心の置き場所2015年10月03日 22時36分59秒

★さあ、次へ進まねばならない。             アクセスランキング: 121位

 いつまでも鬱々としている暇はないのだが、不眠症気味となってしまい、夜はなかなか寝付かれないのに、朝は毎度のこと早起きで寝坊もてきず、睡眠が足らず頭痛とめまいで体調悪い。まったく情けない限りである。
 が、ようやく猫の件は心落ち着いた。ただ今も憤るような怒りに似た感情は続いていて、誰かを憎むとか対象があるわけでなく、ともかく全てをもう一度きちんとやらねばと、もうそれしか術はないのだと自らに言い聞かせている。身勝手なバカとは付き合わないし、相手にもしない。
 人からどう思われようとどう扱われようと、何を言われようと一切関係ない。今まですべてを曖昧に、中途半端にしてきたからこんなことが起きたのだと、過去の自分に対して怒りがふつふつと湧いてくる。それはやさしさなんかじゃなかった。単に臆病で卑怯だったのだ。全てに誠実でないのだから卑劣であったと今にして思う。
 これからはどんなことにも逃げずに毅然と立ち向かい対処していく。どんなことでもはっきりさせていこう。

 自分の人生なのだ。自らが一切の責任を持とう。人に頼ったり任せたり願ったりするのはもうやめた。今までは全てに甘すぎ甘えすぎた。
 残りの人生が何年、何十年果たしてあるのかわからないが、自分の責任においてとことん満足納得して生きていきたい。他者には求めないしその都合には振り回されたくない。むろん我に求め請われればできることは何でもする気は変わらない。それは人としての務めだから。しかしそれすらも無償の愛で常に応えるのはもはや難しい。
 ギブ&テイクなど要求はしないが、まずは、何であれ我が身の道筋をつけてからの話だろう。自らの尻も拭けないやつが他人様のことをどうこうできるはずもない。その力と余裕がなければ双方共に失墜してしまうのは目に見えている。
 ともかくまず全てをきちんとさせていく。

 さておき、心というものは実に不思議だと気がつく。ようやく死んだ猫のことも哀しみという感情のファイルに収めることができた。
 当初は起きてしまったことが受け止められず、どう心を処理してよいものかパニックとなった。今は、心の中の過去の出来事、記憶という大きなフォルダの中にいくつもある、楽しさ・喜びの思い出、辛い・失敗の思い出、怒りや憎しみの思い出、そして不幸や哀しい出来事の思い出とというフォルダにキャラコもしまうことができた。
 むろんそこを開けば、つまりその記憶を思い出せば他の哀しい別れと共に哀しみの感情はいくらでもよみがえる。が、そこを開いて、いつまでも哀しみにひたっていても何一つ解決しないし先へも進めない。時間は二度と戻らない。取り返しつかない。

 そう、哀しみにいつまでも沈んで鬱々としていても死者たちは喜ばないだろう。それよりも早く元気になり、前向きに人生を謳歌してこそ彼らの供養にもなろう。むろん、今回のような失敗、失態は繰り返さないと誓って実践してのことだ。
 死んでしまった者たちのためにも生きている者はしっかり生きていく。彼らは肉体は消えたととしても今もしっかり記憶の中で生きている。いや、魂は常に存在している。愛し、愛された彼らを知る者たちが生きている限り死者たちもずっと心の中で、記憶の中で生き続けている。

 そして今世では別れてもまた必ず会うことができる。肉体は生きていても老いて朽ちるが、その魂は朽ちることはない。淋しくないとは言わない。ならば淋しさは淋しさのまま抱えつつもその思い出と共にしっかり生きていこう。

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