死に行く人、死ぬべき者たちを、きちんとしっかり死なせていく・補足2017年03月16日 06時52分22秒

★自らにも近く訪れる「死」を迎え入れねばならない。

 老いて来て弱って、間もなく死にゆく者と暮らしていると当然、不安で心配で憂鬱でたまらない。
 もうずいぶん長く誰よりも生きたのだから、死ぬ時が来て当たり前だし、元より誰もが必ず死に、別れの時が来るのは必定なのだから季節が移り変わるがごとく、ごく自然のことだと受け容れなくてはならない。

 しかし、死んでしまえば、もう二度と現世では会えなくなる。声も聞けないし暖かい肉体に触ることもできない。何一つしてあげることもできなくなる。母の遺影と位牌に語りかけいくら詫びても何も返ってこない。
 死とはそうした永遠の別れだから、死の訪れは仕方ないことだと頭では理解していても何とかそれを避けよう、一日でも先へ引き延ばそうと人は誰でも考える。そう我もまた。

 今、先に母を喪った我家は次に老犬と父が死に臨んできている。特に昨秋齢18歳となった愛犬ブラ彦は、年明けて2月に入ってきたら急に弱ってまず餌をあまり食べなくなって痩せて来た。体力も落ち今では散歩もごく近所を回るのがやっとである。排尿排便だけさせたらすぐ戻り家に入れている。この冬は、母の介護ベッドがあった、母が死んだ小部屋にオイルヒーター入れ暖かくしてそこで夜間は寝かせている。
 今は散歩もしんどそうで、とぼとぼと飼い紐に引かれてうつむき加減に歩く姿は、若く元気にさっそうと走り回っていた頃を思うと感慨無量というしかない。この家で彼は生まれて、それから18年が過ぎたのだ。
 先だって動物病院で、犬の年齢表を見たら、犬の18歳は、人間だと百歳を越えていて驚いた。いつの間にかそんなに長く生き今は超高齢となり死にゆくときが来たのである。 
 若い頃、昔はつやつやの黒犬だったのに、今は白髪交じりのしょぼくれた老犬となってしまった。体も一回りも二回りも小さくなった。壮年の頃は15キロはあった体重も今は10キロもないだろう。これが老いて死んでいく姿なのであった。情けないような哀しいような淋しい気持ちがする。だが、彼はまだ生きている。そして間もなくその生を終えるのだ。

 そうした老いて衰弱した姿は父もまったく同様で、かつては六尺男と呼ばれ、180㎝近い身長と体重は80キロも一時期あった大男は、今は見る影もない。昨年春、肺炎で入院して院内で骨折してからは、体重も一気に落ちて今は60キロもない。裸になると両足は棒のようである。まさに骨と皮に近づいてきて体力もなくなってきた。背中が曲がったせいで身長も息子と変わらなくなった。
 考えてみれば92歳なのである。いつの間にか百歳近い老人になればかつての大男もこんなに縮んで小さく脆弱になるのも当然のことなのだった。

 これが長く生きたこと、老いて衰弱して死に行く姿なのだと冷徹に見つめなくてはならない。そうこれが当たり前のことで、それだけ長生きして時が過ぎたという「現実」なのだ。あまりに長生きしたから彼はその妻を先に喪ってしまったのだ。
 人も犬も特に大きな病気せず、無事に生きて長寿を迎えれば最後のときはこうした姿となる。それは仕方ないし、こんなに長く生きられたのだから喜ぶべきことであろう。しかし、やはりその姿は哀れだしそこに哀しみも淋しささえも覚えてしまう。

 それにつけても人も犬も老いて死に行く姿は何と似ていることかと驚く。人がそうなるように犬も呆けてきて夜啼きやぐるぐる徘徊するし、目も白内障で見えなくなるは、耳も遠くなるは、食事も巧く食べられなくなり咥えても口から落としてしまう。どうやら吞み込みも悪いようだ。
 で、食欲も落ちて痩せて体力もなくなり、四足でもふらふら、よたよたの歩き方となる。最後はおそらく寝たきりとなって、何も一切食べなくなり排泄物も垂れ流しなって死ぬのであろう。老衰死の人がそうであるように。
 父も犬も母のときのように癌などの進行性の病はない。ただ長生きしすぎて全身の機能が萎え衰えてしまい、何もできなく、何もわからなくなってしまったのだ。「老衰」という言葉は知っていたが、彼らを通してこうしたことか!とやっとわかった。
 死に方と死因についてはこれまでもずいぶんたくさんの多彩な在り方があることを知った。が、特に病気がなくても老化も極まれば彼らのように心身全てが衰えてついに死んでいくのである。
 まあ、それこそが大往生であり、実は理想的な死に方、素晴らしい一生の終え方かとも思える。しかし、家族や長年共に暮らして来た者としては、その者を失っていくことに強い恐怖を覚えてしまう。
 誰にでもやがていつか必ず訪れる「死」という最大の損失、喪失とどう向き合い、いかにして受け入れ克服していくか。それこそが古今東西数多くある宗教のテーマであり、存在理由であろう。

 老いた愛犬を、我が父を、きちんとしっかり死なせることができたらならば、我もまた自らの死をしっかり定め受け入れることもできるに違いない。だが、今もまだ犬さえ、少しでも食べてくれることに毎食時腐心し、少しでも食べてくれればまだあと数日は生きられると嬉しくほっとして思い、まったく食べてくれないと心配で胸が押し潰される気持ちになる。
 この弱さを抱えて死と対峙していく。嫌でも向き合わされる。それこそが人生、人が生きるということの本質なのではないか。

泣きながら目覚めた暖かい朝に2017年03月18日 07時13分12秒

★ともかくほんの少しでも進めていく。

 昨日は疲れ果て腰も痛くてブログも書けずに零時前に寝てしまった。また、父が熱だし病院に連れて行ったり一日振り回された。幸い大事にまたも至らなかったようだ。
 
 今朝がたの夢で、また母が夢の中に出てきた。だが、時間の経過とともに夢も複合的になっていくようだ。夢の中で(我が)泣いている夢を見た。

 何か知らないところで、大きな木に登って足場を定めながら伸びた不要の枝を手元の鋸で切り落としていた。落ちないよう慎重に、かなり緊張し恐怖感を抱えながら。あと少しだけ、あの枝を落としてしまおうと。
 木から降りたらひょうたん型の何mもある大きな水たまりがあり、側にいて、我の作業を見ていた人たちに声かけて知らせて、その浅い、おそらく湧水が溜まった池?に足をつけたりしていた。
 
 と、一転して夢にありがちなことで、場所は映画のシーンのように切り替わり、小さなキャビネットのような小部屋、どこか旅行先なのか、団地サイズの見知らぬ部屋で、奥まった台所の小さな流し場で母が食器など洗い物をしている。その後ろ姿が見えた。
 その夢の中では、母はまったく元気な姿でいて、我は話しかけ母は後ろ姿でも時折り振り返り答えている。が、しだいに、そういえば母は寝たきりで動けなかったんじゃないか、立って動けている、おかしいな、という「記憶」がよみがえり、自問自答したのか、それとも側にいた誰かに訊いたのか、はたと、これは夢なのだ!と気がついた。そして、母はもう死んでしまっているのだと、その哀しみに声を上げて泣いていた。
 しかし、それもまた夢であって、夢の中で死んだ母に会った夢を見て泣いた夢を見たということになる。それから目が覚めた。

 外は明るく晴れて、午前六時半であった。久しぶりに目覚まし時計もかけずに、自らすっきりと起きた。瞼が少し濡れていた気がしたが、目覚めてからはその夢にもう泣きはしなかった。

 母は死んでから何度も夢に出てくる。夢の中で会う母は幸いにして、あの病み衰え痩せ果てた死ぬ間際の姿のときは一度もない。いつも一番元気な頃、老いて癌を病んでも元気に動き回れていた頃の姿で、いつもにこやかに明るく我のイメージのままだ。
 それは、高熱で倒れてしだいに衰弱し介護ベッドに寝た切りとなった期間が僅か二か月間という短いこともあって、その頃の「記憶」は少ないということもあろう。しかしそれよりもそうした辛い記憶は無意識的に排除して、思い出さぬよう、夢の中でも排除しているのかとも思える。
 夢とは不思議なものだ。ただ、夢の中の母はいつも元気な姿で出てくることは救いだし、ならばもう辛い「現実」よりも我もひたすら眠って夢の中で、酔生夢死の如く母と暮らしていけたらとも「夢想」した。

 先にもこのブログで、もう父とのことなど愚痴など記さず記すはやめにして、何か新たな動きがあらばお知らせすると書いたら、翌日急に高熱出して肺炎起こした騒動があったと記憶する。
 前回のブログもまた同様の思いで、また動きあればと書いたとたん、父は体調崩して昨日はデイケア休んでまた受診に連れて行った。やれやれである。

 一昨日の16日、彼はみょうに元気でコーフンしていて、息子のほうが疲れて夕刻時、仮眠とりたいと伝えたのに、一人でパン屋に行くとか、犬がいないとか騒ぎ立ていて、目が離せず静止するため眠ることもできないでいた。
 その晩になったら、彼は赤い顔して熱を測れば37度を前後している。高い熱ではないが、また肺炎の初期症状かもしれない。食欲もなく夕飯を食べさせるのに苦労し、ともかく早く休ませることにした。
 このところ父のスケジュールは、金土日月とデイケアと二泊三日のショートステイが入っていて、我はずいぶん楽できるようになった。
翌日は、日帰りのデイケアで早出の日だった。
 しかし、そんな調子では、無理そうだと迎えが来る朝になってキャンセルを連絡すると金もとられてしまうので、予めデイケアは休むことだけ伝えて葛根湯とかだけ飲ませてベッドに寝かせた。

 翌朝、つまり昨日金曜の朝は、ベッドで体温測ったら熱は37度はなく、当人も風邪は治ったというのでともかく着替えさせて朝食を、と考えた。ところがトイレでしゃがみ込んでるうちに突然気持ちが悪いと言い出し吐きそうになった。幸い胃液を戻した程度で済んだが、再度熱を測るとやはり37度台の熱がある。

 訪問看護センターに電話し指示仰ぐと、この週末は連休入ってしまうから、今日金曜のうちに診察受けたほうが良いと言われ、いったんもう一度父をベッドで少し休ませてから、昼前に東中神の診療所に車で連れて行った。
 さほどの熱ではなかったが、医師の診察受けてレントゲンと心電図、血液をとり、一時間ほど点滴してそれで帰されたが、病院を出たのが一時半過ぎであった。薬も出なかった。父はさほど体調悪くないようだったので、我も食事の支度がしんどくなって、帰り道に回転寿司へ入り、父はかけうどんを、我はカレーライスを食べ、寿司も少しつまんで家に戻った。

 それから父をまた寝かせて、犬たちに餌やったり、老犬の世話したりと毎度我は孤軍奮闘で、しだいに腰も痛くなり、夕方一時間だけ仮眠。
 晩飯のために父を起こしたらまだ37度の熱はあったが、顔色も日中よりは良いようで、軽く食事とらせてまた早めに寝かせた。念のために、今日土曜日のお泊り予定だったデイサービスもまず今日だけはお休みの連絡入れた。

 それもあって、今朝は目覚ましもセットすることなく深く眠れて母の出てくる夢を見たのだった。老犬には深夜の2時に一度だけ起こされた。が、それから連続して四時間、深く夢見るほど眠れたので今朝は気分爽快である。老犬ブラ彦も幸い昨日はいつもより食べてくれた。
 昨日も晴れて暖かく日中は世月半ばの陽気で外にいると汗ばむほどであった。今日も朝から晴れて穏やかだ。

 父がいると、その世話や目が離せず気が休まらない。ほんとうはこの週末はデイサービスに行って泊まって来てほしかった。その間にようやく我は溜まっている作業を一気に片づけるつもりでいた。実はまだ確定申告も書類がそろわず済ませていないのだ。が、それもこれも仕方ない。まずは父の体調優先であり、父を抱え様子見つつ、けんあんの作業を片づけるべくともかく一つでもほんの少しでも進めていく。それしかない。幸い久しぶりに深く眠れた。夢でも母に会えた。がんばるしかない。やがて全てが終わるときが間もなく来るのだから。

息子もウィルス性腸炎で倒れました。2017年03月20日 16時19分59秒

★すみませんが、体調悪く少しだけブログ休止します。

 この数日、我が看護して共に暮らしている老父の体調がすぐれず、また肺炎の初期かと案じていた。
 熱はそう高くないが、37度台を前後し夜は常に微熱が上がる。連休に入る前の金曜日、近くの診療所に連れて行き、診察受けて点滴入れてもらって帰って来た。
 が、その後も状況は変わらず、食欲がないだけでなく、一昨日の夕方には、昼に食べたものを全部吐いてしまった。

 幸い昨日からは熱も下がり気味で、吐いたり下痢はなく今回は峠を越えたかと安堵したら、その息子、つまり我自身が夜になってもむかむかして胃がもたれて喉は乾いて水飲んでも消化吸収されないような感じで、気持ち悪い。腰だけでなく身体の節々が痛くてとても起きていられない。
 風邪の初期症状に似ているが、熱はないようで寒気もしないし咳も鼻水も無く喉も痛くはない。いったいどうしてしまったのか。頭痛もひどく体しんどくてフラフラである。

 ともかく体を休めるしかないと、父と老犬たちを何とか早く寝かしつけて自分もベッドに入った。が、胃のむかむか感は収まらず起きてトイレで一回吐いたら少しはすっきりした。
 でもまた少ししたら起きてやはり気持ち悪いので残りのぶんを全部吐いて胃の中は完全に空にしたらようやくすっきりした。
 しかし、身体のだるさ、しんどさは変わらないし、何も食べるどころか飲む気もおきない。これはまずいと思い、今朝20日、父を起こし、犬の散歩だけ簡単に済ませて、犬たちは外に出して車で父も連れて先日父を看てもらった診療所に行ってきた。
 休日だったが、地域の担当日にあたっていて、そこはやっていたのだ。

 医師はごくごく簡単に、腹なども聴診器で聴くこともなく、父のときと同じで、これは「ウイルス性腸炎」だと断じて、父から伝染ったのだと。我としては点滴を、と期待していたが、口から水分をとれるならともなく無理してでも脱水症状にならないよう水をたくさん飲んで、とだけ言われて、何種類か吐き気止めや整腸剤だけ出してもらいすぐ帰された。父も特にもう問題はないとのことだった。

 それから帰り道、食べたくはないが、もう何も作る気力はなく、ホカ便買って、父には食べやすそうな親子丼にして、昼前にそれだけ少し食べて、犬たちに何とか餌与えて我は自室でひたすら眠った。
 4時過ぎに起きた。まだ体はふらふらで、だるく体中痛いが、少し頭痛は軽くなってきた感じがしている。外の犬たちをごく簡単に散歩行って、夕飯までもう一度横になれたらと思う。

 このウイルス性腸炎、冬に流行っているのだそうだ。何日かは治るまで日数を要す。拙ブログは元気になってきたらまた再開します。今は、しょうじき、この体調を抱えて父や犬たちの世話をしていくので精いっぱいだ。まさに孤軍奮闘、倒れるわけにはいかない。
 皆様もご自愛ください。

3/26日の無頼庵レコードコンサートは延期とします。2017年03月24日 19時16分24秒

★すみませんが、来月4月半ばに順延とさせてください。

 喫緊のお知らせとなって申し訳ありません。先にお知らせした拙宅無頼庵での「レコードコンサート」は、諸般の事情から開催は難しく、来月の半ば以降、おそらく16日頃に、延期にいたしたいと思います。

 詳しいことは、後ほど記しますが、どうか何卒ご理解ご容赦願います。楽しみにされていた方、本当にごめんなさい。

ブログ再開、まず近況から2017年03月27日 10時51分08秒

★この一週間の経緯と今の思いを

 冷たい雨が降り続く。桜咲くの知らせも届くのに、昨日は終日雨は降り続いていた。朝方はみぞれとなるぐらい寒い一日だった。
 今朝になってもまだ雨はしとしとと降っている。月曜の朝となった。

 ずいぶん間が空いてしまったが、ブログ再開する。
 と、書くと何だかエラソーだが、「再開します」という、~です、ます調で書いていると、どうにもまどろっこしく、思うようにうまく書き進められないのでどうかご理解願います。いや、願いたい。
 これが我が文体、頭の中の仕組みなのだ。お許し下さい。

 いろいろご心配おかけしたかと思う。気がつけば、今月も今週で終わってしまう。2月も何もほとんどできずに過ぎ去ってしまったが、今月はもっとひどい、予定していた拙宅のイベント企画も中止としてしまった。先月よりも状況は悪化してしまった。
 その理由は、先にも記したが、ノロではないと思うが、感染性の腸炎ウィルスにまず父がやられて、次いで父が収まって来たかと思ったら、我にもそれが伝染り、吐いたり下したりと胃腸が弱り何も食べられなくなった。腸炎とは熱のない風邪だと言われるが、まさにその通りの絶不調であった。
 この26日に拙宅で人を招き予定していたささやかなイベントも迷ったが、まず参加予定者には連絡して了解を得て延期としてしまった。

 ただ、週半ばからは我も体調は回復して来て、ようやく昼間は食事もとれるようにはなったものの、我はその「感染性」、人に伝染するということを怖れた。むろんウチに来て、飲食いすれば確実にそうなるとは限らない。だが、父から我に伝染ったものならば、免疫のない方が来られたらどうなるかわからない。
 むろん掃除や衛生管理を徹底して、調理や料理提供には細心、万全の態度で臨むとしても「根本要因」は残っているのだから、慌てて当日に間にあうよう取り繕っても不安は強くあった。

 漱石先生よろしく、痛む胃や腸を抱えて布団の中であれこれ考えた。
 要するに、母の死以降、すべてがめちゃくちゃになってしまい、父の介護と犬たちの世話だけに追われて何一つ家のことはきちんとできなくなって我家はゴミ屋敷と化してしまった。
 そしてその不衛生の極み、挙句の結果として、ウィルス性腸炎を発症してしまったのだと。ある意味、今回の事態は起こるべくして起きたことだったのだと。

 元より、我家はご存知のように常に片付いてなく、そもそもモノが多いだけでなく整理整頓能力が住人に欠けていた上に、皆多忙だったから、準ゴミ屋敷化はしていた。
 しかし、母が生きていたときは、まだ根幹の部分だけはきちんと管理はされていた。むろん去年は春先から母の体調は悪化して来て、入退院を繰り返し夏前から自宅で寝たきりとなってしまったわけだから、家事全般、介護も含めすべて我がやっていた。
 断っておくと、母が元気な頃から、家のことは全て母任せにしていたわけではない。調理や買い物、掃除、洗濯など家事全般は我が担当して、八十代半ばとなった母は、その補助要員として、皿を洗ったり洗濯ものを取り込みたたんでしまったりと、分担してうまくやっていたのだ。そして各種税金などの通知や保険料など支払いなどの手続き、家計の全面的管理は母が主に担当していたのだ。我は買い物はしていたけれど。

 そうして老いた親子三人、約半世紀の長きにわたって、この地で、この家で、時にはいがみ合い喧嘩もし、犬猫たちと共に変わる季節を味わい、歳月を安穏と繰り返して来た。

 そして母が癌に倒れ愚かな我にとっては想定外の早逝をとげ、我家は92歳の父、還暦を迎える息子の男だけの二人暮らしとなってしまった。むろん母がいなくなってもこの家も人生も続けて行かねばならない。幸い、我は、一般的男性よりも炊事や洗濯などの家事能力は高いと思っていた。母亡き後でも一人でやっていけると思っていた。老いた父を抱えて。
 しかしそれは無理だったのである。

 晩年の母は、じっさいもはや何一つできなくなっていた。しかし、意識は死ぬ直前まで鮮明であったから、家事や金支払いのこと等、わからないことはベッドの母に訊けばすぐに答えてくれた。また、父との諍い、愚痴など些末なことでも母と話すことで、我は慰安を得ていた。
 母は動けず寝たきりとなってしまったけれど、我も父も母に常に頼り、我家の根幹を司っていたのは、母だったのだと今頃になって気づく。若い時から家事などろくにせず、外の活動に出歩いてばかりいた人であったが、実のところ、我家の運営管理は母がやっていたのだった。父がこんなに呆ける前は夫婦二人で、主に父任せにもしていたのだろうが、父が老いてトンチンカンになってからは、母がきちんと管理してくれていたのである。

 その母がいなくなり、我に全ての管理が任された。それまでの我が人生さえもきちんと管理運営できない者が、父も含めこの家全体の管理を委譲されたのである。そこに認知症がさらに進み体力的にも衰弱して来た父の世話という負担も増して来た。
 台所は汚れた皿がいっぱいとなり、洗濯物も溜まり、庭には不分別のゴミが山積みとなってくる。全てが混乱し収拾つかずしっちゃかめっちゃかになってしまった。もう何もわからなくなった。
 全てが後手後手で、探している物は見つからず、少しでも減り片付くならともかく、モノは溜まり増え続け、成すべきこと懸案のことは増すばかりであった。
 人が来るように嫌でも予定を入れれば、萎えた気持ちに鞭打って嫌でも片づけが進むかと、今年はイベントを毎月やっていくことにした。しかし、とりあえず、人を招き入れるスペースだけ造るが精いっぱいで、そうした「ショック療法」も解決策にはならなかった。

 父の世話とかで忙しいから、疲れているから、片付けられないというのは理由にはならない。言い訳にしてはならない。
 世の中にはどんなに多忙で時間がなくても綺麗にきちんと家庭を整えている人はいくらでもいるし我も実際に知っている。つまるところ我にそれができないのは、元から「片付けられない症候群」であり、そうした能力が欠如、もしくは足りないという事もあろう。
 しかし、それ以前に、いちばんの要因は、母がいなくなってしまったことだ。我は母に甘え依存していたと今認める。が、実際的家事は我がほとんどやっていたのである。それがどうしてできなくなってしまったのか。

 つまり、我家にとって、我にとって、核となるもの、棒のようなものがなくなってしまったからなのだと気づく。それこそが母であり、母はその存在だけで我家を、我を父を、支えてくれていたのだった。
 そのコアとなるものを失い、我は生きる気力、つまり「やる気」を失った。父はまだ生きているのだから、その手のかかる父と二人でこれからも生きて行かねばならない。
 しかし、母なしで、我一人で、父を、この家を抱えて行くことの重さに耐えきれないというのが、現実であった。
 父は糞尿を無自覚に垂れ流すようになってしまい、その不衛生から結果としてウィルス性腸炎を起こしてしまった。それもこれも或る意味自業自得である。そしてそれは起こるべくして起きた。このまま夏となれば、さらに事態は悪化して食中毒も起きよう。今回は大事に至らず幸いであった。有難いことであった。

 布団の中、痛む腹をさすりながらそんなことをつらつら考えた。危うく自滅するところだった。母がいなくなったからといって残された親子は自暴自棄になり、だらしなくした不始末から火事を出したり、不衛生から病に倒れていたのではあまりに情けなかろう。じっさい我は交通事故もしでかした。
 何とかここから立ち直らねばならない。ここで死ぬわけにはいかない。
 
 父はこの土曜から二泊三日でショートステイに行ってくれている。老犬も衰弱は進んでいるがまだ生きている。我も夜になると胃腸が痛みもたれて晩飯はほとんど食べられないしまだ腰痛も残るが、だいぶ体調は回復してきた。
 まだ死ねないしまだ死なないはずだ。大変でない人生なんてどこにもない。人生を投げ出さずに少しでも少しづづでもいい、やるべきことを進めて行こう。

 冷たい雨は降り続く。しかし、やまない雨はないし、また晴れてくる。生きていればまた良いこと、楽しいこともきっとあると信じて。

今は亡き人たちと過ごした雨の夜2017年03月28日 10時32分32秒

★青森「だびよん」での恭蔵さんと一潮さんの20年前の姿を観て

 谷保のかけこみ亭では、毎年この季節、青森の生んだ不世出のフォークシンガー故高坂一潮さんの命日にあたる3月末に、彼を追悼するイベントを催している。今年は3月26日の夜で六回忌であった。

 去年は、生前の彼と親交のあったミュージシャンたちが集い、元夫人も上京されて、皆で彼の遺したうたを唄い偲ぶライブが盛大に開催された。
 非力ながら我も少なからずそれには関わったのだけれど、諸々の私的事情でかけこみ亭にも足が遠のいていたため今年のそれは、彼のステージを記録をした映像を流す程度のごくささやかな集いとなった。
 我が事情が以前のままならば、もっと早くから企画立てて、縁あるフォークシンガーたちに参加を呼びかけたかと思うが、今も身動き取れないわけで今回積極的に関われなかったことを残念かつ申し訳なく思う次第だ。

 さて、その晩、終日冷たい雨が降りそぼる晩であったが、犬たちを部屋に閉じ込め、老犬のことは心配だったものの車で谷保まで大急ぎで向かった。
 参加者は少なかったが、ビデオプロジェクターでは、西岡恭蔵さんが、青森の「シューだびよん」であろうか、一潮さんと共に唄っている姿が流れていた。訊けば、1997年のライブで、今から20年も前のものだ。
 しかし、その頃の映像としては、画質も音も良く、ステージ正面奥から、おそらく店の関係者が固定カメラで撮ったものと思われ、恭蔵さんのノリノリのステージがたっぷり収録されていた。我は以前、その一部をどこかで観た記憶があるが、驚いたのは、ライブ終演後の「打ち上げ」の様子も実にたっぷり記録されていたことだ。それは初めて見た。

 恭蔵さんは、ステージ最中からかなり酔っぱらっていてハイテンションで、長時間のライブを終えた後もまだ打ち上げの席でも皆が飲食いしているのにも関わらずギターを離さず、喧騒の中でも次から次へと彼の持ち歌を取り囲む人たちに向けて唄い続けている。
 参加者の多くはそれぞれ自ら食べて飲み話すのに夢中である。打ち上げの場ゆえともかく騒がしい。隣の席では一潮さんが黙々と食べ続けたり、口笛で合わせてジョイントしたり、大いに皆で楽しく騒いで盛り上がっている「打ち上げの席」であった。

 西岡恭蔵さんは、それから二年後、確か1999年に自ら命を絶ち、一潮さんも10年ほど前に東京で倒れて、数年間意識が意識も回復せぬのまま大震災の年に命尽き果てた。
 そんな二人が共に元気に、唄いかつ飲んで食べて、その映像の中では意気軒高、楽しく浮かれて健在であった。観ていてこちらも嬉しくなってきた。とても貴重な映像であった。
 
 帰り道、車の中で、なんとも表現しがたい不思議な気持ちになった。あたかも自分はもう死んで、我の魂が過去の、その青森のライブ会場、だびよんにたどり着き、その場に参加し、そこにいるような気分がした。それを我は垣間見たのだ。
 あるいはそうした「夢」、元気な頃の恭蔵さんや一潮さん達が出てくる夢を見たのかもしれない気がした。彼らは今も「あそこ」でわいわいがやがやと楽しい打ち上げを今もやっているのだと思った。
 
 当たり前のことだが、死んだ人はいつまでも若く変わらない。
 高田渡というと、晩年のしわくちゃな白髪髭のおじいさんというイメージがすぐ浮かぶ。しかし、若い頃の彼を知る人は、小柄だが精悍でカッコよく、ある人は、ジェリー藤尾に、ある人は、マラソン選手のアベベに似ていたと語っていたのを思い出す。ゆえに若い女の子からも人気が高かったそうだ。もし彼がその頃、早逝していれば、そのイメージのまま、晩年の姿は誰も想像できないであろう。
 といっても彼が死んだのは50代半ばであり、今思えば、現在の我よりも歳下なのである。それもまた信じられないが、今回の話とは関係ない。

 今回のそのビデオで、一潮さんは、我が知る倒れる前の頃の姿に比べればスマートで、まだ青年の面影を強く残している。その若き日の姿は初めて見た。
 そして、恭蔵さんといえば、結局、それから間もなく亡くなったこともあり、現在YouTube等で流れているままの、中年のひょうひょうとした姿である。彼の「その後」はなかった。自死したことによりその地点で終わってしまった。今も変わらず最後の姿、若いままだ。

 最近、人の死に関していろんなことを思い考える。人はかつての、過ぎ去った楽しく素晴らしい日々と今現在を比べて、もう還らない、あの人は死んでしまい戻らない、と悲嘆し無常感に苛まれる。
 そして、今、死によって大切な人たちを喪うとき、その別離と喪失の苦しみに身が裂かれるような思いがする。
 が、今回、その青森での恭蔵さんのライブと、その後の「打ち上げ」の映像を観て、こんなに楽しいときがあり、そんな場が持てたのだったら、もうそれだけで良いではないか、「死」は別に辛いことではない、という気持ちになった。

 むろんその場にいた人や、亡き人たちの親族、ごく親しい人たちは、亡き人たちが元気ではしゃぐ姿を見て様々な感慨がわくことだろう。もうあの時もあの人たちも戻らないと。淋しく辛く感じるかもしれない。
 しかし、一瞬でもその場の全員で、大喜びして騒ぎ飲み食いし、大いに唄った楽しい一夜が持てたのならば、それだけでそれは「永遠」となったのではないか。過ぎ去った日々、そんなときがあったことが彼らにとっても今いる我らにとっても救いであろう。

 たぶん魂の世界では、青森のしゅーだびよんでは、今もまだその楽しい盛大な「打ち上げ」は続いているはずだ。そこではべろべろに酔っぱらいながらも、恭蔵さんは打ち上げの席でもひたすら浮かれて唄い続け、傍らでは若き一潮さんが黙々と食べ続けている。
 我も死ねば、その打ち上げに参加できるのだ。ならば、死と死による別れは決して辛く哀しいものではない。彼らはその場所、「永遠」の場にいる。

 雨の日もあれば晴れの日、強い風が吹く日もある。人の死も同様に、そうした当たり前の自然現象に過ぎないように思えて来た。
 老いた者は死に行き、若き命がまた新たに生まれ出る。そして老いてなくとも死ぬ定めにある者は先に逝き去る。
 ならばどれだけ楽しく満足できた「一瞬」を、人は持てたかだけであろう。そしてその一瞬は、永遠になっていくのだと。

犬を看取る~谷口ジローを思う。2017年03月29日 22時17分01秒

★画家は「死」をどこまで冷徹に見つめられるか。
 
 先にも少し記したが、我家の愛犬ブラ彦の死期が迫って来た。
 齢もう18歳。犬で18年も生きていると、人間に換算すると既に百歳を越えていると先だって動物病院に行ったとき、貼ってあった年齢換算表をみて驚いた。
 その老犬が年明けからさすがに食欲も衰えて来たことは先にも書いた。そしてこのところ、さらに痩せて体力も落ち、散歩も短くなってきただけでなく、昨日からはついにほとんど何与えても食べなくなってきた。死期が迫ってきている。おそらくこの数日の命か。来月初旬、どのくらい持つかどうかかと思える。

 「死」は、ここまで長く生きたのだから当然のことであり、我が父も同様に、老いた者はいかに自然に、無理なく死なせるかだと覚悟もできたつもりでいた。
 しかし、やはり何やっても食べなくなると、その先に来るのは迫りつつある死でしかなく、死を間近にしてこの弱き心は正直参っている。このままさらに衰弱して寝たきりとなり、死に臨むのかと考えるとやはり憂鬱にならざるえない。我もまた食欲どころでない。

 そしてあえて告白すれば、その儀礼を我一人で迎えねばならないことが死ぬほどつらい。妻であれ兄弟姉妹であれ、友人でもいい誰か共にその事態を共有できる人が傍らにいれば、その辛く耐えがたい時の心労心痛は分かち合うこともできよう。
 今つくづく悔やむのは、そうした関係を共有できる人を我は作れなかったことだ。結婚などしなくたっていいけれど、性別問わず傍らにいてくれて、共にその辛く苦しい時、不安を分かち合える人を得なかったこと、作れなかったことを今心から悔やんでいる。
 しかし、人はそれ故に、結婚やパートナーを求め、そうした形式をつくるわけではないはずで、今にして我は、これも全ては返す返すも我が身の不徳の致すところだと今さらながら後悔している。

 誰であろうと身近な者の「死」は、人が一人で背負うにはなかなか重すぎる事態なのである。そのとき、誰でもいい、第三者であろうとも側に誰か居てくれれば、思う存分泣くことも愚痴をこぼすこともできよう。
 一人ぼっちだと何もできない。どうすることもできやしない。ただうろたえ、成すすべなく悩み苦しみ困惑するだけだ。思う存分泣くことだってできやしない。まったく、我が身のツケ、自業自得の負債とはこうしたことなのかとようやくわかってきた。まあ、今さら悔やみ嘆き、愚痴言っても仕方ないが「お一人様」で生きることとはこうしたものなのだと記しておく。きみにその覚悟はあるか。

 さておき、痩せ衰えた高齢の犬を抱えて今思うは、先だって亡くなられた漫画家、谷口ジロー氏のことだ。
 氏は、その綿密、詳細な作風で知られ、海外、特にフランスで高く評価されている作画家で、ストーリー=原作の矢作俊彦や関川夏央氏とのワークスでも高名な漫画家である。
 その彼のオリジナルで、「犬を飼う」という短編がある。それは、家で飼っていた犬が死んでいくまでの経緯とその死にゆく姿を丁寧かつ克明に描いた作品で、我は雑誌に発表されたときに読んで胸が押し潰されそうになった。ここまで描くのかと。こんなマンガがあるのかと衝撃受けた。
 あの繊細かつリアルな筆致で、痩せて死に臨む愛犬の姿が極めて冷静に描いてある。我は正直、恐怖した。犬好きとして読むのが辛くて恐ろしくてたまらなかった。ここまで冷徹冷静に愛犬の「死」をマンガに描ける作家の心性が怖いと思った。臆病者はとても正視できなかったのだ。

 しかし、今、母を喪い、18年共に人生を過ごしてきた犬を死なすときが来て、死とはこうして避けがたいものであるのならば、物書き、作家ならば、表現者ならばこそ、きちんとそのことを記さねばならないのだと思えてきた。辛いことだからこそ、逃げて避けたいとも誰でも思うが、大事な愛して来たものだからこそ、きちんとその死に向き合わねばならないのではないのか。
 そして作家であるならば、その死の姿は、逃げずに臆せずに正面から見定め、だからこそ記録して「作品」へと昇華すべきなのではないのか。それこそが「愛」、愛した者へのお返し、彼我が生きていた証なのかもしれない。

 だがそれは ものすごく辛い大変な作業だとも思える。文章なら語彙を連ね言葉を駆使し、ある程度さらっと切り取ることはできよう。文字の良い点は、読み手に想像させて委ねられることだ。しかし、これは漫画なのである。自らのペンで、リアルに毛の一本一本まで、痩せて死にゆく犬のシワまで克明に描いていかねばならない。それはものすごく辛い作業であろう。その心痛心労はどれほどか。
 作家は果たしてそこまで自己の使命=ワークに冷静冷徹に向き合えるのであろうか。

 谷口ジローの訃報に接したとき、まず思ったのは、残念とか悲嘆とか以前に、あんな仕事をしていれば無理ないな、ということだった。あそこまで細かく濃密、克明に、とことん妥協なく、冷酷冷徹と言えるほどリアルにペンを走らせてしまう画家は、まさに身を削っている。その心労ははかり知れない。それでは長生きできるはずもない。
 まさに彼の仕事は、御身を削って成し得たものであったかと思う。

 そう、「犬を飼う」、であった。タイトル通り、犬を飼うとはまさにこうして飼った犬を、共に長く暮らして来た犬を死なすことにほかならない。
 そして飼い主はそのとき、その事態に、どうとことんきちんと向き合うか、向き合えるかが問われているのだった。
 今、ようやく谷口ジローは、何でその飼い犬の死を漫画に描いたのか、はっきりとわかる。死とはこうしたものであり、その辛さと向き合う覚悟のない者は動物を飼うことも、さらには自らもきちんと死ぬことすらも難しいのだと。

 老いて病む者、衰弱し死にゆく者と暮らし、死ぬまで看取るのは、ものすごく辛く苦しい。それが来るべき当然の、誰にもが起こることだと頭では理解していても、やはり死なせたくない。一日でも長く元気でしっかり生かしたい。
 しかし死は刻一刻一刻、一日一日迫り来る。それは避けがたい当たり前の起こりべきことだ。ならば粛々と、季節の移ろいや雨の日が来るように淡々と受け入れるべであろう。が、人はそれができない。
 そしてそうしたものが人なのだと我は思う。その弱さを恥じ入る気はない。それは誰もが同様に。その弱さこそが人なのだと。
 死は怖い、受け入れがたい。その弱さを抱えて生きていく。

夕陽のようにしみじみと2017年03月31日 09時23分55秒

★誰にも訪れる人生の黄昏に思う

 朝日のように爽やかに、というジャズのスタンダード曲があるが、人、生き物の一生が一日に喩えられれば、まさに若き日は、朝日のように爽やかに、スッキリとした気持ちで意欲満々これからのことを迎え入れる気概にあふれていることだろう。
 それが灼熱の午後を過ぎ、じょじょに陽が傾きだし、夕暮れ時となり黄昏が訪れる。都会では、もう山の端や海に沈む赤い夕陽など見ることはなくなってしまったが、幸い拙宅からは、向いの八王子の滝山と呼ばれる山と呼ぶには低い丘陵側、奥多摩寄りに、夕陽は沈んでいく。
 このところ天気は春先なので曇りがちだが、昨日は晴れて穏やかで夕焼けも見えた。
 そして不意にシミジミとした感慨に襲われた。そう、夕陽のようにしみじみと、人も動物も生き物もみんな死んでいくのだなあと思った。

 当たり前のことだが、生き物はいつか必ず死ぬ。生まれて来た者は必ず死なねばならない。
 老いて衰弱して死ぬ者もあれば、不治の病気や不慮の事故で突然死ぬ場合もある。が、大概は老いと病は一体になってやってくるものであるから、母のように、高齢になって癌に見舞われ最後はなす術もなく痩せ衰えて命のエネルギーが尽き果てて死ぬ場合も多々あろう。
 そうした病気に関係した死は、ある程度医師たち医療関係者は余命の予測もつく。一方、特に癌のように進行性の病がないまま高齢まで生きた者は、じょじょに全身の機能が衰えて、頭脳も身体能力も低下して食事の量も減り、痩せて呆けて寝たきりとなり最後はロウソクの灯が消えるように静かに死んでいく。

 我が父は、まだ健在ではあるが、母の場合とは違い、ただ老化が甚だしいだけで、特に治療や投薬を要する病はない。おそらくこのままさらに全機能が衰えて「老衰」により、眠りながら死ぬのかと思える。
 むろん誤嚥性肺炎の怖れや転倒にる再度の骨折など危険はいくらでもはらんでいるから、肺炎や骨折などをきっかけにそのまま病院内で、退院することなく看取られるかと予想している。しかし、先のことは誰もわからない。人が希望してもかなうものではないし、まさに神の意思、はからいでしかない。

 さて、老犬ブラ彦である。もう何を与えてもほとんど何も食べなくなって来て、水を飲むのがやっとという段階に入って来た。私感だが、あと数日ではないかと思える。
 以前は、小便などしたくなると、室内にいる故、吠えて知らせて我は夜中も起こされたが、このところは寝ながら垂れ流し状態のようで、自らは吠えもしない。で、我は朝早く起きて、一度抱いて起こして庭先歩かせて簡単に用便は済ませている。
 が、先日までは自らゆっくりでも歩けたが、食べていないので体力も尽きて来たのか、リードに連られてよろよろと数メートルは歩くけれど、途中で塀にもたれかかったり座り込んで動けなくなってしまう。
 仕方なく抱きかかえて家にまた入れた。

 いったい何なら食べてくれるのか、このところあちこちのペットフード売り場を回っては、食べやすい老犬用高級フード缶、レトルトパックなど買っては与えているのだが、鼻もつけないことばかりだ。
 犬と人は気持ちが通いあい、彼も飼い主の心痛、心配を察したのか昨晩は彼も牛肉の焼いたのを小さく切ってやったら少しは食べてくれた。ほんの少し、2切れ程度だったけど、食べてくれたのでほっと安心した。少しでも食べてくれていればまだもう少しは生きられると思うから。
 が、今朝見たら、どうやらその牛肉は吐いてしまったようで、無理して食べてくれても体がもう受けつけない、消化できないのかと改めて思い知った。ならばもう無理して食べさせないほうが良いだろう。

 ブラ彦も父同様、特に病気はない。有難いことにただただ長く生きてもう18歳を超えた。普通の中型犬の場合、長生きしても15歳、16歳が平均寿命だとされているから、かなりの長命である。
 そして年明けまではごく普通に食べてしっかり遠くまで散歩も行けていたのだ。むろんじょじょに痩せてきて、ほとんど寝てばかりとなってきたけれど、それでもほとんど手はかからなかった。
 それが2月頃から食が細くなり、食べないときも多くなり、食餌に頭を悩まされた。そして今週、三月末には、ついに何も食べなくなってきたということだ。

 こうして命の素、生命エネルギーを完全に空にして、彼は死ぬのだと今はっきりわかってきた。もう十分に生きて十分に世話してきたのだから何も悔やむことはないはずだけど、やはり死に臨む姿を見るのはとても辛い。哀しい。
 この犬は、20世紀の終わりに、この家で生まれた。他の兄弟も入れて確か六匹いたかと思う。皆、他の兄弟は幸い望まれてもらわれて行き、彼だけこの家に残してそれから20年近く共に過ごしてついにその最後のときが来たのである。

 母のとき、親たちを見送ったとき思ったが、親というのは、常に大人であり、我の記憶の中ではずっと親として大人として変わらない姿で存在している。
 犬の場合、生まれたときから、成長し元気に走り周り、あちこち共に旅行にも連れて行ったり、さまざまな拙宅のイベントにも登場したりと、生まれた時から、小さい時から元気な頃までも一貫して記憶がある。
 そしてその若く元気だった犬が、いつしか老いて弱って来てよぼよぼとなってきて今ついに死のうとしている。思い返せばあっという間、夢のようだ。
 そこまで長く生きて、生かすことができて、ずっと共に暮らせたのだからそれだけで満足であり、感謝せねばと思うのだけれど、今また、母の側の世界へと、彼もまた旅立つことはやはり胸が張り裂けそうな思いがしている。生を重ねるということはこうした「別れ」を積み重ねていくこと、受け入れることだとようやくわかって来た。

 若い時は、我もまた朝日のように爽やかな気分で、毎日が楽しく日々意欲的に生きていけた。そして今、人生の夕暮れ時に来て、こうして次々と大切な者たちを失っていくのかと、ただ嘆息している。
 しかし、ならばこそ、今は何が本当に大事なことなのかはっきりとわかる。
 人も動物も元気に動けて何でも食べられて行きたいところへいつどこでも行けることは素晴らしく有難いことなのだと。楽しいことだけでなく辛いことも含めて何でも自由にできた。
 若い時はそれが当たり前だと思っていた。しかし、今は違う。山に沈み入る夕陽を見つめる如く、ただしみじみとした思いで、去りゆく人、死に行く者たちとのかつての楽しかった日々を思い返している。
 まさに走馬灯のような、そんな楽しい日々が我らにはあったのだ。

 さあ、あと何日あるのかわからないが、愛犬をできるだけ苦しまずに楽に死なせてあげることが我の務めだ。辛いことだががんばらねば。泣きたいような淋しいようなシミジミとした気分を抱えながら。