10.1浅草木馬亭での岡大介独演会を観て2011年10月02日 01時17分16秒

★岡大介は今難しいところにいる。

 今これを記しているのは10月1日の深夜、正確には2日の午前1時過ぎだ。
 例によって立川から青梅線の終電で何とか帰ってきた、というわけではなく、立川駅には11時半頃着いて、まだ余裕で電車はあったのだけれど、立川から自転車で帰ってきたので遅くなった。実は行きに立川の歯医者に自転車で行って駅前に停めておいたのだ。

 今日は浅草の木馬亭で毎年恒例となった岡大介と盟友小林寛明の独演会があった。今年で三年目となる。

 増坊は日頃から岡さんには何かとお世話になってばかりだし、自分を音楽の世界に導いてくれたのはこの若き親友のおかげだと心から感謝しているので日頃の無沙汰の詫びもかねて久々に彼の大きいライブに行ったのだ。
 その報告をするに当って帰り道ずっとどう書くべきか考え続けていた。
これは何も文字にして万民の目にふれるところに発表する必要もなく、直接彼に話せば良いことだとも考えた。が、帰路、立川の農業試験場の中の森で、花壇の石垣に座ってマクドで持ち帰りにしてもらったコーヒーを飲みながらしばらく悩んでやはり書くことにした。

 今日のコンサート、はっきりいって彼としては不出来なものに思え私的にはかなり失望した。演奏もうたも良かったし、前の席の初見と思われる若い女性の方々は終わったあと感嘆し良かったあと興奮していたから決して一概に悪かったとは言えないのだろう。が彼の実力をよく知る者としては、「彼にしては」不出来であり、エラソーなことを言うが猛省を促したい。それは構成ができていなく全てがクズグズのまま不完全燃焼気味に終わってしまったからだ。

 休憩時間の幕間に、突然今売れっ子の漫才コンビ『ロケット団』の二人が出てきて漫才をしっかり一席繰り広げた。ロケット団はこのところ自分も寄席で何回か観ていて好感を持ち高く買っているコンビであるが、はっきり言って全く場違い畑違いであり、岡大介の独演会のゲストとしては相応しくない。何故彼らが登場したか本当に理解に苦しむ。この日の観客の多くが戸惑ったに違いない。まだバロンとか寒空はだかさんとか立川だんなとか同じ芸人であっても岡と関わりがありこうした音楽に素養がある人でなくては意味をなさない。※これはロケット団の悪口ではない。

 そして最も問題なのは、一部と二部の休憩時間に彼らが出たために観客は席を立てず漫才が終わるのを待っていたらすぐ休みなしに熊坂るっちゃんのソロに続いて二部が始まってしまったことだ。これではトイレに行くことができないではないか。トイレが近い自分は席が立てず困惑した。
 いつもならばきちんと休憩時間を告知し、常に観客には事前に進行を説明してくれている岡大介としては今回いったいどうしてしまったのか。

 そうした構成の失敗も大きいが、曲順も曲目も展開も果たしてこれでよかったのか。せっかくバックに関島さん中尾さんら芸達者な豪華なサポートを招いたのに彼らの持ち味は活かされたか。岡の落ち着かない語りだけが空回りして徒に時間が過ぎてしまい漫才も含めてそうした時間があればもっと沢山うたってほしいと思うのは自分だけか。

 こんなことは言いたくないがあえて言う、とか書きたくはないが書くというのは老人特有の嫌味だと自分でも思う。しかし、今岡大介は非常に微妙なところ、岐路に立っているように思える。

 それは、いったい誰のために歌うのか、どんなシンガーに彼自身がなりたいのかそれがよく見えていないからではないのか。むろんファンは新たに次々増えるだろう。そして彼ら彼女たちに応えるために彼自身妥協もしていく。しかしそのことは昔から彼を応援してきたコアな通なファンにとっては裏切りではないとしても物足りなくも思ってしまう。それは誰もが通る道でありその両者を満足させられたミュージシャンは少ない。しかしそれができない限り、新たにファンは増えてもまた古いファンは離れていく。そのどちらに焦点を絞れといっているのではない。本当に彼自身が何を誰のために歌いたいのか覚悟が決めろということだ。

 それなりに良いコンサートだった、まあ三回目にしては客は良く入ったしあんなものだろうと言葉を濁すことはたやすい。そうしようかとずっと考えた。しかし日本のフォーク界を背負って立つ期待の星、天性のスーパースター岡大介だからこそあえて苦言を言いたい。

 好漢岡大介、あんなもので満足するな。もっともっと汗をかいて真の実力を見せてくれ。このままだと四回目は行くが期待に応えてくれないとその先はどうなる・・・。

 こんなことを書けばまた友達をなくす。が、このことは一人岡大介だけの問題でもないようにこのところずっと考えている。日本のフォークシンガー固有の問題点でもあるような気がしている。つまり、うたも演奏もそれぞれは良いのにコンサート自体はグズグズになってしまう結果のことを言っている。
 それはきちんとした舞台監督がいないせいもある。だがそれだけではない。機会あればもっと考えて掘り下げて書き進めたい。

老いの記録を記していく。2011年10月02日 11時28分58秒

★誰もが通る道だからこそ

 昨日は、ライブのあとの打ち上げ、気心の知れた岡ファンの仲間たちと楽しい酒であった。公演自体はかなり早く終わったこともあって、時間的に余裕もありけっこう呑んだような気がする。

 でも、意識朦朧なほど酩酊しなかったし、立川から30分かけて自転車で帰ったこともありすっかり酔いも醒めたと思った。ブログでライブの報告を書き上げてフロで温まってから寝床に入った。すぐ眠りに落ちた。
 ところが、数時間もしないまだ真っ暗な時刻に目が覚めて、それからがなかなか眠れず、気持ちはウツウツとして不安感に襲われ悶々としてしまった。

 近年いつの頃からか、ある一定の量を超す酒を呑むと、酔っぱらって眠くなって寝たはずなのに必ずすぐに真夜中に目が覚めてしまう。そしてそのときの気持ちったらない。二日酔いで気持ち悪いとか頭痛するとかでもなくとも、酔って寝て深夜にふと起きたときの絶望感ぐらい辛い気分はないと断言する。
 血中内のアルコール度数がそうさせるのかわからないが、失くし物なく帰ってきたのか、何か忘れてはいないかとあれこれ考えしまう。何だかわからない気持ちに囚われて強い不安感と焦燥感に苛まれる。外がまだ真っ暗なこともある。疲れているはずだし眠たいのになかなか寝付かれず悶々として再び眠りに落ちるまでの時間が本当に辛く苦しい。

 若いときはこんなことはなかった。泥酔しても吐いてもそのまま前後不覚でひたすら眠れた。それがこのところある程度たくさん酒を呑んで寝ると何時に寝ても必ず真っ暗な時刻にすぐに起きる。そして絶望する。それは世界中で生きているのが自分だけのような孤独感であり、理由のわからない不安感と焦る気持ちに押しつぶされそうだ。
 これも老いのしるし、何かの老人的心理の表れ、精神の病の兆候なのだろうか。自分だけの特有なことかそれともある程度一般的な傾向なのか知りたくも思う。

 敬愛した故山口瞳先生は、生涯、その病死の直前まで一回も原稿を休むことなく毎週週刊新潮に「男性自身シリーズ」を書き続けてきた。そこには彼自身が歩んだ老人としての道、つまり体と心理の変化が包み隠さずに記されていた。
 自分は若者の頃からそれを読み続け、歳をとるとふーん、そんな風になるのかと興味深く思ったが、あくまでもそれは他人事でしかなかった。

 そして今自らが彼の歩いた道をなぞって、老化が進むこのところ、ああ、先生が書いていたのはこのことかと深く思い至ることばかりである。
外出し国立の大学通りで急に小便がしたくなったのにトイレがみつからなくて汗かくほどうろたえた話などまさに今や自らのこととなった。

 ということは、自分もまた彼と同じ道を歩むならば、そうしたことを書き記すことは今の若い人たちにとっても全く意味がないとは言えないだろう。彼らもまだ他人事であろうと、老いと死はやがては必ずやってくる。避けられないことであるならば、老人へ向う心理と肉体の変化は書き記しておく価値はあろう。備えあれば憂い無し。いや、憂いはあっても誰もが通る道ならば覚悟もつく。今自分はそんなことを正直に書き残してくれた山口瞳に感謝しているのだから。

 これからそうした老人への道の途中のことを、現在初老の男性の心理と肉体について不定期にでも書き残していきたい。