母のいない母の日に2017年05月14日 22時39分42秒

2016年5月15日撮影 旧谷中村岩波正作屋敷跡にて母と針谷婦人
★もっとゆっくりと、きちんと死なせてやりたかった。

 14日は、母の日であった。街中のスーパー、コンビニなどでは、母の日に向けて商戦が高まっていた。バレンタインやクリスマスなどと同じくこれもまたプレゼントやモノを売る記念日のイベントの一つとしていつの間にか定着していたのだ。
 が、母が生きていたとき、去年まではまったくそんな日のことは意識しなかった。その日が来ても誰も気づかず話題にすることもなくたた日々が繰り返し過ぎていくだけだった。

 今年は違う。母が去年の9月に死に、母不在で迎えた今年の母の日は、街に出、その商戦の宣伝を目にすれば嫌でも母のことをまた考えてしまう。
 母の日にプレゼントなどあげたことなどない。感謝の言葉も口にしたことなどなかった。今改めて失ってみて今さらどうすることもできないが、もっともっとやさしく、してやりたいことがたくさんあったと悔やむ。半年以上月日が過ぎても母の死は今でもまだ信じられない気がしている。
 そう、今も痛恨悔恨の思いに苛まれる。人は必ず死ぬのだから死ぬのは仕方ない。その覚悟も予想もしてないこともなかった。が、あまりに慌ただしく、あまりにも早く突然、今思えば、あっという間に母は死んでしまった。

 去年の今頃、五月の半ばには、母は入退院を繰り返してはいたが、まだかなり元気で、自由に自ら動きまわっていれたし、父祖の地、栃木県藤岡町にある、旧谷中村の史跡や親戚縁者のところにも一泊二日で遊びに行っている。
 向うの人たちは訪れた母が予想外に元気だったので皆一様に驚き喜び、安心していた。その頃は、父は肺炎起こして入院、立川の院内で骨折し、長期入院中で、母と二人だけの暮らしが続いていた。初夏には、母と二人で山梨県増冨の温泉にも行っている。今思えばそれが母と最期に出かけた思い出になった。

 しかし、父も退院してきた7月の後半、母は、家にいた夕刻に突然39度の高熱を出し救急車で搬送、入院、約一週間で退院できたが、その後は自宅に介護ベッドを入れての寝たきりとなってしまった。
 けっきょくそれから僅か二か月病臥し、在宅診療を受けつつも台風が次々来襲した昨年の秋、9月8日の未明、容体が急変して心肺停止、また救急車で立川の病院に搬送されたがもう意識は戻らず医師から死亡告知されたのだった。往診に来てくれた医師の見立てでは9月20日頃までは持つだろうと言われていたので、我としてはまさか!の「想定外」であった。

 そして一日おいて、慌ただしく告別式、火葬、そして昨年のうちに遺骨は埋葬、様々な死後の煩雑な相続手続きも終えて年も改まり今年も春を迎え初夏になろうとしている。
 今も深く悔やむのは、母が生きている間に、もっといろいろ訊いておきたいことがあったのにあまりに早く逝ってしまったということだ。最後は衰弱してきたので話すことも辛そうになってしまっていた。
 死に臨んでいることはわかっていた。が、まだもう少し時間があると思っていたこと、その予想、設定が何より過ちだった。
 そして今になって気づくは、癌を治そうとか、そもそももっと生かそう、少しでも元気にさせようと考えていたこと自体が、間違いではなかったのか、ということだ。
 死なせたくないが故、ずいぶん無理して食べさせようと毎食ごと我は調理に苦労したし母にも無理に強いた。そのときはそうすることしか頭になかったのだから仕方ないのだけれど、今は落ち着いていろんなことが見えてくる。

 どうせ死ぬのであれば、もっとゆっくり死ぬためのときを持つべきではなかったのか。もっと少しでも長く生かそうと考えるのではなく、もっとしっかり死なすことを考えるべきであったと。
 死ぬも生きるも天の配剤、神の計らいなのである。それを我が母をもっと生かそうと願い考えること自体が僭越であった。大きな過ち、失敗だった。それより皆で死を受け入れ、その後のことについても語らい、ゆっくりと落ち着いたときを過ごすべきであった。
 むろんそんなことはそのときはできっこなかった。ただ日々母の介護に追われ何を食べさすか、何なら食べてくれるかだけ頭いっぱいで、日々慌ただしく寝る時間すらほとんどなく、もう何も考えられなかった。
 そしてあっけなく、あっという間に母は死んでしまったのだ。昼夜一人で看護する側からすればずいぶん長く思えたが、寝たきりとなって僅か二か月たらずであった。

 ウチのごく近所にHさんという母の友達がいる。Hさんは母と同い年、昭和4年の生まれで、栃木の佐野市の出で、母と同じ女学校の同級生だった。
 母は東京北区の生まれだが、戦時中栃木県佐野市に疎開し、母の最終学歴は佐野高女卒業ということになっている。今住んでいるこの地に越してきて、近所に住むHさんと出会い話したら、まったく偶然、彼女も同じ佐野高女出だと知った。まったく奇縁というしかない。
 その当時から顔見知りだったというわけではないが、その縁で、母とHさんとはごく親しく深い関係を続けて来ていた。ただ、Hさんは、心臓が悪く若い時から何度も手術し、歩くのもやっとという状態で、同郷のよしみ、元気だった母は友を常に気遣い、身体の具合を心配してあれこれ世話焼いていた。かつては同じデイサービスにも一緒に通っていたこともある。

 しかし我が母は癌が悪化してあっけなく昨秋死に、Hさんは、このところ体調がやや良くなったのか、ヘルパーに手を引かれ、近所まで買い物に出歩いている姿もみかけるようになった。
 ひと頃、親しくしていた我が母の死に落ち込んでいると訊いたが、元気になってきたようで喜ばしく思うが、母がずっと心配していた人がヨタヨタでも今も健在なのに、母のほうが先に死んでしまったことにやはり複雑な気持ち、憤るような深い哀しみを覚える。
 母も癌にさえ侵されなければ、昭和4年生まれの同い年、Hさんと同様に今も生きていたはずなのである。

 しかしそんなことを思っても仕方ない。これが現実なのだ。どれほど辛く受け入れがたくとも受け入るしかない。失敗や失ったものを嘆き悔やむよりも、思い出とそれから学び得たことを大事にしていくしかない。
 母が遺してくれたもの、今在るものを大切にして、しっかりやっていくしかない。
 けっきょくこれが人生ということなのだ。情けなく哀しくどうしようもないが、ともかく生きていかねばならない。そう、悔やむ気持ちはなくならないがどうしようもなかったのだ。

 母のいない母の日に、これを書きながらまた涙がとまらない。
 実は昨日からまた山梨に行き、一泊して今晩帰って来た。向うの直売所で、アヤメだか菖蒲の入った切り花を売っていたので買い求めてきた。
 母が生きていた頃、母の日であろうがなかろうが花束など買ってきたことは一度もなかった。花が好きだった母のために、その花束を母の遺影にそなえようと思う。遅くなったが今日は母の日なのだ。