足りなさすぎる。ちっぽけな自分に何ができるか心もとないが、自分のことではなく天のはからいに従い耳を傾け生きていこう。
淋しさもある。けれど、神様はいつも傍らにあり常に見ていて守ってくれた。また、多くの他者はこんな人間を気づかい案じてくれたのだ。有難いことだ。まさに有難い。ならばその恩に報い返していかねばならない。愛こそがすべてだ、とパウロもレノンも説いている。
小さな弱い人間がささやかな愛を返していく。
こんな大変なご時世にどうでもいい私事をだらだら書いて申し訳なく思う。
あれから数日が過ぎた。
体調のほうだが、実のところメマイはあまり改善されていない。一日中鈍い頭痛と立ちくらみ的ふらつき感は残っている。薬は飲んでいるのだがなかなか収まらない。
しかし、吐き気につながるほどのぐるぐると目が回るようなひどいのは起きていない。だから日常生活としては問題なくやっている。
気分はというと今は台風が過ぎた後のようにスッキリと晴れ渡っている。体調は良くなくても気分は悪くない。何の不安も心配もない。心配事はあってももう囚われはしない。
先に発狂したと書いた。今振り返るとそれは一時的なことではなく、もう何年も同様の状態にあったのだと気づく。
皆様には大変心配とご迷惑をおかけしたが、7月5日を過ぎて、その日を境に「正気」にかえった。
ダマスコでのサウロの「回心」ほどではないけれど、目からうろこのようなものが落ちたわけではないが、心の中にずっと抱えていた煩悩、欲の根源となっていた固まりが落ちた。
つくづく自分は欲深く傲慢な人間だったと思う。臆病なくせにプライドだけは高く、常にすべてを自分勝手に思い通りに動かそうとしていた。何もできないのに自己愛に満ち己惚れていた。まさに罪深い。
そして何よりも常に自由を欲し、思い通りに生きたいと願っていた。それは他者をもとりこみ従わすことを意味していた。
そういう人間がこのところ老親とのことや、自らの失態で引き起こしたトラブルから生じた人間関係の滞りで身動きがとれなくなって、何一つ思い通りに進まず悩み苦しんでいた。ただただ焦り苛立っていたのだ。
人は自らが思い通りにならないと、外にそれを求めていく。物や他者に求めていくと気づく。
ネットでちょっと心惹かれる物に出くわすとやみくもに買い求めたり、他者との関係で新たにあれこれ求め期待していた。が、しょせん「外」のことでは根本解決になるはずもない。物ばかりさらに増えて金だけが確実に減っていった。
まして他者は思い通りになるはずもなく、期待し願い、待つことで囚われまた疲れさらに心は疲弊していくばかりだった。
そしてそうした愚かな行為の積み重ねは当然ながら破綻し爆発した。
ようやく目が覚めた。
自分がダメであること。自分の愚かさや迂闊さ、バカさ、甘さ、考えのなさはこれまでも度々書いたし自認していた。が、それこそが甘えであった。つまるところ、いくら言葉を重ねてもそれは「弱さ」に尽きると気づいた。弱さとは小ささと同義であり、その弱さこそ、卑小さこそが自分の本質であった。
ようやくそのことに気がついた。そしてそれを認めた。認めたくはなかったが、そういう誰よりもたぶん世界でいちばん弱い人間なのだと。
そしたら楽になった。そして抗うことなくすべてを受容れていこうと思った。
まだ神の声を聞いてはいない。けれどもこんな人間でもまだ死なずに生かされているのにはそこに理由はあるはずではないか。
確信も自信も何一つない。が、残りの人生は、誰をも否定せず、全てを受容れてただ感謝して生きていかねばならない。
こんな弱い小さな人間と関わってくれた方々すべてに恩を返して報いていく。たとえ我を詰り、罵った人に対しても同様に。何故なら彼の人は無視することなく対処してくれたのだから。
無情の世界には愛が足りなさすぎる。ちっぽけな自分に何ができるか心もとないが、自分のことではなく天のはからいに従い耳を傾け生きていこう。
淋しさもある。けれど、神様はいつも傍らにあり常に見ていて守ってくれた。また、多くの他者はこんな人間を気づかい案じてくれたのだ。有難いことだ。まさに有難い。ならばその恩に報い返していかねばならない。愛こそがすべてだ、とパウロもレノンも説いている。
小さな弱い人間がささやかな愛を返していく。
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