残りの人生、さてどう生きていくべきか・前2018年03月30日 07時37分12秒

★あれこれ思い悩む還暦の春に

 なかなかブログ更新もできないで申し訳なく思う。
 一昨日昨日と今月はじめての山梨へ、所用も兼ねて慌ただしく行ってきたり喫緊の優先的用事が重なり、腰据えて落ち着いてパソコンに向き合えないでいる。そのうえ異常にどこも暑くてまいった。
 体調、右腕の方は相変わらず鈍く痛く痺れ感あるのだが、やはり軽い脳梗塞のようなもの起こしている感じがしている。
 車の運転して気がついたが、右足の踏み込みの感覚が弱い。ブレーキとアクセルの位置が何かはっきりつかめないで焦った。走っていてもすごく不安になった。
 が、何はともあれ無事に戻りこうして生きているし、常に慎重に注意深く何事もやっていくしかない。歳とると若い時とは違う、前とは違うことが起きてくる。そうした身体の変化に自らよく留意して、ある意味だましだまし、無理は絶対せずにやっていくしかないのだと気づく。そうこれが老いていくことなのだ。そしてその先に我が死が待っている。

 男も更年期障害とか、更年期鬱とかいうものがあると聞くが、女性のように閉経などなくとも確かに身体の内側から多くのことが変わって来る。食の嗜好も変わったりとこのところその思いを強く感じている。
 そしてこれは書くべきか迷い躊躇っていたのだが、今さらながら「今後の人生」について思い悩んできた。この歳で恥ずかしく情けない話だと自分でもつくづく思う。
 ただ拙ブログで我は今まですべてあからさまに、起きたことや考えたことなど、できるだけ赤裸々に他者に迷惑が及ばない限り、とことん正直に書いて来たつもりだから、今さらそうしたことを隠したりオブラートに包んで触れないわけにはいかないと覚悟した。

 森友問題での佐川前長官の証人喚問についてとか、今の社会情勢にあれこれ思うことや書きたいことも多々あるのだけれど、途中まで書きかけてアップできずにいる。それらは折あれば「書き換え」して出すつもりではいるけれど、まずは今の「我が悩み」、若きウェルテルならぬ、老いたマス坊の悩むところをいつものようにだらだらと何回かに分けて書いていきたい。

 人生を半世紀どころか、60年も生きて来て、今さらながらまた無一文、ゼロからのスタートになることになりそうだ。
 いや、家はあるので少なくとも寝るところ、住まいだけは確保されてはいるが、貯金も尽きてきて、父も死ねば我の収入はゼロに等しくなるのである。
 世間では、同世代ともなれば、定年退職し、優雅な年金生活が始まると心待ちにし子育ても終わり、のんびりと夫婦で悠々自適、趣味や旅行に明け暮れる方々も多いのではないか。
 じっさい、コンサートの場ではそうしたご夫婦によくお会いするし、知人にも季節ごとに京都やときに海外に妻と二人で行かれる方がいる。そうした「余裕」、時間的経済的ゆとりがあるのを羨ましく思わなくないけれど、それもまた若い時からきちんと人生設計し、真面目に会社勤めし辛いときも我慢して働き続けたという「ご褒美」「成果」なのだから当然のことなのである。我が困窮は我自ら招いたことなのだから。

 つくづく思う。仏教でいうところの因果応報とはこのことだと。全ての人は自ら撒いた種の収穫の時がくる。きちんと畑を耕し手入れして育てた種は確かな多くの実りを得よう。
 我のようにそうしたことを放棄した者、まさに「耕作放棄」地の畑は荒れ果て雑草が伸びるにまかせている。その地からは何の収穫も得ない。
 が、こうも思う。我の畑はそれしかないのだとすれば、その地でもう一度、雑草は抜いてすきこみ一から耕し今さらながら種まきして収穫を待たねばならない。季節はもう秋で、冬の到来も間近なのもわかっている。霜が下りる前に果たして少しでも収穫できるかどうか不安だが、我が人生というフィールドはそこしかないのだからそこを手入れしてやっていくしかない。

 そうした「今後」のことについてあれこれ恥じいるべきことも告白しつつもう少し書かねばならない。