50年前の東京オリンピックの記憶2014年10月23日 23時28分32秒

★次のオリンピックには反対ではあるけれど          アクセスランキング: 61位

 10月も終わりに近づきめっきり寒くなってきた。関東以北では初霜や初氷の報も聞かれる。じっさいウチでもこたつや冬物を早く出さねばと大騒ぎしている。
 例年暖冬が続いていたが、去年あたりからまた寒い冬が来るようになって、天候不順もあるせいか今から気温の低い冷え込む日が続いている。今年もまた厳しい冬が早く訪れるのかもしれない。過ごしやすい快適な日和はこの秋はなかなかない。秋もまたそんなでさらに忙しい。

 今年は1964年の東京オリンピックからちょうど50年とのことで、テレビや新聞ではそのことをさかんに特集していた。そのときのオリンピック、半世紀前の記憶を持つ人は当然ながらもはや若くても60歳近くであろう。
 自分もまた当時小学校に上がるかその前ぐらいであったわけだが、そのオリンピックについての記憶はテレビと共にかなりはっきり持っている。

 当然ながら我が家でもそのオリンピックを見るために初めてテレビジョンを買った。つまり白黒のテレビで観たオリンピックと共に自分の記憶は始まっているようなもので、それぐらいテレビがお茶の間にはいってきたのは衝撃だった。
 あの開会式のファンファーレは後にも何度も繰り返しそのシーンが再放送されているので記憶が上書きされているのかもしれないが、間違いなく祖父や家族全員で、各国の入場行進などある種の感動と興奮の気持ちでブラウン管を見つめていたことを覚えている。むろん細かい競技などの記憶はもう今は何もないが、あれはまさに国民的一大イベントであったことは間違いない。オリンピックがなければウチにはテレビが来るのはもっと遅れたことであろう。

 オリンピックのために敗戦の焼け跡の東京は大きく様変わりし首都高や東海道新幹線、それに高速道路と今日の日本の基礎は突貫工事で出来上がったのだった。そしてそれが高度経済成長の礎ともなったのだから今思えばオリンピックがあったから東京のみならず今の日本が成立したと言えよう。ならばそれはやはり良かったのである。

 そしてそれから半世紀50年。今また6年後に再び東京でオリンピックを開催するということは様々な感慨と複雑な思いがする。むろん前回のオリンピックの記憶など持たない若い人たちには楽しみと喜び、大きな期待であろうから一概に反対はもうしない。スポーツ好きの日本人なら生涯に一度は自国開催は夢であろうから。が、今またオリンピック景気に期待し再開発で夢よもう一度と金儲けを願う人たちには冷ややかな視線を浴びせたい。
 これを機に外国人を多く日本に招き金を落としてもらおうというのはともかくも、またかこつけての再開発に次ぐ再開発で、昭和の東京の姿を残す街並みがさらに消えてしまうのは残念でならない。

 昨今都心に出ても、どこもかしこもナニナニヒルズとか、ナニナニタワーとかいう、おしゃれなテナント満載の巨大商業施設ばかりとなって、しまってどこがどこやらもう自分には全くわからない。有楽町も渋谷も品川も様変わりしてしまい昭和の面影を残すごちゃごちゃした駅前繁華街はどこも姿を消してしまった。

 それが時代の流れであり世界一の大都会東京なのだと理解もするが、都心の様子がさらにまた次の東京オリンピックを口実により無機質に巨大ビル化していくことには抵抗を覚える。この国は明治来ずっと普請中だと嘆いたのは漱石か鴎外か。昔が良かったとは一概に言えないし思わないが、50年前の記憶を辿るとともかくすべてが懐かしい。
 たぶんそれは、ウチは金持ちではなかったが、祖父母や父の弟妹たち、自分にとっては叔父や叔母も同居していた大家族であったからにぎやかさと共に抱く満たされた幸福感なのであろう。

 幼時の記憶は常にテレビと共にある。50年前の東京オリンピックがなかったらテレビもなかったはずだからまさにオリンピック様様なのだとあれから50年過ぎてつくづく思う。それにしてもまさか半世紀前の記憶を持つほどの歳に自分がなっていること、そこまで老いたことにも驚かされる。しかしまあ、それすらも良いことなのだ。個人的には相変わらず全く変わり映えせず貧乏でダメのままであっても、大病もせずにここまで何とか生きてこれたわけだから。老親と天に感謝しないと罰があたる。

 浦島太郎ではないけれど半世紀なんてあっという間であった。人生は長いようで短く、短いようで実に長い。特に年とるとさらに早く、まさに光陰矢の如しなのである。
 何はともあれ、2020年の東京オリンピック、この自分は再びテレビで観ることができるのであろうか。いや、そもそもこの日本という国が無事に事もなくそのときを迎えられるのか。関心はそこだけにある。