人生は誰のものか2016年12月17日 22時40分28秒

★人生は本当にその人のものなのか。

 毎日何だか知らないがともかく忙しい。今日、父はデイサービスに行ってくれたので、直の父の世話、というより彼の汚した衣類の洗濯や、掃除、そして諸手続き、お金の計算などで、あっという間に一日が終わってしまった。
 こうして、気がつけば今年も終わる。今日も自分のことはほとんど何もできなかった。

 今、父を寝かせて、これから犬たちも夜の散歩させて、家に入れればいちおう明け方までは静かに寝ていてくれるかと思う。
 これからこそが我の時間で、自分のことにようやく専念できるのだが、寒いこともあるが夜になると疲労困憊で起きてられず、今日の収支決算、家計簿や出来事だけつけたら、それだけでもう倒れ込むように我も寝てしまう。このところそうしたことの繰り返し。

 なかなか腰据えて、ブログ書くのにに専念できるのは、父が不在で、家のことを一仕事終えた午前中ぐらいしかない。
 母が生きていたときから思っていたが、今はもう自分の人生がなくなってしまった。母は死んで手がかからなくなったが、父が生きている限り状況はほとんど変わらない。政治の事やいろいろ思うところはあるけれど、「人生」について考えたことを書きたい。

 人生は、言うまでもなく、その人のもの、その人個人のものであるはずだ。誰とも取り替えもできないし、代わって生きることもできやしない。
 が、その、自分だけの人生を、どれだけの人が、自分のものとして思い通りに生きているのだろうか。
 よく、人生は思い通りにならないものだ、と誰もが言う。しかし、その前に、思い通りになるもならないも以前に、「自分の」ものとしての人生を生きている人はどれだけいるのかとよく考える。

 我がことを書けば、我ほど、好き勝手に、思い通りに人生を生きた者は他にいないと思える。それは、思い通りに人生がなった、願いがかなったという意味ではなく、物心ついてからこの半世紀、好き勝手に、自分のしたいように常に生きてきたという意味だ。
 きちんと就職もしなかったし、世間一般の社会人、=大人が当然すべきことは何一つしないで、責任も果たさず身勝手に生きて来た。それこそが反体制、アウトロー的な生き方としてカッコいいと思っていたし、そんな息子を勘当せずに、甘やかし認めてくれた両親という恵まれた環境にあった。
 ただ、この数年、その親たちが老いて衰えて来て、彼らだけでは生活が難しくなってきたことと、我も当然のこと、生活が苦しくなってきて、ある意味双方の利害が一致して、共に暮らすことで一家は何とかやってきた。
 それでも親たちの世話、家のことをやりつつも我は、自分の事、趣味的人生をほぼ思い通りに生きて来た。それはずいぶん恵まれていたと思う。世間の同世代の人たちが、子育てや仕事に追われて生活維持に日々忍耐と苦渋の人生を四苦八苦しつつがんばっていた頃、我はお構いなくのほほんと「我が事」だけに夢中でいられたのだから。

 ただ、特にこの一年、母の癌が再発して、じょじょに、確実に衰弱してきて、治療も何も、病院通いと、体調の変化に振り回されて、挙句に自宅で死ぬまでの数か月間、24時間看護することとなって、我の人生は母の事と家の事だけで費やされた。息抜きは、犬の散歩と近所での買物だけであった。
 それは辛かったけれど、嫌だとか、拒むことも抗うこともできなかった。何故なら、我を、長年好き勝手にさせてくれた親たちの面倒を看るのは当然のことであり、孝行かどうかはともかく、それこそが恩返しだと思っていたから仕方ないことであった。そしてそこには生き甲斐も見いだせた。それは母と共に癌と闘い、必ずや克服できるという願いであった。
 24時間、家にいて、母の体調を気遣い、どこにも出かけられず誰とも会えず、何一つ自分のことはできず、まったく我が事、我が人生はなくなってしまったけれど、それこそ「年貢の納め時」だと思っていた。
 つまり、就職もせず、結婚もせず、孫の顔も見せられず、ろくに家に金も入れず、この歳になるまで好き勝手に生きて来た息子としては、せめて親たちを介護し看取る事だけが、罪滅ぼし、いや、相殺できることではないが、人の子として成すべきことだと思っていた。
 そのまま、病んで死に行く親を、放棄、放擲して病院や施設任せにして、相変わらず好き勝手に我が事だけに生きられるほど我は極道でもなかったし、確信犯でもなかったから。

 そして母が死んで三か月経ち、ようやく様々な名義変更や、相続的な諸手続きも終えて、今もまだ母の遺した衣類や書類、雑貨やがらくたは手つかずのままだが、気持ちの上では、「母の死」はやっと決着がついた。
 ならばまた前のように、好き勝手に、我が事に再び専念できるかというとまったくそうはならない。認知症の要介護3の父と共に暮らしているからで、よたよたでろくに歩けない身体は母が生きていた頃と状態は変わらずとも、呆けはさらに確実に度を増して、尿失禁に加えて排便までも制御不能になりつつある。

 母が生きていたとしても寝たきりだったのだから、我が父の世話するしかなかったのだが、呆けて手のかかる父と二人暮らしは、精神的にかなりの負担となってきている。
 物忘れが激しく、何度でも同じ質問を繰り返し、説明し言い聞かせてもそのときは納得しても一晩寝ればまた忘れて騒ぎ立てる。そしてささいなことでパニックを起こす。まさに我の忍耐が試されている。
 母の介護は肉体的にともかく大変で辛かったけれど、母は意識はしっかりしていたから最期の日までそこに愛と希望があり、コミュニケーションが成り立っていた。
 父は今、肉体的には健康で、特に病むところはないのに、人としてのコミュニケーションが難しい。言われたことは守らないし、勝手なことはしては息子の負担をさらに増す。我は日々キレまくりで、またそのことで双方が傷つき疲弊してしまう。

 死に行く母と過ごした日々もある意味、地獄であったが、狂人と化した父と暮らす方が地獄度は高い。告白すればそこに「愛」はない。母に対しては愛おしさがあり、どんな辛苦も我慢できた。父に対しては憎しみこそはないものの、その愛おしいと思う気持ちが持てない。
 それは男同士、同性ということもあろうが、若い時から父とは根本的に理解しあえない、わかり合えない溝がある。
 ただ、父を一日でも長く生かすことだけが、我にとって亡き母への義務であり、それこそが供養だと思う。このまますぐに父をあの世に送れば、向うで母も「もう来たのかよ」と呆れることであろう。
 とにもかくにも、母は既になく、父一人でも父が生きている限りは我が人生は、我の思い通りにちっともなりやしない。

 では、父を看取って、母の元に送れば、また再び人生は我の手のうちに戻ってくるのであろうか。以前のように、好き勝手に、思い通りに、世話焼かねばならぬ親たちがいなくなれば我は再び自由に生きられるのだろうか。
 【長くなったのでもう一回続きます】

続・人生は誰のものか2016年12月18日 09時25分21秒

★人は、人と、人のために生きてこそ人

 【前回の続き】今、父をデイサービスに送り出してこれを記す。

 言うまでもないが、人生はいろいろ、人それぞれ様々であって、結婚し子供を作ることだけが正しいあり方、善だとは言えない。
 結婚しないという生き方、結婚したとしても子を作らない、あるいは子のできない夫婦だっていくらでもいるし、その人の人生なのだから世間一般的「常識」に囚われる必要は全くない。人様のことをとやかく言う資格は誰にもない。
 ある意味、全てはなるようにしかならないし、どれほど努力したって金を積んだってかなわぬことはいくらでもある。人はただ、その「与えられた」人生を、精いっぱい一生懸命に生きるだけだ。
 我は、母を喪い、やがては父を送る歳、今頃になって、これまで生きて来た日々を振り返って、悔やむことも多い。それは、人並みに「まっとう」に生きなかったことを悔やむのではなく、アウトサイドを生きるのならば、その道をとことん究めれば良かったという悔いである。
 今思えば全てが中途半端で、親も含めて人任せにして人に頼ってばかりいて、全てが甘かったと気がつく。
 どこにも属さない道を選んだなら、本来誰も助けてはくれないのだからとことん自らを鍛え力を蓄え、技を磨かねばならなかったのだ。頼るは自分のみだったのだから。
 そしてどのような生き方をするにしろ、常に真摯に人生と向き合い、きちんと無駄なく人生に真正面から、逃げずに取り組み、その人生を意義あるものにせねばならない。誰に対しても卑怯者、臆病者であってはならない。
 恥ずかしく情けない話だが、今、人生を新たなスタートを切るにあたって、自分は本当に卑怯な怠け者だったと思う。社会や世間に抗い異議申し立てしてたのではなく、単にネグレクトして、果たすべき義務から逃げて、人生そのものを放擲していたのだ。
 そして今、自らの人生をも失い、ではこれからまだ死ぬわけにもいかないのならば、どうして生きていこうかと真剣に考え始めている。
 どうしたらもっと自由に、思い通りに生きられるか。昔から常に考えていたのは、そのことで、若い時からさんざん好き勝手なことをしてきたのだから、ヒトから見れば「思い通り」に生きたと見えるかもしれない。
 しかし、好き勝手にやることと、モノゴトが思い通りになることは、また別次元の話なのであって、好き勝手に生きたから満足したと言うことは一度もない。モノゴトが成ったとしてもそこには苦い思いが常につきまとうし、経済的にも人間関係的にも大失敗して、後々までも何年も悔やみ続けたことも多々ある。
 でも生きるとは、どんな生き方であれ、多かれ少なかれ誰でもそうしたものではないだろうか。何事も計画立ててうまくやって、常に満足している人がいるのだろうか。

 若い時からの我の夢、というか、理想の人生の姿として、思い描いていた一つは、仕事などで外に出て働くことなく、どこか静かな森の中か、他に誰もいない小島で、好きなミステリーの本を読みながら、好きなジャズのレコードを聴きながら、誰にも会わずに暮らすというものであった。むろんそこには、電気もあるし衣食住の心配や悩みは何もない。ただ一人で、誰にも会わずに好きなことだけして悠遊と暮らす。
 若い時は、そんな「老後」を思い描いていた。最近までだって、母を介護しながらそんなことをぼんやり思い描いていた。

 そして今、老いのとば口に立って、もし仮に、我が年金生活者となって、そんな風な生活、本と音楽三昧の生活が送れるとしても、果たしてそれは幸福か、満足するだろうかと考えなおしている。たぶん一か月もしないで、うんざりしてしまうのではないか。
 我はこんな性格だから、会社勤めは無理だと自認していたし、じっさいどこも勤まらなかったが、人は働くべきだと考えている。どのようなものであれ「仕事」がある事は幸福であり、何も成すことなく、好きなことだけしろ、と命じられても最初は喜んでも苦痛となるのではないか。むろん生活のため金の事で頭悩まさないのならそれもまた安泰、安寧だとは思うものの。
 
 金の事を書いたが、母が死んで、今現在は母が遺してくれた保険のお金などで、正直多少の「臨時収入」が入った。むろんそれだって、我が働かずそれを自由に使ってしまえば、1年そこらで消えてしまう程度の額だが。そしてその金で、今まで買えなかったもの、家の備品や修繕にあてている。それでも母が死んで得た金を使うのは気が重く、万が一に備えてできるだけ貯蓄しておかねばと考えるが、今まで本当に金がなくて、手つかずで困っていたことも多々あったのだ。今、この機会にその金でまずそれを何とかしようと思った。車にETCも取り付けた。それさえあれば、初期投資はしても、結果として山梨に行く高速代がずいぶん安くなろう。
 今はそんなで、母が死んだ「臨時収入」で我家は大いに助かっているが、やはり後ろめたいだけでなく、金とは本来、自らが働いて得るものだとつくづく思えてきた。労働対価の報酬である。
 では、例えば、競馬でもパチンコでもいいが、ギャンブル、賭博のようなもので金を儲けるのはどうであろうか。ギャンブルは規模が大きくなるほど、その全体像は見えなくなるから、儲けた者は、反面金を失った者の姿は見えなくなる。
 むろん競馬場なら、賭けた金を失くすものと、当てて儲ける者が交差するからその金の流れの「関係」は窺い知れる。が、負けてもまた次はきっと儲けたい、儲かると考える者が大半であり、ギャンブルとは買ったり負けたりするものだと考える故、人はそれにはまるのであろう。
 しかし、仲間うちでする賭け麻雀、ポーカーのようなものでは、勝者と敗者の金の流れは一目瞭然である。それで後腐れなく人間関係が続けば良いが、負けた者は、金をかすめ取った者に恨みを抱くだろう。
 そして、勝って、目の前の男から金を全部巻き上げたとしてもその心中はどうであろうか。愉快であろうか。それで楽しいものだろうか。

 誰かの金を奪って、詐欺事件ではないものの、それで儲けて収入を得たとしても、人はそこに喜びを得ないものではないか。むろんギャンブルとは勝ち負けの世界で、いつまた勝者も敗者へと立場が入れ替わるかもしれないから、それは仕方ない、良しとすべきだという考え方もある。しかし、まっとうな人ならば、人を不幸にして、金儲けしたいとは考えないし、第一そんなして得た金は気持ち悪いと思うはずだ。ゆえに悪銭身に付かずという俚諺通り、またギャンブルやキャバクラ等に使い果たしてしまうのであろう。

 そして同様に「人生」もまた、自分だけが良ければ、楽しければ良しとはし得ないのでないか。
 トランプタワーに住む者は、乗ってる豪華タクシーを窓から、街中のゴミ箱を漁る老いたショッピングバックレディの姿を見ても何も心動かされないかもしれないが、もし、目の前に飢えに苦しむ子供がいたとして、自らは飽食していたとしたら、やはり安穏とはしてられないはずだ。
 飢餓や貧困、不幸に苦しむ人がいるのを知りながら、我が身だけの幸福を願い、満足することは人は本来できないと我は思う。むろん、それもまた運命であり、敗者もまた自己責任だという開き直りもできよう。オレは努力して金持ちになった、彼らは怠け者ゆえ、家を失いホームレスになったのだと。
 人とはそうした、他者との関係性において、個々の人生を考え、見つめ直すものだとするならば、その人生とは、我が物ではない。
 むろん人生とはその人だけの独自のものだ。しかし、自分だけの人生は本来存在しないし、人を不幸にして得る幸せはあってはならない。

 今、思うのは、人は、人と共に、人のために生きてこそ人だと。

今年もクリスマスパーティ、ささやかに2016年12月19日 08時01分39秒

★どなたでもお気軽にお越しください。

 母の死という大事のあった今年、いろいろ迷うところもあった。国立では急な市長選が入ったり、慌ただしい年の瀬、毎年恒例の拙宅でのクリスマスライブパーティ、今年はどうしたものかと考えていた。が、当然開催の可否はきちんと告知しないとならない。
 ただ、有難いことに問い合わせも頂いたし、ごく何人かは来られるようなので、その期待にも応えたいと思い今年もやることにしました。

 ただ、正直なところ、パーティの支度や準備どころか、会場となる部屋もまだ片付いていないし、果たして23日までに、人が集えるスペースが空けられるか不安である。
 また、よって料理も進行も一切何もまだ考えていない。ただ、ごくごく簡単に、ささやかに今年一年が過ぎ去ったことを共に祝えたらと思っている。
 いつもなら友人知人、ミュージシャン方にもメールなどで呼びかけて参加を求めているのだが、今年はまだ何もそうしたアクションはしていない。
 今、ここで、このブログ上で、初めて告知する次第だ。問い合わせ頂いた方には連絡するが、他には特にお知らせのお誘いもしないつもりでいる。
 このブログでしか「告知」はしないので、どなたでも、マス坊とこのブログなどに関心お持ちの読者の方々、お気軽にお越しください。日時は
12月23日の天皇誕生日、夕刻からです。
 場所や行き方が不明の方、初めての方は、このブログにコメント書き入れておいてください。おって、こちらからメールいたします。
あるいは携帯 090-8175-8479へ

今日から、ここから、この場所から2016年12月20日 20時46分14秒

★我の人生がまだ続くのならば

 どうしようもない人生を生きている。おそらく多くの人たちもまた同様かと思うが、事態はさらに悪化し、出口も見えずますます身動きとれなくなっていく。
 生きていてもその先に希望の光は見えない。ますます今よりもっと失っていくばかりのように思える。
 果たして、死の前に、楽に、安穏とできる日が我に来るのであろうか。

 しかし、人生とはそうした苦しく辛いものだと規定して、それでも生まれてまだ死なずに生きているのならば、それはそれで何か意味や意義のような「役割」があってのことだと考えるしかない。でないと、もう死んだ方がマシになる。

 われを もっとも理解し愛してくれた母を亡くして、その後も、ほぼ犬猿の仲である、認知症の父との二人暮らしを余儀なくされ、正直、いったいこれは何の罪で、何の因果でこんな責め苦のような日々が残されたのかと自問しつつ生きて来た。
 何度も父を殴り殺して、この家に火をつけて我もまた自殺しようと考えたことか。亡き母のためにもそんなことはできないと思いつつも、あの世や天国すら在る保証はないのだから、先に逝った者に何も義理立てすることもないわけで、ともかく「今」、このときをどう乗り切るかだけで必死であった。

 ただ、その父だって、今がもう92歳なのだから、あと十年も生きるはずもない。ならば後もう少しの辛抱だと考えて、ただ堪忍、耐え忍んで毎日やっていくしかない。
 すべてのことに意義があるのならば、父でなく母が先に死に、不仲の父と暮らす役割を与えられたのもそこに、それもまた神の計らいなのであろうと思うしかない。まだ、我はその役割=責務をはたしていないということなのか。

 母が死んで、この家はめちゃくちゃになってしまった。元に戻す以前に、我が人生もまたふり出しに戻り、何もかもが、デフォルトの状態、いや、初期設定からやり直さねばならなくなった。
 この歳になってそれはしんどい。が、まだ我は体調すぐれずとも病に倒れてはいないし、身体もまだ動ける。気持ちだけは青春時代と変わらない。いや、そもそも我に青春なんて、甘い響きの時代があったのであろうか。
 常に何もわからず何も考えず毎日悩み迷いつつ、好き勝手にバカなことや面白そうなことだけを求めて生きて来ただけだった。
 そうして気がつけば浦島太郎のように老いさらばえて、母も失い、どうしようもなく手のかかる父だけ残され、今途方に暮れている。

 しかし、まだ我はたぶんすぐには死なないのならば、この先もまだ人生が続くと考えて、とにもかくにも毎日生きて行かねばならない。
 この12月23日もまた、拙宅で、ごくごくささやかにだが、クリスマス謝恩パーティをやることにした。
これは毎年恒例で、この10年は続けているかと思う。様々なミュージシャン、シンガーが参加され、夕刻からだらだらと薪ストーブで焼いた鶏をつつきながら、赤ワインをあけ、唄いながら聴きながら語らいながら、その年を振り返って来た。
 今年はどうしようかと迷いもしたが、今現在、二人の方が参加されるとのことで、ならばその人たちのためにも今年もまた、ごくささやかに小規模にだけど、開催することにした。
 人が生きていくよすがとなるのは、我が事だけでなく、誰かのために、誰かに求められて、こんな自分でも何か役立てるという思いがあるからだ。好きな言葉ではないが「認証」ということなのであろう。
 人が生きていく自らの「証」となるのは、そういうことなのではないか。

もし、無人島で、そこにインターネットが繋がりヤマトの宅配便が何でも届けてくれるとしても、ブログも含めて、「他者」とは誰とも繋がらず、何も「発信」できないとすれば、どれほど快適な暮らしだとしても、我は自殺すると思える。
 人が生きていくとは、誰かと関わり、誰かのために少しでも役立っている、何か繋がっている、と思える「関係」があるからだ。それが無いのならば、人はたった一人では生きていけない。
 いや、誰からも認証されなくてもかまわない。ただ、誰かのために、拙い歌を唄い下手な笛を吹くように、そうした「行為」を外へと示したい。もしかしたら誰か、通りすがりの人が足を止めて聴いてくれるかもしれない。
 そうした期待があれば、人は一人でも生きていける。

 というわけで、今年もまた拙宅で、クリスマス謝恩ライブ無しパーティをすることにしました。どなたでもお気軽にお越しください。堅苦しく考えず楽しくだらだらと呑んで食べてそれぞれの人生の重荷を一時下ろせたらと思います。

 我の人生がまだ続くのならば、今日から、ここから、この場所から、大変でも一つ一つ少しでも進めて行こうと決意した。
(おそらく)誰にとっても、人生は辛く大変で、面倒なものだと仮定して、ならばこそ、それぞれのその大変な人生を、助け合って生きていくために。

がんばろう、と思い直しました。

明日、23日のクリスマス会は、中止にさせてください。2016年12月22日 19時19分44秒

★申し訳ありません。体調悪く無理そうなので中止~延期とさせてください。

 急な話で、ご迷惑おかけしますが、明日12/23日に予定していた拙宅無頼庵でのクリスマスパーティは中止と願います。
 この数日、また風邪気味なのか鼻水がポタポタ垂らしたり咳も出ていたのですが、熱はないので二階の場所づくりなど、片付け進め準備しておりました。
 が、今日木曜、昼食に、父にはかけうどんを、我はスパゲティを茹でて、残り物の具で食べたところ、胃がもたれて気持ち悪くなり、起きていられずに胃薬吞んでベッドに横になって消化されるのを待っていました。
 しかし、不快感は収まらず、けっきょくトイレにかけこんで全部吐いて、また横になったが、残りもまた吐いたりしていたら下痢も起こして、何回か水便も出しました。
 まず考えたのは、流行りのノロウィルスかと。もし父にも移したり、父も同様の症状が出たら大変だと下に降りて、体調訊くと、父は異変はないとのこと。その場で我の体温を測った限りでは熱はなく、身体から出すもの全部出してからは、少しだけ仮眠もとれました。

 明日、クリスマス会に参加の連絡があった方々にはベッドの中から携帯で状況を説明して、明日は無理そうだと中止を願いました。
 これがノロなどではなく、単なる食あたりなどの一過性のものならば、25日の日曜に「延期」「順延」ということも考えていますが、現時点ではまだ確約できません。

 しかし、寝たことと、体内の悪いものは全部出したので、今は、特に不快感などはないので、どうやらノロではないかと思います。
 父のこともあるので、状況を見定めて、今後の事をまた当ブログ上で、お知らせしていきます。
 今年も、今年こそは、と楽しみにされていた方、申し訳ありません。心からお詫びいたします。

 明日の中止、どうかご容赦お願いします。

悔やむ思いと誓い新たに2016年12月23日 09時00分17秒

★年明けての拙宅での「新年会」のような集いでお会いしましょう

 雨上がりの明るく晴れた暖かい朝だ。昨晩も春一番のような生暖かい南風が吹き荒れて、とても12月とは思えなかった。

 それから雨が降り出した。雨の音を聞きつつ寝ながら汗かいて、ひたすら深く眠ったら、どうやら今回の体調異変は過ぎ去ったかと思える。まだ、頭も重くフラフラするし、なんか胃や腹の調子も戻っていないが、どうやら風邪気味で体調弱っていたところに、いたんだ物を食べたことで吐いたり下したりしたのであろう。大事に至らず幸いだった。
 そういえば、このところやたらと小便が近くて、鼻水もぽたぽた垂れていたので、またもや風邪の初期症状でもあったのだ。いったい我は風邪をひいていないときのほうが年中通して少ないのではないか。

 今日一日大人しくすれば、明日はたぶん体調も戻ると思えるので、クリスマス会は明後日にしようかとも考えもした。
 が、二日順延してやるより、来年年明けてから、きちんと万全の準備をして皆に告知して「正式に」集いとしてやるほうが、我の今の気持ちとしては楽なように思えてきた。
 やはりすべてが今も本調子ではないし、今回の体調異変は、母の喪が明けていないうちは、何かイベントのようなことは今はまだ、すべきではないという「啓示」ではなかったのか。

 我としては気心知れた友が来られて、今回は特に何も企画などは立てることなく、ただ呑んで食べてのんびりとこの一年の来仕方や思うところを語らいたいと思っていたし、その程度なら可能かと考えていた。
 そして客人もであろうが、我もまたそのささやかな集いを楽しみにしていた。それがかなわなかったことを今悔やむ。予定された方々にまずただただ申し訳なく思う。

 しかし、去年のクリスマスパーティ以来、一年間、誰も招かずイベントもなく、母や父の介護と世話にひたすら追われて、一切掃除どころか日々の始末もままならぬまま、毎日何とかやり過ごすだけで手いっぱいだった「現状」は、おいそれと元には戻せなかった。
 溜まりにたまったこの一年間の「書類」を、一つ一つ分別処理している時間はないので、ともかく大きな箱に詰めていく。まるでタイムカプセルのように、母が生きていた頃、元気だったが体調崩し始めた頃から、病院通いが続くようになって、やがては手術、入院、さらにまた入院、退院、そして自宅での訪問看護、訪問診療での介護、そして母の死まで、診療計画書の類から診察の明細や、処方箋の控え、病院や介護サービスの説明書や契約書、そしてその他の買い物のレシートまで膨大な紙類がそっくりそのまま地層のように堆積していた。
 そのときはともかく母の体調が最優先で、そうした書類をゆっくり分別して残すものと都度処分するものとに分けている時間も精神的余裕もなかったのだ。で、溜まればまずは二階に運び上げていた。後で落ち着いたら整理しようと思って。
 それらは大方もはや紙ゴミでしかないなのだが、診療経費のレシートなどは、父の分も含め確定申告の際、なくてはならないので右から左に捨てるわけにはいかない。

 そうした母との日々の書類を、今回の23日のために箱詰めしながら、嫌でも深い感慨とまた新たな哀しみに囚われた。まだ、この頃は母は生きてこの世にあったのだと。いったいこの一年は何であったのか。ただただ慌ただしく母が死に行くためだけの一年であったのか。
 つまるところ、そうした母の事の「最終処理」を終わらせない限り、拙宅でイベントも含めて次の事へは進めない、新たなことは今はまだすべきではないという啓示、メッセージではなかったかとも思える。

 今は、ともかく全てをきちんと、もう一度ここから、今からやり直したいと思っている。
 父が生きている限り、まだ死ぬわけにはいかないし、何より、我は未だ我の人生を生きていない。果たすべき役割もあると信じたい。
 そのためにも抱えているもの、抱えたままずっと放擲してきたものも整理して、我ができることとすべきことを再考、再検討して残りの人生が少しでも機能的に、無駄なく使えるよう新たなシステム、生き方を築いていかねばならない。
 難しいことだが、今ならまだできると思う。我の誇れることは、ダメさと弱さだけだが、その二つをしっかりみつめて、成すべきことを少しでも果たしていこう。まだ体が動く今のうちならば。

 今回、クリスマスイベントに、ご参加希望された方々へは、きちんとお詫びし埋め合わせしたいと思っている。来年、拙宅を片付け終えたうえで、「新装開店」的に我が人生も含めて、新しく皆様をまた迎え入れたいと願っている。
 どうせ正月も何もない。誰ももう来ない。年末年始も掃除や片付けに専念して、新しい年に、新しい動きを、この場所からお見せしたい。
 どうかよろしくご理解お願いします。

一人ぼっちのクリスマスイブ2016年12月24日 22時08分18秒

★いつかこんな日が来ると思っていたけれど。

 毎年恒例23日のクリスマスライブパーティを中止にして、まずその後の報告から。
 幸い下痢や嘔吐は、22日だけで収まって、大事には至らなかったが、また咳が続き、まだ本調子ではない。父のデイケアへの送り出し送り迎えや洗濯など家事をやりつつ、合間に二階の片付けを続けては、その合間合間に横になって仮眠するという半病人の生活を続けている。
 まあ、明日に延期しての開催も可能だったと今は思うが、たぶんその後はまた疲れがどっと出て、年内は寝たきりとなるかもしれず、やはり今回は中止にしても仕方なかったのだと自らをなだめている。

 今はともかくまず体調を戻して、無理することなくイベントができるよう体力つけてその体制をつくっていくことだと思う。何をするのにも無理せねばならないとか、その後は疲れて倒れ込む事態となるのならば、そもそもやる意味がないであろう。
 すべてが無理せず自然体で、誰もが楽しく気軽気楽にやれることでないのならば、どんな良いことであっても続かない。当たり前のことが当たり前にできるよう、何事もうまくやれるようにすることが我の課題だとわかってきた。

 さておき、今日は土曜日でクリスマスイブ。明日は日曜日のクリスマス。暦の巡りあわせとはいえ、なかなか土日にクリスマスが重なることはめったにない。
 我は、勤め人ではないので、別に土日とか祝祭日はまったく関係ないのだけれど、毎年23日の天皇誕生日に、そのクリスマス謝恩ライブパーティを催し、多くの人たちと集い夜遅くまで唄い食べて騒いで、その一年を締め括っていた。
 次の日は、疲れて一日寝込むように休んで、クリスマス当日を心静かに、内々、つまり家族だけで祝っていた。まあ、それも23日の残り物を片付ける程度のささやかな家庭パーティであったが。

 が、今年は母が9月にあの世へと旅立ち、その恒例の23日のイベントも予定していたものの体調不良で勝手ながら中止にしてしまうと、イブもクリスマス本番も何もない。ただ拍子抜けしたような空漠感がある。
 いちおう、鶏とかは事前に買っておいたので、下味つけておいた鶏を、晩飯には焼いて父に出したが、父もあまり食べず、大方残ってしまった。老いた親子二人だけだと、何を作っても処理が追いつかない。犬たちに回れば良い方で、けっきょくほとんどカビ生えたり傷んでしまい大方捨てるはめとなってしまう。

 夕刻時、犬たちの散歩で、近くのイトーヨーカ堂へ足伸ばして食料品売り場を覗いて見た。例年なら、パーティの食材を買い込みに行くわけで何となくその習慣でついふらっと行ってしまったのだ。
 流れている音楽はクリスマスソングばかりなのだが、売り場はもう大急ぎで、正月用のカマボコなどお節食品へと入れ替えていて、おやっと思った。売る側とすれば、明日が日曜でもクリスマス商戦は既に終わりにして、さあ、これからは年の瀬、正月の支度で客を招くほうに懸命なのであった。まして明日が日曜ならば。
 今年はウチでのイベントはないし、誰も来ない。何を買ってもまた残るばかりだから、クリスマスのオードブルなど値下げされていたものの、けっきょく、何も買わずに店を出て暗い夜道を犬たちを連れてとぼとぼと帰った。

 ひとりぼっちのクリスマスイブ、という言葉が不意に頭に浮かんだ。そんなタイトルの歌があったかもしれない。
 父はまだ生きているし、ならば一人で迎えるイブではないはずだ。いちおう父に鶏を焼いて少しだけでも食べさせたが、ケーキもないし今年は何もクリスマスを祝うことはしなかった。そもそも母がいないならば、父と二人では話す言葉もない。クリスマスどころではなかったのだ。
 ひとりぼっちではないけれど、23日の皆で集うパーティもない今年は、やはり一人ぼっちで迎えるクリスマスイブ、クリスマスなのだと気づく。

 この世に我と同じく、一人で淋しくイブの夜を過ごす人がどれだけいるのであろうか。我は一人だったけれど、今までは、この夜に一人ぼっちだと感じてはいなかった。
 それは友人皆と賑やかに過ごす23日のイベントがこのところずっと拙宅であったことと、母も生きていて、ささやかでも家族で犬猫までも集い、ときに甥っ子も来て、皆で薪ストーブで焼いた鶏を食べ、ケーキも食べてクリスマスを祝ってきた。そんな風に毎年毎年慌ただしく過ごして来た。そんな年末、クリスマスそして正月がずっと続くと信じていた。

 母が死んでいなくなった今年はすべてが違ってしまった。大掃除もまだだが、正月の準備も何一つしていないし、たぶん甥っ子も来ないだろうから、お節も何一つ用意することもない。餅ぐらいは焼いてお雑煮は作る予定だが、後はたぶん何も作らないし何も買わない。
 正月も父と二人だけ。ということは正月も一人で迎えることになる。
 それでも新年を迎えれば正月気分になれなくもないだろうが、家族や、恋人たち、そして新婚さんたちが楽しく祝って過ごすイブの夜やクリスマスは、もう我には来ないことに気づき愕然とする。

 幸福とはささやかなものでも失ってから気づくとは言ったもので、もう去年のクリスマスで、母が生きていた我家のクリスマスは終わってしまったのだ。これからは一人ぼっちで迎えるクリスマスイブに、何も祝うことはない。聖し幸いなる祝うべき夜に、ただ、一人で孤独、淋しさと向き合うだけだ。

 この世に一人で過ごすクリスマスを迎える人たちが男も女もどれだけいるのかわからない。その人たちがどれだけの孤独を抱えているのか知らないが、せめて来年こそ、我のためにもそんな人たちが集える場をやはりつくらねばならないと今また思っている。そう、自分のためにも。
 だからこそ、だれにとってもメリー・クリスマス!

クリスマスの夜に、最低最悪の一年を振り返る2016年12月25日 19時46分08秒

★荒野の果てに夕陽は落ちて~このどん底から戻していく

 聖しこの夜である。
 皆様はどんなクリスマスを、誰とお過ごしのことであろうか。我にとって、母がいなくなって、父と二人だけで過ごす初めてのクリスマスである。こうして人は一つ一つ大事なものを失っていくのかと今さらながら思う。
 老犬はまだ生きているが、父と同じくもはや余命いくばくもないのだから、まず、この冬をこせるかだ。
 つまるところ、そうした近く逝く者たちと、どれだけ残り少ない時間を有意義に過ごせるかだけなのだと。今、母を喪って後悔の味を噛みしめつつそう思う。

 今日の午前は近くのプロテスタントの教会で、クリスマスのミサにあずかった。我としては新教よりもカトリックなので、毎度の違和感はあったが、それでもそこの教会員方は、皆良い温かい人たちばかりで、暖かく迎え入れてくれた。今後も関わりを持つことになるかもしれない。
 行けたのは、父が土日はデイケアに通うになり、母も旅立ち、ようやく我も一人に、時間的にやっと「解放」されてきたからだ。

 さて、そのクリスマスの夜に、様々な思いが沸き起こる。
 この一年、2016年はどんな年であったか、と自問すれば、政治的にもだが、我個人的にも生涯最悪、最低の一年であった。

 親は当然のこと、子より先にいつかは死ぬ。それが人の道であり、人生を生きていくことなのはわかっていた。
 が、癌という暴風雨のように攻めてきた猛威の前に、まさに成す術もなく敗北してしまった。闘うとか抗うどころか、悪化していく状況に、ただあたふたと振り回され、後手後手に何とかかろうじてその都度必死に取り繕うだけであった。対症療法にもならなかった。
 そうこうしているうち時間はあっという間にたち、我までも疲労と心労で倒れる寸前まで追い込まれた。そして母は医師たちの想定よりも早く突然旅立ち、我は強い悔恨と悲憤にその後数か月は囚われ、死後の後始末も含めて、哀しみに増して心まで疲弊してしまい、もう社会復帰はできないと思うほど追い詰められた。
 我も我が家もすべてが混乱し、めちゃくちゃな収拾つかない状態となってしまった。それは今も続いている。

 今、この数か月を振り返って、我も父もよく無事であったなあと感心さえする。しかし、今もまだ、「元通り」に全てが戻ったわけではない。看病途中のと、死後の混乱、散乱は未だ未解決のままだし、何とか「書類」上のことだけは終息したものの、大事な家族の一員=母はもういない、という新たな生活様式はまだこの家では何一つ始まっていない。
 そうしたことも含めて、すべては今後、慌てることなく新たな年から少しづつ構築していけば良いのだ、と今はやっと余裕をもって思えて来た。

 最低最悪の年だとは書いた。が、今にしてそれでも逆に多くの得るもの、学ぶところ大であり、そのことは我にとって大きな遺産、力になった。
 何よりも母の死を通して、死とは何かはっきりわかった。肉体的死、社会的死、そして行政上の様々な手続きも含めて、人が一人死ぬということはどれほど大変で面倒かつ大事件なのか辟易するほど認識した。
 そして今思う。もう何も怖くないし何も怖れるものはないと。何故なら、死ぬことに比べれば、どれほど辛い苦痛があろうとも屁でもないのだと。これからどれだけの屈辱を味わい蔑みを受け痛めつけられようとも「死」に比べれば何でもない。
 生きていれば、どれほどの目に遭おうとも取り返しがつくし、埋め合わせもできる。挽回もやり直しだってできる。しかし、一度死んでしまえば、残念ながらこの世ではもう二度と取り返しつかない。戻せない。やり直せない。

 信仰、宗教的には、死を克服して、現世の死は肉体の死に過ぎないと永遠の生を説いているし、その考えも我は受け入れられなくもない。が、現実の話、死は当人のみならず、残された者たちにとっての重大事なのであって、当人は死んで幸せに天国に行こうが、残された者こそが大変なのである。
 ゆえに人はうっかり迂闊に死んでは絶対にならないのだ、とわかったし、ならばこそ、この世に生を受けた者は、とことん必死に真剣に生きなければならないのだと思い知った。
 だからこそ、人は皆で助け合い支え合って生きて行かねばならないのであった。人はそれほど弱いもので、ほっとけば絶望や孤独だけで簡単に死んでしまうものなのだ。

 母は自らの死を通して我に多くのものを遺してくれた。死の後始末も含めて、「当事者」として母の死の件で実に多くのものを学び得た。
 そして、認めたくはないが、「今」、今年であって良かったのかもとさえ思えてきている。もちろん母はもっともっと長生きしてほしかったし、今だって死んでこの世にいないことが信じがたい悪夢のような気がしている。しかし、これがもっと長患いして、我ももっと年老いてしまえば、介護も含めて、周囲誰もが疲弊してしまいまさに老々介護となって、母を看取った後の我らの「人生」はなくなってしまっていたのではないか。

 聖書には、種まきも刈り取りも、すべてのものにはときがあると記してあるし、良寛和尚の言葉だと記憶するが、災難にあう時はあうがよろし、という言葉も頭に浮かぶ。
 母の死は、我が人生最大の「災難」ではあった。が、その災難から多くのことを学んだし、母の死の前に比べて我ははるかに強く賢く、大人になれた。つまりその災難を体験しなければ、我はずっといつまでも子供のままであったのだ。
 むろん今だってどんなに利点があったとしても母が死んだこと、もう会えないこと、この世にいないことは肯定できず哀しく辛く涙が出てくる。しかし、それもこれもすべてこの世の定めだと、いつかは起こるべきことだとして受け入れていくしかない。
 親たちよりも先に我は死ぬわけにはいかなかったし、親たちを看取り送るのが子の務めなのだから、これはこれで仕方がなかったのだ、と、今は無理やり納得させようとしている。

 ただ悔やむのは、これからも永遠に悔いるのは、ずっと親不孝し続けて、いつまでたってもバカなことばかりして常に心配かけてばかりで、何一つ安心させられないまま母を死なせてしまったことだ。
 結婚もせず、きちんと収入を得る定職も得られず、不仲の父とケンカばかりしていたのだから母はさぞや死ぬにあたって心配だったであろう。その心残りを思い、ただただ申し訳なく、子としてすまない思いで心が張り裂けんばかりだ。
 もし、あの世で、再び母と再会するときがあらば、我の「その後」のしっかりした、きちんやっている姿を、手土産として見せなければと思う。
 死んでしまった者にできることは、そうした、我ら生者が、その後もがんばってしっかり生きている姿を示すことだけだろう。

今年、年明けには、まさか母が死ぬなんて、まったく想定も予期もしていなかったわけで、まさに心構えも準備も何一つできていなかったわけだから、2016年は最低最悪の年となっても当然だった。
 ならば、その混乱と失意はいつまでもそのままにせずに、少しづつでもその「どん底」から這い上がっていかねばならないはずだ。
 もう母自体いないのだから、もはや「元」には戻せないし、戻らない。やがて母の後を追い死に臨む父との二人で、父の死後のことも想定しつつ、我の新たなライフスタイル、人生の生き方を築いていかねばならない。
 幸い、今ならまだできる、きっと何とかやっていけると、脳天気に、何の根拠もないけれど思えて来た。

 もう何も怖れないし迷わない。母も含め我の大事な大好きな人たちは皆天国にいるのだから、死も恐れない。残りの人生を死者たちに恥じないようしっかりきちんと生きて行くだけだ。いつかまた、皆に再会する時に恥じいることがないように。

 まだできる。今ならできる。それは必ずかなう。すべての思いはかなう。それもこれもすべてが神の御心だったのだと今クリスマスの夜に思う。

 皆様にも神のご加護と恵みがありますように。

「ぶらいあんず」新メンバー募集中2016年12月27日 22時21分54秒

★音楽を愛する方ならばどなたでも

 我マス坊が、本年友人知人たちと始めた音楽活動ユニット、『さみだれ楽団ぶらいあんず』であるが、谷保かけこみ亭での「反戦歌コンサート」などに、前座として登場したものの、その後、諸般の事情で休止状態となっている。
 その原因は、何といってもマス坊の母の容態が悪化して、同時期に父も病院内で骨折したりと老親二人の介護に追われてまったく時間がとれなくなってしまったからだ。
 やむを得ない家庭の事情ではあるけれど、メンバーの皆にはただ申し訳なく思う。

 そして既知のごとく母は亡くなり、三か月が過ぎ、死後の煩瑣な雑務処理もほぼ終え、我としては音楽の活動を再開すべきときが来たと思えてきた。
 ただ、メンバーの一人が、確認したわけではないが、練習も含めて今後の参加は難しいようなので、改めてこれからどういう編成でどんな活動をやっていくか再考している。
 むろん、いわゆる通常のバンド編成のように、ギター、ベース、ドラムとか、それぞれ担当が決まっていて、そうしたメンバーを求めているわけではない。

 そもそも我の考えている「音楽」のカタチは、ある楽曲を演るとして、その曲に参加できる人は、コーラスにしろ楽器にしろ、自由に誰でも参加してもらえたらと、いうものだ。
 例えば、誰でもよく知っている曲、フォークソングのスタンダードがあるとする。レッド・ベリーのグッドナイト・アイリーンでもいい。
 それをステージでやるとしたら、ボーカル、ギター、フィドロ(バイオリン)、マンドリンなど、できるだけ多彩な楽器で、楽しく唄い演奏したい。他にバンジョーやアコーディオンなども入ればもっと楽しく面白くできる。
 フォークソングというのは、元々は村祭りの余興、演芸のようなもので、日本のお神楽がそうであるように、その時々集まれる人たちが集って、各自できる楽器を持ちより、スタンダードの楽曲を自由に唄い演奏するものだったのである。
 ヒルビリーというルーツミュージックがそもそもそうであって、農民たちが村の寄り合い所的食堂などに仕事休みのときなどに集まっては、一杯やりながらだらだらと知ってる楽曲を演奏していたものだ。
 農民や職人、アマチュアでも、子供ときから家には様々な楽器があり、カーターファミリーのように代々家族で音楽に親しんできているから、皆かなりの芸達者なのだ。
 うたが上手い人は、立ち上がって唄うだろうし、楽器はボロくても腕は確かで、それぞれが得意な楽器でフリーセッション的に音楽にいそしむ。誰でも参加自由である。
 そうしたフォークソングの原初のかたちを、示すことはできないものか。そのスタイルは我にとって憧れであった。

 じっさい、様々なフォークシンガーのライブを企画してみると、フィナーレのときにやる、出演者全員での〆の曲などは、キーだけ確認しておけば、あとは自由闊達に、交互に歌ったり、楽器のソロを聴かせたりと「回す」ことができる。それは皆、経験豊富なベテラン、プロだからだが、たとえアマチュアであろうともしっかり練習を積めば、やがてはそうしたことは可能だと考えた。
 ぶらいあんずはそうしたスタイルで活動していく楽団だから、メンバーは固定でなくても良い。しかし、いきなり素人が集まって何かできるはずはなく、まずは課題曲、楽団のレパートリーを決めて、練習を積み重ねて行かねばならない。

 新メンバー募集と書いた。だからメンバーとして常に活動を共にしないとならないということもない。しかし、ステージに出るならば、事前に腕は確認しておかねばならないはずだし、そのためには事前に集まって練習はしないと恥かくだけだろう。
 音楽経験の有無はまったく問わない。が、練習にできるだけ参加できることだけが条件で、たとえばの話、事前に課題曲の譜面やカラオケ的なものはこちらでCDなどに焼いてお渡しするので、各自まず聴いて私的に練習したうえで、月一でもどこかで集まって「音合わせ」をする。
 そうして少しづつでも楽団としての腕を上げて、ステージなど、人前で活動していく。音楽が好きで、練習にできるだけ参加してもらえるのなら性別年齢、経験はまったく問わない。楽器は何もできなくてもうただけでの参加だってちっともかまわない。あるいは裏方的お手伝いでも。
 我らが多少でも手ほどきできる楽器ならば、またギター教室のようなこともやるので、音楽の経験が全くない素人でもご安心を。

 大事なことは、うたや音楽が好きだということ。それらを通して何かを伝えたい、表現したいという思いがあること。巧拙はいっさい問いません。こちらも下手くそですから。
 ただ、うたの場、音楽の場をできるだけ広く、誰でも参加できるような場を作っていきたいと願う。
 うたとは、音楽とは、ただ椅子に座って聴くだけのもの、あるいはYouTubeなどで、ぼんやり眺めるものではなく、自らがまず唄い奏でるものだと信じて。

 ちなみに「さみだれ楽団」という名称は、昔デモ行進でよく使った言葉、集会後参加者各自勝手に解散する「さみだれ解散」からとってつけた。誰でもバラバラで各自自由参加、自由解散でやっていきたい故に。

年の瀬に、亡き母の夢をみる2016年12月28日 22時55分23秒

★夢から醒めたあとのやるせないこの気持ちは・・・

 昨日の夜から冷たい雨が降り、北からの強い風、木枯らしが吹き荒れていた。
 今日は、風はまだ残っていたものの、晴れ間ものぞき日中は穏やかとなった。朝から父の溜まった汚れ物の洗濯に追われた。

 このところ夢の中に母がよく出てくる。今朝がたも母の夢を見た。
 母が死んだ一、二か月は、夢の中でも母に会いたいと願い、せめて夢で母に会えるかと常に期待していた。が、何故か、母のことは夢にも見ずに、辛い日々は慌ただしくただ過ぎて、そのこともまた哀しみを増す理由の一つでもあった。もはや夢でも会うことはかなわないのかと情けなく思った。
 ところが、死後三か月が過ぎたころから、先にも記したが、母の夢をみることが起こるようになった。
 思うに、母もあの世でもそろそろ一段落して、やっと我の夢に出ることもできるようになったのではないのか。

 当初、向うに行ったばかりの頃は、先に逝っていた旧知の懐かしい人たちの再会、歓迎会や、向うでの諸手続きやらが忙しくて、こちら=現世のことなどに気が回らず、夢に出ることすらうっかり忘れていたのかと想像する。母はそういう身勝手なところがある人だったから。
 ようやくあの世での生活にも慣れて、さて、遺して来た夫や息子たちのことはどうしたのかと、こちらの夢の中にアクセスしようとし始めたのかもしれない。
 
 その夢の内容だが、母の癌が再発した頃、病んではいたが、まだ元気に自ら動けていた頃の母が、話の前段階はよく覚えていないのだが、母は自ら歩いて何度も入院したり手術した立川の病院に出向くというところからだった。医師は出てこなかったから診察に行ったのではないようだ。
 我も母と一緒だったが、そこまで伴ったわけではないようで、母はまず一人で歩いて行ったのだった。
 その病院も現実の病院よりもっとこじんまりとして、デイサービスの施設のような感じで、そこに集まっていた顔見知りの看護婦さんたちに、母はニコニコしながらまず挨拶して「私、また癌が再発しちゃったの」と話しかけた。
 みんなも、母が来たことに喜び、歓迎してくれて、でも元気そう、とか、少し痩せた感じだけど、大丈夫よ、とか言って母を励ましてくれた。
 それから母の手を引いて、その病院の中を歩き回ったりして、何か職員と話し、夢の最後は、ベッドに横になった母を、我はぎゅっと抱きしめて終わった。
 家に帰って来たのかもわからない。ただ、生きている母の体温と、息つかいを感じて心臓の音まではっきりと聞き取れたことは覚えている。
 そして夢の中の我は、その先のことに対して不安は感じつつも、母はこうして自分で歩いて病院に来れたのだから、大丈夫だと安心していた。
 でも調子よくても急に体調が悪くなるかもしれないしなあ、とかあれこれ考えているうちに、じょじょに夢から醒めてきて、ああ、これは 夢だった、もう母は死んでしまったのだ、と気づき、目覚めた。
 しばらく布団の中で、今の夢を反芻していた。ちょっと前までなら、母は死んでしまっている「現実」に打ちのめされ大泣きしたことだろう。
 もう三か月以上過ぎたこともあるからか、うっすら涙は出たが、もう声上げて号泣しはしなかった。
 それにしてもリアルな夢で、母の体温から心臓の音、匂いまではっきりありありと夢なのに我は感じていたのだ。まだ元気だった頃の母を再び抱きしめられて夢でも嬉しかった。有難い夢だった。
 夢の中で、生きている母と会い、覚めて、母はもう死んでしまったという「現実」に戻ると、今までは常に、何とも形状し難い嘆息するしかないやるせなさ、虚しい空漠感に苦しめられていた。
 しかし、このところはその喪失の哀しみ、嘆きよりも母と会えた喜びのほうが勝りつつあるようだ。

 母が寝たきりとなったきっかけは、まず、家で夕刻時、40度を超すものすごい高い熱が突然出て、寒気がして歯の根が合わないほど母はガタガタ震えて、我に「ぎゅっと肩から抱きしめて」と願った。
 救急車の手配しつつ、我は母に軽く覆いかぶさって、ともかく震える母を抱きしめて我の体温で温めるしかできなかった。
 今思うと、それは癌性腹膜炎などで、細菌による感染症、敗血症での高熱で、たいがい30分ほどで、熱は下がり出してはいた。しかし、そうした高熱は母の体力を奪い、以後も数度そうした高い熱の発作が起きては都度入院を余儀なくされ、結果として衰弱が進み寝たきりに向かってしまったのだ。

 以後、我家で介護ベッドに寝たきりの生活を送るようになった母は、夏でも常に寒い寒いと言い続けた。ときたままた高熱が出る兆しはあったが、我が付き添い、いつものようにぎゅっと抱きしめれば収まるときもあった。
 結局最後は、熱も出ることなく、食事もほとんど食べられなくなってミイラのように痩せ衰えてしまい、誤嚥した水を咳き込む力すらなく、我の腕の中で、まさになすすべもなく魂が尽きて死んでしまった。

 実をいうとこのところ、我と父は諍いが絶えなかった。たえず食事のつど食べたくないとかあれこれ文句ばかり言う父を叱りつけ、怒鳴り特養に入れると脅したり隣近所に聞こえるほど「騒動」を繰り返していた。
 正直、もう一緒に暮らせないし、このままでは息子は発狂するか父を殺すか倒れるかしかない。特養に入れるしかないのかと真剣に考えていた。とことん疲れ果てた。「狂人」と暮らしているとこちらまで頭がおかしくなってしまう。
 そんな最中に、母が元気なころの姿で、夢の中に出て来て、言葉には出さないけれど、我を慰めてくれたのだ。
 現実はどんなに辛く苦しくても、夢の中では母は変わらず元気な姿で会えるのならば、その母の愛に応えるためにももう少し我は頑張ろうと今思い直している。
 母はしっかり今も生きている。変わらぬ姿で存在している。夢の中では我に示し励ましてくれたのだ。夢であろうとその「復活」があるのならば、もう人生は辛くない。母は変わらずそこにいてくれる。母は常に我を見守ってくれているのだった。