人々の思いを繋げて人生を続けていく2016年03月03日 23時29分24秒

★まず何から書くべきか           アクセスランキング: 99位 

 3月3日、桃の節句である。昨日の朝はかなり冷え込んだが、今日は暖かく、日中も暖かな陽射しの長閑な一日であった。
 風邪は峠をこした。まだ喉が痛かったり咳が残っているが、ずいぶん楽になってきた。が、あまりにあれこれ慌ただしくて、頭を痛めることが山積しているからか、今も頭は鈍く重く痛い。昨晩もだったが、心労疲労からこのまま倒れ込むように眠ってしまいたい誘惑と今闘っている。

 起きたことや、今抱えていることの状況などは刻一刻と移り変わってしまうから、後でゆっくり書こうなどと後回しにしてしまうとその時点と状況が変わってしまい結局書けないままとなる。
 焦りはしないが、本当にやること、やらねばならぬことが山積して実際に頭が痛い。まず何から、何を書けば良いのだろうか。頭が痛い。

 このところブログを書いていていつも思うことだが、悩みや嘆き、孤独など淋しさ、苦しみをそっくりそのまま書き記せたらどんなに楽であろうかと。
 お前はいつもそんなことばかり書いているではないか、と嗤う声は聞こえている。しかし、これでもここに書けないこと、書いていないことは山ほどあり、書きたい誘惑にかられるが、書けばきっとうっかり読んだ人は心を痛めるだけでなく、優しい人ならば悩んだりご心配をおかけするだけだから、同情は有難いことだが、他人様まで苦しい嫌な思いをさせることは本意ではない。
 できれば常に面白可笑しく、読めば楽しい、元気になるようなことだけ書いていきたいと願うし、もし自分も読み手の立場ならそうした内容のものを歓迎するだろう。誰だって元気のない人や病人と付き合おうなんて思わないはずだ。

 しかし、心労心痛のときに、そんなことは表に出さず、何事もないように明るくバカ話だけ書いていられるかというと、それが商売、飯の種ならともかくも、慌ただしい雑事の合間を縫ってだとブログに何をどう書くか考えるだけでしんどいときがこのところままある。

 書きたいことが=即書けることであった時期もあったし、昔は読み手のことなど一切お構いなしに、書きたいから書いたのだ、それでいいのだ、とまだほんまもんの大バカだったから、平気で何も深く考えずひたすらだらだら好き勝手に書きなぐっていた。が、さすがにこの歳になり、多少の分別もつき人生経験も積んだので、それは許されないことはわかってきた。で、昨日もどう書くべきか迷いけっきょく書けずに寝てしまった。

 そんなことを考えながら枕元の本を手に取ったら、クリスチャンの詩人・八木重吉のもので、その中にこんな一節が目に入った。

 このさびしさを誰に告ぐべきか
 神に告ぐべし

 と。確かにそう思う。しかし、神を求め、神に祈り、神にすべてを委ねるのであらば、もう我はブログなど書かないし必要ではないと思う。まさに彼が詩うように

 基督を信じて
 救はれるのだとおもひ
 ほかのことは
 何もかも忘れてしまはう       となるであろう。

 が、何事においても浅薄で、卑小な我は、神の愛を感じながらも今この時も迷い悩み、出口のない問いで脳内いっぱいにし悶々としているのだ。
 そして八木重吉のように生きられないのならば、やはり書くしか、あるいは唄うしかないのだと思う。
 基督があることは救いであるが、答えは示してはくれない。答えは我が内にあり、それは自ら最善の答えを出せるよう努力しないとならない。そのことこそ、神の愛にこたえ、御心にかなうことに他ならない。
 そのためにもやはりまずは書くしかない。そしてこうも思う。「我がこと」を書くわけだが、やがて書いたことでそれは読み手が共有し普遍=「みんなのこと」にもなり得るのでないかと。

 今は亡き人も含めて、過去も今もそして未来をも皆ひとそれぞれの思いがある。その「思い」は人それぞれ個々違っているわけだが、実は総体として、人類全体としてみれば同じものではないのか。
 「人生」というと、個人のそれを誰もが考えるが、人生とは実のところ個人ではなく、その皆の思いが繋がったもの、皆の思いを繋げて過去から未来へと繋がり続いていくものではないか。

 ならば、我が個人的なこと、個人的な思いを書いたとしてもそれもまた、皆にとっても同じこととなるかもしれない。

 明日から、書きあぐねて書けずに溜まってしまったこと、すべて書いていく。