バロンの浅草公演盛況のうちに終演す。 ― 2011年09月12日 20時51分53秒
★舞台公演の楽しさを満喫しました。
9月も半ばとなるのに連日残暑が続いている。この四日間毎日浅草に出向き公演に立ち会っていたのでさすがに疲れ果てた。昨日は帰ってきてブログ書き始めたらいつしか中途で倒れこむように寝てしまった。そしてそのまま朝慌てて家を出たのだ。
バロンの浅草見番での公演、今日12日が千秋楽で、マチネ一回だけだったので、終わって片付け少し手伝ったものの打ち上げには出ずに真っ直ぐ帰ってきた。夕刻7時頃には家に着いた。たぶん、今頃バロンたち出演者は浅草でスタッフと呑んでいることと思う。
連日終電で帰り、昨日今日と昼のマチネの開演前に浅草に行っていたので、寝る時間もなくさすがに今日は朝から睡眠不足で頭痛がしていた。
しかし、9日夜からの土日は2公演、今日は昼一回の合計全6回のステージは土曜のマチネ以外ほぼ全て立ち会えたので舞台公演の面白さを十二分に満喫し堪能できたかと思う。そのことについてまず記す。
自分はステージに立つ側でも照明や音響そして設営などの舞台の裏方でもなく、今回もただ受け付けをCD売りながら手伝っただけであったが、こうして舞台を皆で作り上げていく楽しさをぞんぶんに味わうことができた。友人に劇団の役者をやっている人も多くいたが、なるほどこれははまるな、面白くてやめられないな、というのが率直な感想だ。
どれほど練習を重ねても初日当日は、音響や照明なども含め役者たちの間のとり方などミスが生ずる。観る側も初めての舞台だから緊張してかなか楽しむところまで気持ちがまだいかない。演る側も半ば手探り状態で最初の何回かは試行錯誤しつつ演っている。それがひしひしと伝わってくる。
だが、回を重ねるごとにその曖昧さや迷いがなくなって型が固まり、話や進行もスムーズになっていく。それが練れてくるということで、出演者たちはどこまで気がついているかわからないが、毎回観ているとその変化が実に面白かった。
観客もリピーターも多かったこともあるが、回を重ねるごとに安心して楽しめるようになっていった。舞台公演とは、そうして観客も一体となってステージを全員で作っていくものだと今回強く感じた。いや、今頃気づいたというべきか。
そこが音楽だけのライブコンサートとは違うところで、基本的にライブの場合は、一日、一回こっきりでそのときどきの観客と対峙し真剣勝負のようにして短時間で終わる。だからツアーなど同一メンバーで公演を重ねるとき以外は練れるところまで進まない。舞台セットなどの仕込にも凝れないし一回ごと終わればそれで終わりである。
料理にたとえれば、音楽のライブは素材勝負の刺身や握り鮨のようなものであり、演劇舞台は仕込みに時間と手間をかける多勢のコックが関わるフランス料理のようなものかと思える。音楽ライブはミュージシャンが主役で彼のものであるが、舞台とはある意味、出演者=役者のものではなく、スタッフを束ねる舞台監督のものである。まあ、バロンは本も担当するミュージシャンなのでそうは完全に言いきれないが。
それでも一回一回、同一の舞台はありえないし客の入りともあまり関係なく出来不出来もある。それでも生の舞台とは、観客の反応がその場ですぐ返ってきてそれを受けてまた次の舞台に活かしていく。それを繰り返して出演者もスタッフも観客も全員で一つの空間を作り上げていく。そのことが実によく理解できた。
実は去年のときも東洋館で、同じく台東区したまち演劇祭の一環として、まったく同時期にバロンは世界一周楽団で公演したのだが、そのときは公演自体は楽しんだものの、まだ舞台そのものの味わいまで気がつかなかった。二年目を迎えて、裏方のスタッフとも顔なじみになったこともあったからかようやく皆で作り上げていく演劇舞台の醍醐味を知ったというわけだ。
さて、その公演自体の内容であるが、事前に想像したとおり、今回のステージは、バロンとジョーダンの二人芝居であり、これまでの世界一周楽団とのステージがクレイジーキャッツをほうふつさせるとしたら、彼らはコント55号的なドリフであった。
つまり、いかりや長助の役割をバロンが担い、加藤茶や志村などのかき回し役をジョーダンが担当するという分担である。その二人のかけあいだけですいぶん笑わされた。特にジョーダンのボケは最高であり、本物の「へんなガイジン」として存在だけで場をわかし続けた。
公演当初は正直なところ全コント書き下ろし、音楽もほぼ全て新曲という展開に意欲的だと感心したものの戸惑うばかりであった。果たして面白いのか面白くないのか判断につきかねた。が、回を重ねるごとに練れて締まってきてああこれはドリフ好きのバロンらしいなと納得了解できた。
個人的には、世界一周楽団が得意とした、クレイジー的超絶音楽ギャグがなくなったのが物足りないが、ある意味バロン&ジョーダンのコンビにスポットが強く当るようになったのだからこのスタイルは人気も高まるに違いない。むろん、今回のステージは、そんな彼らを寡黙に支えた信頼に足るバックミュージシャンのお二人、アコーディオンの田ノ岡三郎とウッドペースの宮坂洋生の存在があったからこそバロンたちの芸が引き立ったことを特筆しておく。お二人ともステージを離れた人柄も真摯かつ魅力的な方であった。出会いは素晴らしい。彼らを知りえたことだけでも収穫であった。
これでバロンの秋の公演は終わった。彼らと少しでも関われたのは良かった。さあ、これからは自分の人生、自分の芸術に専念していこう。スカイツリーを見上げながらの帰り道決意を新たにした。
9月も半ばとなるのに連日残暑が続いている。この四日間毎日浅草に出向き公演に立ち会っていたのでさすがに疲れ果てた。昨日は帰ってきてブログ書き始めたらいつしか中途で倒れこむように寝てしまった。そしてそのまま朝慌てて家を出たのだ。
バロンの浅草見番での公演、今日12日が千秋楽で、マチネ一回だけだったので、終わって片付け少し手伝ったものの打ち上げには出ずに真っ直ぐ帰ってきた。夕刻7時頃には家に着いた。たぶん、今頃バロンたち出演者は浅草でスタッフと呑んでいることと思う。
連日終電で帰り、昨日今日と昼のマチネの開演前に浅草に行っていたので、寝る時間もなくさすがに今日は朝から睡眠不足で頭痛がしていた。
しかし、9日夜からの土日は2公演、今日は昼一回の合計全6回のステージは土曜のマチネ以外ほぼ全て立ち会えたので舞台公演の面白さを十二分に満喫し堪能できたかと思う。そのことについてまず記す。
自分はステージに立つ側でも照明や音響そして設営などの舞台の裏方でもなく、今回もただ受け付けをCD売りながら手伝っただけであったが、こうして舞台を皆で作り上げていく楽しさをぞんぶんに味わうことができた。友人に劇団の役者をやっている人も多くいたが、なるほどこれははまるな、面白くてやめられないな、というのが率直な感想だ。
どれほど練習を重ねても初日当日は、音響や照明なども含め役者たちの間のとり方などミスが生ずる。観る側も初めての舞台だから緊張してかなか楽しむところまで気持ちがまだいかない。演る側も半ば手探り状態で最初の何回かは試行錯誤しつつ演っている。それがひしひしと伝わってくる。
だが、回を重ねるごとにその曖昧さや迷いがなくなって型が固まり、話や進行もスムーズになっていく。それが練れてくるということで、出演者たちはどこまで気がついているかわからないが、毎回観ているとその変化が実に面白かった。
観客もリピーターも多かったこともあるが、回を重ねるごとに安心して楽しめるようになっていった。舞台公演とは、そうして観客も一体となってステージを全員で作っていくものだと今回強く感じた。いや、今頃気づいたというべきか。
そこが音楽だけのライブコンサートとは違うところで、基本的にライブの場合は、一日、一回こっきりでそのときどきの観客と対峙し真剣勝負のようにして短時間で終わる。だからツアーなど同一メンバーで公演を重ねるとき以外は練れるところまで進まない。舞台セットなどの仕込にも凝れないし一回ごと終わればそれで終わりである。
料理にたとえれば、音楽のライブは素材勝負の刺身や握り鮨のようなものであり、演劇舞台は仕込みに時間と手間をかける多勢のコックが関わるフランス料理のようなものかと思える。音楽ライブはミュージシャンが主役で彼のものであるが、舞台とはある意味、出演者=役者のものではなく、スタッフを束ねる舞台監督のものである。まあ、バロンは本も担当するミュージシャンなのでそうは完全に言いきれないが。
それでも一回一回、同一の舞台はありえないし客の入りともあまり関係なく出来不出来もある。それでも生の舞台とは、観客の反応がその場ですぐ返ってきてそれを受けてまた次の舞台に活かしていく。それを繰り返して出演者もスタッフも観客も全員で一つの空間を作り上げていく。そのことが実によく理解できた。
実は去年のときも東洋館で、同じく台東区したまち演劇祭の一環として、まったく同時期にバロンは世界一周楽団で公演したのだが、そのときは公演自体は楽しんだものの、まだ舞台そのものの味わいまで気がつかなかった。二年目を迎えて、裏方のスタッフとも顔なじみになったこともあったからかようやく皆で作り上げていく演劇舞台の醍醐味を知ったというわけだ。
さて、その公演自体の内容であるが、事前に想像したとおり、今回のステージは、バロンとジョーダンの二人芝居であり、これまでの世界一周楽団とのステージがクレイジーキャッツをほうふつさせるとしたら、彼らはコント55号的なドリフであった。
つまり、いかりや長助の役割をバロンが担い、加藤茶や志村などのかき回し役をジョーダンが担当するという分担である。その二人のかけあいだけですいぶん笑わされた。特にジョーダンのボケは最高であり、本物の「へんなガイジン」として存在だけで場をわかし続けた。
公演当初は正直なところ全コント書き下ろし、音楽もほぼ全て新曲という展開に意欲的だと感心したものの戸惑うばかりであった。果たして面白いのか面白くないのか判断につきかねた。が、回を重ねるごとに練れて締まってきてああこれはドリフ好きのバロンらしいなと納得了解できた。
個人的には、世界一周楽団が得意とした、クレイジー的超絶音楽ギャグがなくなったのが物足りないが、ある意味バロン&ジョーダンのコンビにスポットが強く当るようになったのだからこのスタイルは人気も高まるに違いない。むろん、今回のステージは、そんな彼らを寡黙に支えた信頼に足るバックミュージシャンのお二人、アコーディオンの田ノ岡三郎とウッドペースの宮坂洋生の存在があったからこそバロンたちの芸が引き立ったことを特筆しておく。お二人ともステージを離れた人柄も真摯かつ魅力的な方であった。出会いは素晴らしい。彼らを知りえたことだけでも収穫であった。
これでバロンの秋の公演は終わった。彼らと少しでも関われたのは良かった。さあ、これからは自分の人生、自分の芸術に専念していこう。スカイツリーを見上げながらの帰り道決意を新たにした。
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