哀しみの月、9月も今日で終わる ― 2022年09月30日 20時23分09秒
★さあ、気持ちを切り替えて、我もしっかり死ぬためにきちんと生きていこう
父が死んだのが今月14日、母が、2016年に逝ったのも9月8日。
これから月日は繰り返し、毎年同じく12カ月やってくるわけだけども、9月が来るたびに、我は生涯、父と母の命日の月だと思い出し、哀しみの気持ちが蘇ることだろう。
9月は父母を失った悲しみの月として、記憶に残るだけでなく今年の 9月のことも我は死ぬまで忘れないだろう。
今更ながら、自分は本当に何もできない人間だと思い知った。
思いは多々、人の何倍もあったとしても、何一つ自らはきちんとできやしない。
いま、母も父も失い、天涯孤独というほど大げさではなくいが、一人なって、これから本当に、自分の人生が始まると気づく。
もう、周りには誰もいないのだから、自分だけの人生が始まる。
それは自由で気楽なものどころか、全て自分一人で何もかもやっていかなくてはならないわけで、特に収入面でよほど奮起しないと早晩この人生は行き詰る。
生活保護を受けるにしてもこの家がある限りそれは難しいだろうし、全てを売って、金にするという手もあるが、引越しや家に有るモノの処分などそのための作業だけで我が人生は尽きると思える。
何とか断捨離のようなことをしつつ、それで糧を得て、生きていければ良いのだけれど、そう甘いものではないだろう。
そしてもう一つ思うのは、何もできなかった我は、まだ何も本当にしていないのである。
やりたいこと、形にして残すべきことはたくさんある。自分がしてきたことは、全て途中の状態で、まだ何一つカタチにできていない。
それをせずに、もう敗戦処理投手のように、あるいは、負け越しが決まった力士のように、終わりに向かって撤収作業にセンネンするのはいかがなものか。
願わくば、我の積年の思いを形にして、それで何らかの収入が少しでも得られる方法があればと思う。
残りの人生、どう生きるかということは、どう死んでいくかということと同義である。
いかに、きちんとしっかり思い残すことなく、我も死ねるよう、これから始まる新たな人生を再構築していかねばならない。
神よ、こんな我に哀れみを!
父が死んだのが今月14日、母が、2016年に逝ったのも9月8日。
これから月日は繰り返し、毎年同じく12カ月やってくるわけだけども、9月が来るたびに、我は生涯、父と母の命日の月だと思い出し、哀しみの気持ちが蘇ることだろう。
9月は父母を失った悲しみの月として、記憶に残るだけでなく今年の 9月のことも我は死ぬまで忘れないだろう。
今更ながら、自分は本当に何もできない人間だと思い知った。
思いは多々、人の何倍もあったとしても、何一つ自らはきちんとできやしない。
いま、母も父も失い、天涯孤独というほど大げさではなくいが、一人なって、これから本当に、自分の人生が始まると気づく。
もう、周りには誰もいないのだから、自分だけの人生が始まる。
それは自由で気楽なものどころか、全て自分一人で何もかもやっていかなくてはならないわけで、特に収入面でよほど奮起しないと早晩この人生は行き詰る。
生活保護を受けるにしてもこの家がある限りそれは難しいだろうし、全てを売って、金にするという手もあるが、引越しや家に有るモノの処分などそのための作業だけで我が人生は尽きると思える。
何とか断捨離のようなことをしつつ、それで糧を得て、生きていければ良いのだけれど、そう甘いものではないだろう。
そしてもう一つ思うのは、何もできなかった我は、まだ何も本当にしていないのである。
やりたいこと、形にして残すべきことはたくさんある。自分がしてきたことは、全て途中の状態で、まだ何一つカタチにできていない。
それをせずに、もう敗戦処理投手のように、あるいは、負け越しが決まった力士のように、終わりに向かって撤収作業にセンネンするのはいかがなものか。
願わくば、我の積年の思いを形にして、それで何らかの収入が少しでも得られる方法があればと思う。
残りの人生、どう生きるかということは、どう死んでいくかということと同義である。
いかに、きちんとしっかり思い残すことなく、我も死ねるよう、これから始まる新たな人生を再構築していかねばならない。
神よ、こんな我に哀れみを!
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