我にその先はあるのか、来るのか2016年03月24日 01時39分36秒

★もう疲労の極致、今月乗り切れるか

 かけこみ亭からまた終電で帰って来た。27日のコンサートに向けて打ち合わせで行ったのが、つい楽しくてまたライブに参加したりもして、結局南武線も最終1本前。立川に着いたら、もう12時45分の青梅線最終電車しかなく、かなり待たされ乗って無事に帰れたものの疲れてもうヘロヘロ、失神寸前である。この連休の疲れが全然癒えていない。
 愚痴をこぼすとか、弱音を吐くという表現がある。まあ、ブログでそんなことを書いても仕方ないが、このところ書くときはどうしてもそうしたものになってしまう。ならばいっそ更新せず、ブロぐなど書かずにやがては自然消滅的に閉鎖に至るしかない。

 友人関係のライブやコンサートに出かけて疲れたというだけではない。それは楽しい、やりがいのあることだから疲れても文句も言えないし、第一ちっとも苦しくも辛くもない。ならばその疲れは心地良いものでもあろう。
 実は母の容体がこのところ良くなく、出かける日や出かけたときに限って、熱出したり吐いたりしてこちらとしてもほとほと手を焼いている。おちおち出かけていられない。どうしたものか。

 症状は風邪のように思えるが、熱が薬飲んでも引かず、いったん良くなったとしても繰り返しまた発熱や嘔吐、腹痛を繰り返すのは、考えたくはないが、癌性によるもの、腹部の癌部位が原因で起こる腹膜炎の類ではないかと我は疑っている。
 実は、もう5年以上も前、まだ癌がはっきり確認も特定もされていない頃、母が体調を崩し始めた頃がまったくそうであった。しだいに食べられなくなり、下痢や腹痛、嘔吐を繰り返し、痩せ衰えて来て、腹に腹水も溜まり、あちこちの医者や漢方医にもかかった。
 が、原因がなかなか特定できず、かなり悪化してようやく立川の総合病院で、大腸に腫瘍があり、それが癒着して腸閉塞のような状態になっていて、それは癌によるものだと診断された。幸い外科手術で、その機能不全となった部位を全部取り除き、大腸を短く繋ぎ直してようやく体調は回復したのだった。まさに九死に一生を得たと思う。

 それが2011年のちょうど大震災の最中の頃で、以後、母は体調も戻り、その前までと変わらぬ日常生活を送れるまで癌を克服していた。が、去年の年明け頃からまた癌の活動再開、つまり肥大が確認され、しばらく様子見でだらだら時間が過ぎたが、秋口からは、やはり何か手を打ったほうが良かろうと医師の判断で、抗癌剤投与を一回だけやってみたら、その副作用で発熱、そして入院という騒動が起きてしまい、以後、もはや抗癌剤は中止、ならば今後どうすべきかという判断の瀬戸際に立って今となっている。

 先だって、放射線治療を行っている大病院に母と一緒に出向き、その専門医から話を聞いて来た。その医師は極めて懇切丁寧に、抗癌剤が使えないからと言って、すぐさま放射線はすべきでないこと、それよりもその癌がこのままにしておくとどう他の臓器に浸潤していくかが問題であり、たとえ大きくなったとしてもそこに居座り他に悪さをしなければそのままにしておいた方が良いとまで言われた。
 確かにその通りであり、癌を無理して退治しようとか治療しようとかんがえる方が、逆に副作用などで体に負担かけてしまい、結果として命を縮めてしまうことも多々あるとも思うし、あの患者よ、癌と闘うなと説く近藤医師の考えに全面的に賛同はしなが、果たして母の歳で、癌治療としていったい何をすべきかこのところずっと頭を悩まして来た。

 正直まだ何も考えがまとまらず、答えも覚悟も方向性が決まらないがゆえ、ブログにもそのことを書くことができないでいた。ただ、先の抗癌剤投与後の体調不調と、今もまだつづく新たな発熱や食後の嘔吐を思うとき、このまま何もせず温泉療養や食事療法だけでは改善しなくとも現状維持すらできるか今の状態が続くのか不安になって来た。

 こんなことを書くのは、母が具合が悪いと我がことが何もできなくなるから困るというだけではない。親の介護は当然のことだからもう一切出かけられず、そちらを優先するのはちっとも辛いとか嫌とかは思わない。
 問題は、そうした体調不良、容体悪化で、家じゅうが陰々滅滅となって、母の介護だけで何一つ他のことも日常生活そのものが立ち行かなくなることだ。
 人は老いて病み苦しみそして死に至る者なのであろう。それは わかっている。しかし、ただそのことをあたりまえの出来事として、冷静に、それはそれ、仕方ないとして自然に受け入れることはやはりどう考えてもできやしない。やはりすべてが病人中心に、その日々体調悪化していく事態に我は心労、苦悩して行くに違いない。

 先だって、両国のイベントで久しぶりに会った友人知人からは、マスダはどうしたのか、すっかり老け込んだとかやつれている、どこか悪いのか、大丈夫かとしきり心配された。確かに白髪もめっきり増えたし、体重もずっと減り続けている。そして体調はずと良くないし今も疲れでふらふらである。しかし、その最大の理由は、出かけて何かのイベントに関わったとかではなく、やはり家庭の事情、認知症の父と老犬の世話、そしてその介護に相俟って、母が体調崩し始めたことが一番大きい。
 告白すると、我が家は、母と我の二人三脚的に、何とか家事を分担しあって生活は回っていた。その母が弱って何もできなくなってしまうと、息子一人では老親や犬猫たち全てを背負いきれなくなってきている。ゆえに、気分転換に出かけて人に会っても、家のことが心配で気が散って何をするにももう一つ集中出来やしない。かといって、ただ家にこもっていても答えも出口もないし、ただ繰り返すだけの日常に倦み疲れ憤懣と屈託だけが溜まる一方となっていく。
 その先にあるもの、待つものは地獄か、それとも天国に至るための試されている試練の道なのか。

 ただ一つだけはっきりしていること、確かなことは、これは我だけのことではないし、別に特別な珍しい話でも何でもないということだ。ごくありふれたどこにでもある話でしかなく、ある意味、この歳まで親たち双方が健在で共に暮らせただけでも実は幸福な稀有な例であったのだ。
 ならばどんな地獄が来ようと、どんなに辛く大変でも我に起こることは受け入れなくてはならないし、その中で、どっぷり浸かりつつも我がこと、我に成すべきと課せられたことを少しでも少しづつでもしなければならない。

 亡き一潮さん追悼のコンサートの準備、いちおう今日でほぼ手配は済んだ。当日、観客を前にじたばたしないよう、皆さんに相談しできる手配はして承諾も得た。後は皆さん積年のブロなのだから、きっと無事にうまく進めて頂けるものと信じてお任せするしかない。

 じっさいの話、枕を高くしてとことんゆっくりたっぷり泥の様に深く眠る日なんておそらく生涯来やしない。どうしようもない、出口のない人生という固まりを手探りでこれからも溺れ沈まぬようあがいてもがいていくしかない。

 今もまた頭は締め付けられるように痛い。そして明日は母を立川にCT撮りに行く予定。だが、明朝まだ熱があればそちらは中止して、診察受けさせて場合によってはまた入院となるかもしれない。難儀なこっちゃ。
 生きていくのも大変だが、死んでいくのもまた大変だとつくづく思う。いや、実はそれは全く同義であって、同じことであるならばこそ、どちらに気持ちの比重を置くかだけの問題であろう。
 そもそも動物は死を意識しない。いつどんなときであっても、死ぬなんて考えず生きていくこと、生きようと必死である。ならばこそ、とにもかくにも一日でも長く生きていく手筈、その努力をしていくだけのはなしだ。

 そう、人は死ぬために生きるのではない。生きて生きて生き抜いた先に、終わりとして死があるだけの話だ。そう。全てには終わりが来る。ただそれだけの話であり、生きている限りそれはカンケイナイのである。
大変でもただ一日一日生き抜いていけば良い。死ぬときは死ぬとき、ただ終わりが来る。それだけのことだ。
 問題は我にそのことを粛々と受け入れることがじっさいの話できるかどうかなのである。