健康について考えた。2011年02月13日 19時00分10秒

★腰は何とかまた動けるようにはなったが。

 おかげさまでギックリ腰の方は、だいぶ楽になりかろうじて自由に動けるようになった。が、まだ鈍い痛みは残っているし、階段などでは一歩づつ恐る恐る腰をかばいつつ歩くしかない。
 もちろん急には屈めないし、重たい物を持つのも中腰などは厳禁であり、完全に元に戻るまでは当分かかるように思える。映画やライブのように長い時間座って同じ姿勢でいることも腰に負担がかかるのでできやしない。それでも自由に動けるのは本当に有難い。もう咳をするのにも臆することはなくなった。

 今回の「病気」で気がつき考えたことだが、健康というのは、人生の目的ではないが、前提条件というか、まず必要最低条件であり、何をするにもまずは基本として健康でなければ何かを成すこと、始めることすら難しい。
 数日腰の激痛で全く動けなくなり、苦悶してようやくそのことに思い至った。人はまず健康であればどこへでも行けるし、やりたいことは何でもできる。これが入院でもしてしまえば、完全介護され楽であったとしても病室の中に閉じ込められた篭の鳥であり、ベッドの上でできることはかなり限定されてしまう。

 まあ、母を見ているとそれも仕方ないことであるが、退屈以前に一ヶ所に囚われた者としてさぞや辛かろうと思う。2、3日の入院ならのんびり療養気分でいられても長引くと精神的に参ってくるだろう。人はそれぞれ様々な自由の中で生きている。病気というものはまず肉体の自由を奪い次いで精神の自由さえも奪っていく。

 そしてこのところの経緯を振り返って思うのは、家族に病人がいるとその家自体も病気状態、つまり自由に何かをすることはできなくなってしまう。病人当人でなくても家族も看病のために昼夜時間をとられるし、容態が良いときでも常にその体調は気にかかり、胸に重石が残っている。憂鬱であり不安であり時に苛立ちや嘆息も多々ある。

 モノゴトがうまくいかなくても、例え失敗したとしても健康であればまたやり直せるし、旅行や買い物など気分転換の仕方もいくらでもある。病気になり病人として囚われてしまうと、そこに楽しみというのは皆無に近いし何かしたくても健康時に比べるとほんの僅かなことしかできやしない。
 病気の時の目的とは治ること、入院なら治して退院することであるが、果たしてそれが可能なのか病人当人も医者さえも定かではない。

 今自分が思うのは、こうして健康の有難さに感謝し大切にし無為に過ごすことのないよう自戒もだが、病人とその家族のために健康な者は何かすべきことはないかという問いである。それは別の国の別の人の話ではない。つい川向こうの目と鼻の先の話である。

 人は誰でもその川を渡る。こちら側に戻れれば幸いである。戻れない人も沢山いる。ならば橋を渡して彼らと彼らの家族のために何かできることをすべきではないのか。

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