宵闇迫れば悩みは果てなし・続きの④・おしまい2022年06月22日 01時47分27秒

★父と亡き母、そして神の計らいにただ感謝す

 「死」には様々な形容がつくが、皆どれもあまり良いイメージがない。
 自死は当然のこと、事故死、病死、転落死、孤独死、虐待死、衰弱死、安楽死、災害関連死等など、死にまつわる「死因」はどれもほぼ暗く不吉かつ不幸な意味合いを伴う。
 まあ、それは当然であり、「死」そのものが人生の終わり、人の一生の最期のときだから、やはり不吉な悪しきイメージがつきまとうのも致し方ない。
 ※そもそも良い死に方のときは、「死」は用いず、大往生などとか別の言葉で代用している。

 そうした数多くの「死」の原因、理由として、このところ「老衰死」という言葉があちこちでよく見かけ用いられるようになってきた。以前は一般的ではなかったと思えるが。
 そもそも、その言葉を聞いたとき、昔は、どういう意味か、その「死に方」がよく我にはわからなかった。
 老衰という言葉はわかる、というか推測できる。が、それと「死」とどう関係してくるのだろうか。老衰して死ぬことがそもそもあるのであろうか、と。
 我には長年疑問であったが、いま、我父を百歳近くまで生かして見送るときにあたり、そうか、こういうことか!!と得心している。

 機能不全という言葉もよく聞く。国連が機能不全だとか言われて久しい。
 人の体も同様に、身体の部位のある器官が機能不全となることがある。例えば、肝臓とか腎臓が機能不全になり、腎不全などと言う。
 自動車などを考えればわかるが、長く使い乗ってるとあちこちの部位が劣化して来て、車検のたびにパーツ交換したり、いろいろメンテに金がかかるようになる。
 ヒトの体も同様に、長~く生きていると、しだいにあちこちにガタが出てくる。男も女もだいたい60歳ぐらい、つまり還暦の頃からあちこちの痛みや異常が出てくるものだ。機械のように古く劣化した部位を交換することはできないのが厄介であるが仕方ない。
 我も老眼や耳が遠くなってきたし、歯もずいぶん悪くなった。体力も衰えたし、記憶力も低下した。足腰の痛みは日常的だし過活動膀胱で失禁気味でもある。
 つまりそれが老化ということであり、いつまでも若若しい人もたまにはいるけれど、病気や事故などで早逝しない限り、歳とれば、やはり誰にも老化が現れ程度の差はあろうと、見た目も言動も「老人」と必ずなってしまう。
 昔、いくらでも走れたり遠くまで歩けた人でも、杖ついて何とかやっと、という状態にもなる。
 食べることも呑み込むこともその力が衰えてくる。肺活量も衰えるだけでなく腎臓や肝臓、その他すべての臓器の機能も落ちていく。
 癌などの進行性の病気がなくても、長く生きて老人となれば、そうした機能の多くが劣化して不全となる。それを多機能不全というらしい。

 我が父の場合、まず頭のほうがボケはじめ、昼寝したりすると朝と夜との区別がつかなくなったり、言動がトンチンカンになった。今では基本的なモノゴト、日常的なことすら何一つできなくなってしまった。
 さらにふらつきなども出て、自ら一人では自立歩行が難しくなった。
 そして、小便の失禁も出はじめて、常時紙パンツを履かないと垂れ流すようになり糞尿を自らの意思でコントロールできなくなった。
 目も耳も年齢の割には良かったが、さすがにこのところはそれも悪化してきた。
 ただ、近年まで、食欲だけはしっかりあって、硬いものは好まなくなったが、好物でなくてもほぼ何でもパクパク自分で食べてくれていたので、介護側の手を煩わせないでくれていた。

 しかしその「食欲」もついに、昨年に入ってからは落ちてきて、じょじょに食べる量が減り、それに合わせて体重も落ちてきて、とうとう今では、小柄な息子よりも体重は下になり、かつての大男は50キロそこそこのガリガリになってしまった。
 となると、とうぜん体力もなくなる。昼夜問わず起きていられなくなり、食事中もうつらうつらしたり、好きなテレビ番組を観ていてもすぐに眠りだしてしまう。
 医学用語で、「傾眠」(けいみん)というのだそうだが、日中でも傾眠状態が続き、ともかく眠ってばかりとなってしまう。

 数年前までは、昼間長く昼寝とかさせると、夜中に眠りが浅くなって深夜に徘徊もしたりしたのに、今ではともかく昼間も夜も起こさない限りすぐに眠ってしまう。
 ろくに食べていないし痩せたから体力がないこともあるのだろうが、ともかく眠ってばかりいる。最後はそうしてただひたすらに眠り続けて、意識もなくなっていき、そのまままさに眠るように呼吸も止まるのだろうか。
 「老衰死」とは、そんな風に多機能不全の末に、本当に何もできなく何もわからなくなって、ただただ眠り続けて意識もなくなってあの世へと旅立つことなのか。
 そのとき、たぶん死の苦しみ、痛みなどはないのかもしれない。天寿を全うするという言葉もあるが、ある意味、老衰死とは理想的な死に方ではなかろうか。酔生夢死というところの、夢見ながらの死ならば、極楽死、真の安楽死とも呼べるのではないか。

 思うに、死が怖く、忌み嫌われるのは、自らがいなくなってしまう、この世を先に一人で去る、という「意識」があり、死後の世界という「未知」への恐怖が死の悩み、苦しみの要因なのではなかろうか。
 老衰死は、けっきょく自らはもはや何もわからなくなって、ただこんこんと眠り続け、死の恐怖も現世への執着も死後の悩みも何もなくなって、まさに解脱して人生を終える。
 父を見ていると、かつてあれほど何でもできた、細かく几帳面だった人が、何もできなくわからなくなり、赤ん坊のようになってしまって情けなく悲しくも思ったが、それだけまさに出し殻になるまで、とことん無駄なく生きながらえたわけなのだから、素晴らしく理想的な最期ではなかろうか。
 以前は、ときおり、不意に我に対して「おっかさんはどこへ行った!?」、どうして帰ってこないとか、真顔で亡き妻のことを問い直してきて、その都度こちらも胸を突かれるような哀しみに襲われたが、もう今は、その母のことすら覚えているか、思い出すときがあるのかわからないほど、父は日がなうつらうつらしている。
 悲しみも悩みも現世の気にかかることすべてを離れて死にゆくのであれば、まさに成仏であり、イエスが言うところの神の国は近いのだと我は思える。

 いずれにせよ、その日は近いわけだが、その日まで父と一日でも長く無事に過ごしていきたい。嗤われるだろうが、まだまだ父にできることとすべきことがあると信じて。
 父と母というまったく別の異なる死に臨む「生き方」を我に示してくれた神に感謝、である。

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