耐えがたきを耐えていく~誰も助けてはくれないのだから2018年09月21日 21時18分59秒

★耐えがたきオスプレイの爆音と老犬の夜啼きと老父の妄動と。

 手身近に書く。
 この連日、雨もよいの日が続きともかく肌寒い。今朝がたは吐く息も白く、早くも暖房が恋しく思うほどだった。
 父も一昨日から家に戻ってきているときなので、風邪ひかさぬよう気が気でならない。

 また間が空いてしまったブログ、ゆっくり落ち着いて癌のことやらいろいろ書きたいこと、お知らせしたいことは多々あるのだが、このところゆっくり眠る時間もなく、ブログを落ち着いて書くことすらままならない。
 先のギックリ腰は癒えたのだが、このところ何故か鈍く痛い腰痛が続いていて、季節の変わり目ということもあるのだろうが、辛く苦しく痺れた痛みを抱えている。
 もしかしたら腎臓や肝臓の痛みかもとも思うが、今は市のミニドックさえも行く時間がなく、不安を抱えながら青息吐息で日々耐え忍んでいる。

 このところ、オスプレイが連日の如く、特に夜になると拙宅の上空を何機も飛び交い、夜10時近くまで耐え難い騒音に苦しめられている。
 今まで横田基地滑走路の直下で長年暮らして、たいていの米軍飛行機の騒音には慣れてきた我だが、オスプレイ独特の重低音のパラパラと遠くからでも腸に響くようなプロペラ音だけはどうしても我慢ができない。それは大きな騒音である以前に、身体に響く重低音だからで、窓ガラスはビリビリ音立てるほどで、音が大きいとかいう以前の身体的影響が大きい。
 そのオスプレイ、何故か日中よりも夕刻時から9時過ぎまで、何機も飛来して、その都度、不安な重苦しい騒音に苦しめられる。墜落の危険性の多寡以前に、この新型の軍用機の騒音だけはどうしても慣れも許容もできないと思う。
 かつて北爆の頃、連日昼夜を問わず戦闘機B52のすごい騒音が頭上を飛び交ったが、それは耳にウルサイだけで、許しがたいけれどもやがて慣れもしてしまった。が、オスプレイだけは音が大きいとかうるさい以前に、人の神経に障る嫌な重低音がひどい。そこに墜落も含めた常に不安な気持ちがかきたてられる。まさに耐え難い。
 が、今我は、それすらもたえねば ならぬ状況にある。

 縁あって山梨から貰い受けて来た老犬のトラさんが呆けて弱って来たのか、このところ毎晩夜啼き遠吠えしてその都度我は起こされ、散歩させて、睡眠不足だと先に記したかと思う。
 そのトラさん、ますます状況は悪化して、寝ていないときは、常に外に出たがり吠えまくって、静かにしていない。外の小屋に繋げば、何時間でも吠えて騒いでご近所から苦情が出る。
 仕方なく昨年秋から今夏も含めてずっと室内に入れて飼うはめになったのだが、日に何回散歩に連れ出しているかわからないほど手がかかる。外に出さないと、今繋いでいる四畳半の畳の居間で、大小便を垂らしてしまう。
 そして大人しく眠っているときはともかく、数時間すると、まずは唸り出し、悲痛な苦しそうな叫び声を上げ出し、やがて隣近所に届くほど大きな声で吠え出す。
 二階で寝ていても我は仕方なく起こされては、抱きかかえて近所界隈を散歩させて排尿させる。が、それで家に入れても少しするとまた同様に騒ぎ出し、ほっておいて静かにおさまるときもあるが、一時間も騒いでいるとこちらも眠れず、根負けしてまた散歩に連れ出す。
 そんなことを毎晩何度も繰り返しているから深くたっぷり眠れたためしはなく、ずっと睡眠不足で、朝方やっとトラさんが静まり熟睡してからこちらも寝直しても、遅く起きても何か寝た気がせず、朝から疲れがとれやしない。
 昨晩も雨の中、何度も散歩に行って、家に入れて体拭いてやって、これで静かに眠るだろうと思ってもまた少しすると騒ぎ出す。もうこちらは睡眠不足と疲れてヤケになって、紐外して玄関から外に押し出した。
 が、そのままトラさんを放り出して深く眠れるはずもなく、仕方なく少ししてから傘さして、トラさんの姿を探しに行った。
 雨の中トボトボ歩いては立ち尽くし、当人も呆然当惑しているように見える。声かけて紐つないで連れ戻して、家に入れ寝かしつけたが、その後もまた少し泣き騒いだかと思うが、こちらも疲れ果ててほったらかしにしていたらしばらくしたら啼きやんで静かになって眠ったようだった。
 このところそんなことの繰り返しで、用便がしたくて騒ぐのではなく、呆けてきて徘徊が始まったのだと思える。つまり昼間ずっと寝ていることもあって、夜になると元気になり、何度でも外に出たいと騒ぎ出すのだ。
 そのまま外に繋いで出しておくとまた家に入りたいと鳴き騒ぐのだからいったいどうしたら良いのかもうわからない。仕方なくこのところはもう深夜でも、かなりの距離を引っ張ってでも散歩させて、ある程度疲れさせてから家に入れて、その後また騒いでもほったらかすようにしている。
 そうでもしないとこちらも体がもたない。すべてこれも自業自得で、こんなバカな手のかかる老犬を貰い受けた罰であろう。しかし、保健所に連れて行って殺処分するのはたやすいわけで、貰い受けた犬なのだからこそ何もかも我がどこまで耐えられるか試されているのだと思うしかない。

 そしてそこに認知症の90代半ばの父も我にはいる。父がいる時は、トラさんがやっと静かになったので、少しでも昼寝しようと思っていると今度は父が騒ぎ出し、犬とボケ老人とのWパンチで、ほんとうに30分でも身体休める時間もない。
 今晩は、寒いので夕方仮眠させて、晩飯前に起こしたら、何もかもわからなくなってしまい、「こんな早朝に何で起こすんだ」、と不機嫌で起こっている。日時を尋ねたら、デジタル時計の午後6時28分を、6月28日だと言い張り、呆れて咎めたらひと騒動起こして挙句に暴れて修理したばかりの扇風機を破壊してしまった。
 さらに合わせて頭上にはオスプレイがバラバラと不気味な重低音を遠くから響かせウチの上空に次々飛来してくる。父と老犬とオスプレイの三重奏である。

 ご存知のように我は若い時から身勝手好き勝手に自分の思い通りに生きて来た男だが、今こうした事態を抱えて、ようやく「耐え忍ぶ」ということがわかってきたと思える。
 我慢することとはちょっと違う。「耐え忍ぶこと」つまり「忍耐」であり、「寛容」という言葉にも少し近い。
 あれもこれもすべて、この世にはこうしたことはどこでも誰にでも起きよう。自分だけのこと、特別なことではないはずだ。そしてまた、この世にはこうした事態とは関係なくのほほんと生き、関わらず煩わされず一生を終えられる幸いな人もいる。
 が、こうした事態、事実が確実に起こり、有り得るのならば、誰かがそれを負わねばなるまい。誰かが背負わねばならないことだとするならば、今我はそれを引き受けたいと思う。そういう定めとして。

 むろん投げ出して逃げ出すことも何度も考えた。しかし、もしそうしたらばきっと生涯そのことで悔い責め苦を味わうかもしれない。我が性格的にそれほど強くもないし、それを良しと肯定できる理由づけも思いつかない。
 ならば、そういう立場、目に遭うのならばそれはそれで受けねばならないのである。つまり日米安保条約があり、日本のどこかに米軍基地があって、その周辺に住む者は、騒音公害をはじめ様々な苦難に遭う定めなのである。
 むろん、だから沖縄の人たちに基地負担を押し付け、我慢せよ、と言ってるのではない。我も、我が直近の横田基地も含めて、戦争のための軍事基地、それも米軍の基地などないにこしたこたはない。
 が、今、頭上を飛び交うオスプレイも含めて、そこから逃げ出してはならないと思う。受け入れも肯定もしないが、自民党政権が続く限り誰かがその被害を味わい負わねばならないとするならば、そして偶然その地に暮らしている我だからこそ、それを負おうと覚悟した。この地を離れても何も解決はしないのだから、ここから声を上げていくしかない。

 我が祖父母たち、旧谷中村の村民も最期まで、強制立ち退きを迫られても田中正造翁と共にその地に残ったではないか。それは結果的に無駄であろうとも抵抗の歴史は今も色あせない。
 ならばこそ、我もまたこの地で、横田基地の被害を身をもって訴え続けていくだけのことだ。それこそが使命なのだと。マジに希う。オスプレイよ、我が頭上に落ちよと。

 そう、すべてのことは、嫌な辛いことでも誰かが受けとめ追わねばならないのだった。便所掃除や糞尿処理とか人が嫌がる仕事でも誰かが担当してくれるからこの社会は回っていく。
 それがどんなに悪い、ひどいことであろうとも誰かがとりあえず背負わねばならないのだとするならば、我はそれを負うつもりで今はいる。それもこれも巡り合わせなのだから、我はそれをすべきなのだと天命に思う。
 先に、確か、我の状況は「地獄」だと書いたかと思う。今はそれを訂正したい。ここは地獄ではない。こんなものは地獄とはまだ呼べない。人の世、人生とは、苦海を漂う葦船のようなものなのだと今は思える。
 誰もがその苦海をただ不安な思いで漂うならば、人は互いに助け合うしかないではないか。

 願わくば我が生きているうちに、日米安保条約は解消されて、この日本から米国の軍事基地はすべてなくなって、この国が真の独立を果たすことを夢想するが、その前に地球規模の災害や国家の危機が訪れるかもしれないし、何事もなく世界が今のまま続いていくとも思えない。
 ただ、自然災害はともかく、究極の人的災害、戦争や紛争が起こるきっかけとなる戦争法と、米軍と一体となった自衛隊の戦争参加の道だけは、残りの人生、生涯かけてNO!という反対の声を高く大きく上げていく。
 耐え忍ぶことの重要さと共に、そこからその現実を受けて、その非道を訴え続けていくことの大切さを今ようやく我はわかった。
 苦海の海を漂う人は、それしかできないし、それこそがヒトが生きていくということなのだ。そう、誰もがここから、その場所からだ。

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