ブログの場で近況と思うところを少し2018年03月08日 21時15分09秒

★齢60にして「いいね!」を知り得て考える

 久々にこのブログを書く。ちょっと間が空いたのでご心配おかけしたかもしれない。
 先月からフェイスブックなるものを始めて、ようやくその仕組みや、どういうものなのかほぼわかってきた。そして皆がこれにハマる理由や、「友達」を増やそうとする心境もわかってきた。
 だからといって、そっちに夢中になっていて、このブログが疎かになったというわけではない。ただ、新たなツールができて、そちらもチェックせねばならなくなって、まだうまくバランスがとれない感じで、何とも名状しがたい気分でいる。
 それにしてもフェイスブックとは至れり尽くせりで良くできたシステムだと感心している。先に愚痴こぼしたメッセンジャーでの連絡も時間は少しかかったが相手方と繋がり、こちらの用件は無事達せた。

 むろん、先にも書いたが、我は基本ブログだけで何も問題ないし、今後もこのブログを軸足にして何ごともやっていく方針は変わらない。フェイスブックの方は、活用するとしても個人的なことは一切書くつもりはなく、あくまでもイベントや世に知ってもらいたい公的「情報」発信の場としてだけ用いていくつもりでいる。

 他の人のフェイスブックから、「友達」になっていると、その方の「日常」や「出来事」、「考えたこと」などが当方にも届く。関心なくもないし、いちいち連絡を個々にとらなくても、あの人は今こうしているのか、風邪ひいたのかとか状況がわかることは有難いことだとも思える。
 が、友達の友達で会った事もない人だと、興味深い時もなくはないが、我にとってはまったくほぼ不要かつどうでもいいことであって、そこまでお付き合いしている時間はない。我もまた、そうした「ごく私的日常」をフェイスブックに、日記やツイッター的に書きこむと、我が「友達」たちに、嫌でも届いてしまうわけで、それはご迷惑であろうし、我としても望むところではない。
 むろん向うがこちらに関心なければ、読みもしないのかと思うが、我としては、私的なことは、このブログだけで十分であり、だいいち、書くときはご覧の如く常に一定の長さを伴うものだから、フェイスブックの尺には合わないはずだ。

 ブログがやはり良いと思うのは、そもそも我マスダのことに関心があり、向うから訪れない限り、何を書こうが読まれることはないわけだから、その関係は正しいものだと考える。勝手に書いたものを勝手に読みたい方が読むのだから。
 これからも読みたい方にだけ読んでもらえればと思い、我の日常から日々考えたことや、企画した催し等、宣伝告知も含めて、アップしていくつもりでいる。

 さて、「近況」だが、先週末からずっと父が家にいて、我は精神的にもまいっていた。父はこのところ週末は、ほぼ二泊三日で、施設に預けお泊りさせ不在故、我は、ライブや山梨に行ったり自分の時間が持てるようになっているのだが、先の土日月は、その介護施設のほうが、ノロウィルスだか蔓延して、通っていた人たちが皆吐いたり熱出して倒れたとかで、施設の職員がウチにやって来て、利用の「自粛」を要請され、自宅待機となってしまったのだ。
 で、先週は金、土、日、月と四日間ずっと父は家にいて心底まいった。キレて殺しそうにもなったが、何とか持ちこたえ、介護の合間見てはコンサートのフライヤーだけは何とか拵えて、大慌てでかけこみ亭に持って行ったりと、ブログ書く時間などとてもなかった。
 そして今週半ばの別の施設へのお泊りは問題なく行ってくれて、我はやっと体を休め、自分のことに専念できた。今夕、父は戻ってきて今は家にいるけれど、今ようやく久しぶりにこうしてブログ書いている次第。

 で、実はこれは前書きで、これから父を寝かしつけてから「本題」に向かいたい。

 フェイスブックなどでは、自分が投稿した記事や画像に、「友達」から「いいね!」という評価的反応が届く。以前から、この世には「いいね!乞食」とかいう言葉もあると聞いて、仕組みも何もフェイスブック未経験のよくわからない我は、訝しく思っていたが、自分も「いいね!」を頂いて、なるほどこういうことかと得心した。
 ただ我の場合は、まだ「友達」が16名程度だから、「いいね!」の数もたかが知れている。それでも確かに、友達から「いいね!」と好意的反応が届くと嬉しくはなる。逆に、それがほとんどつかない記事は、失望に近い気持ちにもなる。
 ならば、「いいね!」をたくさん欲しいと願う人の気持ちも実によく理解も出来る。そのためには当然まず「友達」の数も増やさねばならないし、よって見ず知らずの者にも「申請」が来るのであろうか。

 そう、確かに人間には、他者から認められたい、評価されたいという願望があるのである。「承認願望」とか「承認欲求」とか呼ばれるその願いは、こんな我にもあることに気づく。
 それに囚われて、いかに「いいね!」の数を増やすかに夢中になる人や、ユーチューブなどでアクセス数、ヒット数を上げるためには、何だってしでかすバカ者たちは後をたたないと聞く。そうした心理は、フェイスブックを自らも初めてみてようやく理解納得できた。

 我の場合は、そもそもブログしかやってなかったし、このブログには基本、読み手からの反応=コメント等はまずないから、そんなことはほとんど気にはしなかった。
 ただこのブログは、ランキングは日々こちらには知らされる。つまり、読み手の数というべきか、書いた記事になのか、現時点、その日ごとのアクセス数なのかわからないが、毎日その「順位」は変動する。
 始めた当初の順位は、百数十位は当たり前で、願わくば百位以内に入れたらなあと漠然と考えていた。それがいつしか、長く続けたこともあろうが、このところは常に70位前後で、更新しないでいるとそれが徐々に下がっていくこともわかった。
 つまり、更新すれば読み手は常にいてアクセスするが、間が空くと誰もアクセスしなくなるということだと思える。ちなみに今日は間が空いていたにしては高くて57位である。昨日は84位であった。

 そして当然のこと、やはり順位が高いときは我も嬉しい。今までで一番高かったのは、40台の半ばで、何の記事かは失念したが、それだけ多くの人に読まれた証だと思うので、にんまりした。
 が、逆に渾身の思いで書いたのに、存外順位は上がるどころか下がっていると、まあ、失望しつつこうしたものかと思い、たいていは我が身辺雑記のときが多いので、マスダのことなど誰も関心持たないのだなあと納得もしていた。

 それが先日のこと、何と20位という数字が表示され目を疑った。システムのミス、何かの間違いかと思ったが、しばらくは30台、40台という順位が続いていたので、一気にそのときはアクセス数が高くて、その後も余波が続いていたのであろう。
 で、何の記事で20位がついたかと言うと、亡くなった俳優、大杉漣についての私的思い出のようなことを書いたときで、何故その記事のときだけ20位となるほどアクセスがあったか不思議でならなかった。

 が、先日某女友達と話して謎は氷解した。彼女が、自らのフェイスブック上で、我のブログのその記事から漣氏と高田渡との関係の部分を「抜粋」して転載し、このブログのアドレスも載せてくれていたからだった。
 彼女のフェイスブックは友達の数も何百人もいるしフォロワーなる人の数もものすごい。一たび、彼女のフェイスブックに一部でも我がブログの記事が紹介されたとたん、このブログにまで、たくさんの方がアクセスしてくれたので、驚異の20位という高い順位がついたのであった。

 考えてみれば、もう上には19人しかいないのである。おそらくそれは著名人やタレントさんのブログであろう。無名の一市民のブログがその方たちに伍して高いアクセス数が付いたのは光栄であるが、我としては正直困惑した。勝手に転載、紹介されたことはまったくかまわない。
 もちろん一人でも多くの方に読まれるのは嬉しい。が、根が天邪鬼にできているからか、従来の読者だけで十分であって、あまり一見さんに読まれるのは怖い気もしている。せいぜい70位前後で満足しているのだ。
 むろん書くからには誰に読まれようが気にしないしどこに転載されても構わない覚悟もできている。が、まず読み手との関係において、どこの誰かとは想定はしていなくても、かねてよりいつも読んでくれている方を思い、その人に向けてこちらは書いているのである。
 それは幻想かもしれないとも思う。しかし、従来の「読み手」が何人かはわからないけれど、きっといてくれるのだと信ずる。また、マスダはしょうもないこと書いてるなあと呆れつつも、お付き合いして下さる方へ向けてこれからも書き続けていきたい。

 そう、「いいね!」はこのブログにはつかないし、何の反応も評価も届きはしない。かろうじてランキングが上下するだけだが、その順位が変動する分、どこかの誰かは、必ず読んでくれているのだと思い、励まされ書き続けている。

 敬愛する山口瞳先生は、死ぬまで毎週、自らのコラム「男性自身」を週刊誌で書き続け、氏の日常と日々の思いを発信し続けていた。嗤われるかもしれないが、このブログは、勝手に先生に倣い、我マス坊の「男性自身」であり、かのコラムのようなつもりで書いている。
 目にみえる「いいね!」などはいらない。ただ、たまにでもいいから読み手も読み続けていて欲しいと願う。その人に向けて我は書き続けていく。そこに「あなた」という誰かがいると想定して書いている。