歳とって生きることのさらなる大変さ2016年10月06日 21時47分22秒

★老いの地獄を背負いて我もまた

 この何日か父とのことで頭がおかしくなりそうだった。ようやく一段落、いや、一休みできこれを記す。

 長生きすることは良いことでお目出度いことだと世ではされている。長寿の人が、孫やひ孫、一族大勢に囲まれて皆で笑いながら集う光景は幸福の極みであるかと思える。
 その対極にあるのは、誰も訪れることのない孤独な一人暮らしで迎える晩年であろうか。

 我は先日、母を失った。今ようやくそれから立ち直りつつあるけれど、まだ老いた父を抱えて、その介護と今後についてどうしたものかと悩んでいた。今もまだ方針は定まらないが、このまま要介護の度が進めば、やはり特養に入れるしかないことは間違いない。今でさえ我は疲弊し父に振り回され発狂寸前である。怒り余って父を殴り殺してしまえば、我もまたその後に自殺してこの家に火でもつけるしかないわけで、子が父を殺さないためにもどこか施設に預けるしかないと強く思うようになってきた。
 むろんのこと、母と同じくこの家で、その最後の時を迎えたいと父も願っているし我もそれをかなえたいという気持ちは今もある。しかし現実問題として、我一人で痴呆の度が悪化するばかりの92歳になろうとする大男を抱えて我もまたへたぱらず生きていくのはかなり難儀な技だと思えてきた。
 母が生きていた頃から呆けた父に対して「バカになるのも程があるよ!」と母はよく叱っていたが、その程、つまり度合いが母の死後さらに進んて来たようでケアマネとも協議中だが、そろそろこの家で我が面倒みるのも限界に近づきつつあるようだ。

 生きていくのは、若い時でも大変なのだが、それも年老いて、さらには動けず食べられず、しかも頭もおかしくなっているのだから大変度は並大抵ではない。
 母のように動けず食べられなくなってもオツムのほうはしっかりしていれば、まだ介護にも張り合いがある。人と人の温かいふれあいがそこにはある。ならばどんなに大変でも子として親の面倒をみる意義も見いだせる。
 しかし父は、嬉しい淋しい、怒りなどの感情はあっても記憶力と理解度はもはや犬猫並なので、いくら説明しても一晩寝れば日々新たとなって何度でも執拗に質問し騒ぎ立てる。禁じられたことを勝手にしてしまう。目が離せず気が休まるときがない。その応対に我は心底疲れ果ててきている。パー人間と暮らすのは実に大変である。
 むろん当人も苦しく辛いのはわかる。しかしそれに振り回される家族、つまり我と母も大変だったわけで、母の癌が悪化したのも父と息子のことがストレスであったかと我は内心思っている。今さら悔やんでもしかたないが。

 一番の悩みは、びろうな話、下のことで、父は骨折して入院した時から、紙パンツを利用するようになった。その前から頻尿というか、尿意を感じた途端、トイレまで我慢することができずに失禁することがよくあった。そういう人が、骨折して自らは排泄に行くのが困難となれば当然、紙パンツ、紙オムツの世話になる。そして、骨折は癒え、退院できて家に戻ってきても、杖に頼り何かに掴まって何とかよたよた歩けるレベルなので、尿意や便意を感じてもすぐにはトイレに駆け込めない。
 それゆえ退院後も入院した時と同じく紙パンツを父は愛用して自らそれを交換して今も使い続けている。それは大いに助かっている。粗相した度に下着を洗っていたのでは毎日洗濯に追われてしまう。

 しかし、紙パンツを常時24時間愛用するようになってから、大便はともかく小便はいつ出たのか自らはわからなくなってしまい、吸収力ある紙パンツは常にオシッコで重たくなってタプタプのまま生活しているのだ。
 こちらが気づいてすぐに交換させれれば問題ないのだが、今の紙パンツは快適にできているからか当人は出て溜まっていることに気づかない。しかし、吸収にも限界があり、しだいにあふれ出て、衣服にも染み出したり垂れ落ちてきてしまう。
 そうなれば父が座っていたところは漏れ出た小便で濡れているし、彼が寝ているベッドもときどき寝小便した子供のように濡れたのが渇いて黄色くなっている。その都度交換して洗濯するのだが、今やこの家は父がうろつくところはどこも小便クサイ。
 だがそれが、90年以上生きて来たということなのだとも思う。オシッコもどこそこの廃炉作業中の事故原発と同じく、ただ漏れ状態になる。自らはコントロール不能なのだ。ひどい時は、おしっこをポタポタ垂らしながら歩き回っている。
 幸いなのは、まだ父は時間がかかっても彼自らそうした交換作業ができる、してくれることで、これが母のときと同じく寝たきりとなってしまえば、我がまた常時交換せねばならず、じっさいすぐにでも施設に入れるしかない。何とか動けてまだ自らやってくれているので大いに助かっている。
 
 それでも・・・ 先日、何か体が臭いので、家でも風呂に入れようとその濡れた紙パンツなど脱がしてトイレの前ですっぽんぽんの裸にした。そして手をひいて風呂場に連れていこうとしたら、そのまま立ったままじょじょじょーとしっかり小便してしまった。こんなの初めてのことだ。あたかも馬や牛のように立ったままごく自然にだ。
 当人も意識はあっても尿意の意識はないのだと言う。紙パンツを常時履く習慣が長くなると尿意をコントロールするという気持ちもなくなるのか、ただ漏れと化して、垂れ流し状態となるようだ。

 大便ではなかったし床は木だったので、慌てて犬用おしっこ吸収シートを何枚も広げて吸い取ったから大事にはならなかった。しかし、翌日、大して濡れていなかった分のその四角いシートを、父はまだ使えると、捨てた袋から出しては、紙パンツの中にあてがうシートと勘違いして履こうとしていた。紙パンツの中に納まるはずもないのに。心底呆れ果てたが、もうそういうオツムなのである。怒って叱りつけてもしょうがない。

 歳をとるとはこうしたものなのだ。誤嚥することが多くなってろくに食べられなくなり、骨折して歩けなくなる。しかも頭も呆けて記憶は続かないし何もわからなくなってくる。しかも夜は眠れないと騒ぐ。大小便も垂れ流しとなる。
 動けず食べられず、何もわからず夜も眠れず、それでも感情はしっかり残っている。ロレツも回らないがあれこれ口うるさく息子にあれこれ指示してくる。それも人間、老いて死に行く人間なのである。

 我が父、我が母がそうならば、我もまた老いてくればこうなるのはまず間違いない。当然不安であり暗澹たる気分にもなって来る。が、今はそのときのことを考えてもしょうがないし、そのときに今から備えようとも思わない。まずはこの父をどうするか、どこまで看られるかだけで頭がいっぱいだ。
 とにもかくにも人は老いても大変だ。長生きは有難いが、その現実はこうしたものだとあえて記しておく。皆さんのところはどうですか。