ショックな事実、出来事をどう受け入れるか2015年10月02日 08時38分36秒

★未だ「悲しくてやりきれない」

               【悲しくてやりきれない】   
               詞 サトウハチロー
               曲 加藤和彦
               唄 ザ・フォーク・クルセダーズ

胸にしみる 空のかがやき
 今日も遠くながめ 涙をながす
 悲しくて 悲しくて
 とてもやりきれない
 このやるせない モヤモヤを
 誰かに 告げようか

 ペットロス症候群なる心の病があるとは聞いていたが、どうやら自分もそれにかかったようだ。起きてしまった事実をようやく現実のこととして受け入れられるようにはなったが、気がつくとその死んだ猫のことばかり考えて「今日も遠くをながめ 涙をなが」している。まさに、悲しくて悲しくてとてもやりきれない。

 睡眠薬はやめたので、夜は3時ごろまでベッドの中であれこれ悶々としている。こちらを気遣い暖かい慰めのメールを送ってくれた方も多々おられて大変有難く思うが、その猫の在りし日について書かれた部分を読んだり、あんなに可愛い人懐っこい良い猫だったのに・・・実に残念です、と記してあるとまたまた涙が止まらない。
 私事で友たちにいらぬ心配かけお心づかいに深く感謝すると共に申し訳なくも思うが、やはり時間だけがこの哀しみと永遠の別れの辛さを癒すことができるのだと気づく。いずれにせよ今も憤懣のようなやるせなさはずっと続いている。何でこんなことになったか、だ。

 人はこうした突然のショックな出来事に遭遇するとどういう心の変化を示すのか。癌、それも手遅れで死の宣告を受けた患者たちの心の変遷をまとめた資料をみてみた。
 日本でもその著名な精神科医キューブラー・ロスの『受容のプロセス』によると、その告知を受けて以下のような心の変遷、プロセスをたどるとある。
1.否認と隔離
死が近いと知ると非常に大きなショックを受け、「そんなことありえない!」「何かの間違いに決まっている」と否認する。また、孤立してコミュニケーションを避けるようになる。

2.怒り
「どうして私だけがこんな目にあわなければならないの!」「なぜあの人は元気なのに、私だけが!!」というように怒りの感情が噴出する。そして、見るもの聞くもの、あらゆるものに対して怒りを感じ、その感情を周囲にもぶつける。

3.取引
何かを条件にすることで、延命や回復の奇跡を期待する。神にすがったり、何かのよい行いをすることで奇跡を得ようとする。「もう一度だけ○○ができれば、運命を受け入れます」などと、期限を条件に願いをかけることもある。

4.抑うつ
死を避けることができないと知り、さらに病気の症状が悪化して衰弱してくると、絶望的になって非常に強く落ち込む。命とともに、築いてきたものをすべて失う喪失感が襲い、悲しみの底に沈む。

5.受容
体は衰弱しきり、感情はほとんどなくなる。誰かと話したいという気持ちもなくなり、自らの死の運命をそっと静かに受け入れ、最後のときを穏やかに過ごそうとする。
※参考サイト『余命、障害…ショックな事実を受け入れる心の変遷』http://allabout.co.jp/gm/gc/376132/

 これは、自らの「死」をどう受け入れていくか、その心の流れを時間軸で追ったものだ。だからペットも含めての他者の死とはいくぶん異なる。
 特に、もう起きてしまったことの場合、3.の「取引」もしようがない。ただ心の流れは基本的にはさほど変わらないと思える。
 
 まず、1.の否認と隔離だが、その起きてしまった「出来事」をどうしても認められず、パニック状態となる。また、通常の人間関係も維持不可能となる。誰とも会いたくないし関わりを持ちたくなくなる。
 そして、2.のように、その苦しみ、悲しみ、悩みを誰かにぶつけたくて怒りに転嫁しようする。今回自分の場合もTという人のせいで、猫は事故に遭い死んだのだと結果の「原因」を作ろうとした。そうしないことには心が収まらなかった。
 そして4.抑うつ期。絶望と喪失感で、落ち込む。なかなか立ち直れず心身ともに不調をきたす。今の我はこの時期かと思う。
 そして5.の受容、までまだ時間はかかるだろうが、全てを受け入れ頭でなく心でも理解し起きたことを肯定しなくてはならない。

 神を求め信ずる者として、すべては御心のままなのだと理解はしている。ならば起きたことは全て認め、受け入れていくしかない。むろんのこと今回の件では大きなことを学び得た。愚かにもようやく「心」というものを深く見つめ直す機会を得た。すべては神の計らい、神の意思なのだとも思える。だが、まだとてもそれは「良いこと」だなんて思えない。

 あんな小さな、短い命ではあまりに可哀想ではないか。たとえ動物でもこの世に生を受けたからには精いっぱい生きて幸福になる権利があるはずだと思う。あの猫はそれを享受したか。猫の人生満足したのだろうか。
 かなわなかった思いはともかくも、してあげられなかった思いが今も苦しく心を責め続ける。まさに後悔先立たずだ。
 どうかもう一度生まれ変わって、我家にまた帰って来てほしいと今も真剣に祈っている。
 もう猫は飼わないだろうね、と言ってくる人もいる。とんでもない。この世に不幸な居場所のない犬猫たちがいる限り、我は足腰が立たなくなっても飼い続ける。それこそが全てを受け入れ神の御心にかなうことだと信じて。
彼らは無償の愛で多くのものを与えてくれた。ならば人はその恩に報いるべきであろう。愛に返すのには愛で報いるしかない。

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