深まる秋に思いは逸る。2011年10月19日 23時53分07秒

★それにしてもめっきり寒くなったなあ。

 今日は一日どんよりとした曇り空。肌寒いどころか初冬の感がある。街を行き交う人、特に女性方はマフラーにコート、足にはブーツの完全に冬の装備である。

 増坊は、近年ずっと春先から夏、そして秋まで常に裸足にサンダル掃きでスリーシーズンを通して靴下も靴も一切履かない。基本的に寒さに強いほうだが、さすがにもはや寒くて素足ではいられなくなって、今日は今季初めての靴下を履いた。次は靴を探さねばならない。
 それにしても数日前には30度を超す真夏日があったのに、また11月末の気温である。激しい寒暖の差で体調を崩す人も多いようで、風邪ひいているという人があちこちにいた。そういう自分も今日は鼻水垂らして風邪気味である。

 昨日の追記したブログ、疲れたところに酔っぱらって書くと萎えた気持ちがそのまま出て、読み返しても後味悪い。深刻になっても仕方ないし、ともかく悩んだり凹んだりくよくよしている時間があるなら少しでもやるべきことを進めて行くだけだ。登山でも途中でうんざりしてもはや一歩も歩きたくないときもある。しかしそこに留まっていては先にも進めずも元にも戻れなくなる。少し休んで息を整えたら歩き出さねばならない。前へ前へ先へ先へと進めばいつか目的の地にたどり着く。

 ただ、全てのことには日程や工程がある。特に人間関係は相手の都合や条件も大きく考慮に入れなくてはならない。いや、そもそも向こうの都合でこちらが動かされるものだと言ってもよい。故にすべてのことは思い通りにはまずならない。
 だから身勝手に自由気ままにできることは自分ひとりだけのことに限られる。となると自分の人生は自分だけのものではなく、かなりの割合で他者や環境に左右され規定されてしまう。いや、そもそもそれこそが「人生」であり、無人島や深山のそのまた奥で、世捨て人のように自給自足で生きる以外に真に自分だけのことはできやしない。

 漱石居士は、その50年の人生をほぼ全期間他人に振り回されて生きた。虚無的とも思える厭世観と彼の元に集ってきた同人を労わり気遣った博愛主義の狭間で神経の病と胃腸の大病に苦しみながらも。「則天去私」とは晩年彼の残した言葉であるが、自分もまたそのような気分によく苛まれる。
 特に今日みたいなどんよりとしたうすら寒い「硝子戸の中」から外を眺めると。