男らしいってわかるかい・1 ― 2014年05月28日 21時33分44秒
★戦争ができるって良いことなのだろうか。 アクセスランキング: 134位
季節は春から夏へと駆け足で進んでいく。こうして四季が繰り返すごとく時代もまた同じ過ちを繰り返すのだろうか。
言うまでもなくこのところ解釈改憲と集団的自衛権の行使容認で世相は喧しい。政府与党間の協議だけで、国民にはかることなく勝手にそうした国の根幹に関わることを決められるのかそもそも疑問に思うが、さておき、このところずっと考えていることを書いていく。
こうした解釈改憲、集団的自衛権を行使できるようにしていくということは要するにこの日本国も戦争ができる国になるということであろう。
「戦争、戦闘行為が堂々とできる」ということはというのは耄碌暴走老人慎太郎のような男にとっては望むところであった。今の平和憲法があるがために戦争がしたくてもできなくて切歯扼腕していたわけであり、よくも悪くもそうした制約が憲法自体を変えなくてもとっぱらわれてこれからは堂々と国際貢献と積極的平和主義の名のもとにパートナーの米国と共に戦争ができる国になるということなのだ。
で、あえて問うてみる。戦争ができることは良いことか悪いことかと。
こうした戦争ができる権利、つまり集団的自衛権の行使を求める人たちの思惑は一様ではないと思える。大企業などは軍需産業と戦争による好景気なる思惑があって戦争を望むのだと推察もつくが、かなりの一般人の間にも近隣諸国の無法行為に対してこの国はあまりにも非力で情けないと嘆き憤る心情があるように思える。それが先の都知事選での田母神氏への特に男性を中心にした熱い支持につながったと推測できるしそうしたシンパシーはわからなくもない。実はそれは一言でいえば「男らしさ」ということであり、「男らしい」とはどういうことか、どう考えるかということに尽きる。
そのことについて考えてみた。
例えば深夜、一人で人気のない裏通りを歩いているとき、数人のチンピラたち、今ならヤンキーと呼ぶのであろうが、若い不良たちに囲まれて痛い目にあいたくなければ、金を出せと脅されたとしよう。そのときにぶるぶる震えてこれだけしかありません、どうかご勘弁を、と土下座して金を言われるがままに差し出すのは情けないことであろう。
漫画などでは、そうしたとき、臆すること動じることなくさっそうとあっという間にヤンキーたちを殴り倒し、彼らは逃げながら覚えやがれ!と叫んで走り去り、男は何事もなく家路に向かうというパターンがいくらでもある。じっさいそんな風に強くありたいと願うし、そうした力の「無法」に対しては力で対処して問題を解決したいと自分も思う。そうした強さに男は憧れる。
が、現実の話では、彼らに怯えて唯々諾々彼らの求めに従い後で自己嫌悪に陥るのがフツーの人であろう。どうして殴られてもかまわないからはっきり拒絶しなかったのか、負けてもいいから闘わなかったかと自らの臆病さを責めるかもしれない。自分は女々しい、男らしくないと思うかもしれない。
漫画などでは、ほぼすべてのアクションマンガは主人公が強敵、難敵と対峙し最初は負けたとしても努力と鍛錬で力と技を磨き、応援してくれるマドンナ的女の子と仲間たちの声援を背に苦労はしても必ず相手、敵を倒すというパターンに満ちている。
いや、それは漫画だけでなく、ほぼすべての人気映画、人気ある読み物はそうしたストーリーでできている。格闘漫画でなくても主人公が苦労はしても必ず最後には難敵強敵を倒すようにできている。そして読者も当然それを待ち望む。まさか最後まで負けっぱなしで相手の思うがままにされる主人公は物語として成立しえない。
つまるところそうした行為、敵を倒していくということこそが「男らしさ」と同義だと世間では認識されているのではないかと思える。そして現実世界を見れば、自らの日本国を取り巻き、慎太郎的に言わせれば悪い「三国人」たちがいる。特に中国、そして韓国の無法ぶりは目につく鼻につく。日本は憲法で戦闘行為はできないと記されているから彼らは頭に乗って挑発行為を繰り返す。北朝鮮も同様だ。ならば解釈改憲であろうとも集団的自衛権を行使できるようにして彼らの無法に武力で反撃したら良いではないか。ぎゃふんと言わせてやろう。
多くの日本人、特に男性にはそうした思いを抱く人が多いのではないか。この国はかの国の無法ぶりに対して外務省を通じて抗議する程度しかしないのはあまりに大人しすぎる、情けなさすぎる。このままでは国家として他国から外国人からなめられてしまうと。
力の無法、暴力に対しては力で対抗するしかないという考えがある。それは決して間違いではない。
例えば、大阪池田小の事件のように、街中で凶器を持った男が暴れて誰彼関係なく一般市民を殺傷したりした場合、言葉で説得したとしてもまず意味がなく、やはり警察、機動隊、ときに自衛隊テロ対策部隊のような力の組織で対抗するしかないはずだ。時に射殺しても許されるとさえ考える。また、警察などに頼れない場合は、民間人でも力を寄せ合い総力を挙げで犯人を追いつめ捕らえるであろう。そうするしかないし無法な力、暴力に対峙するのはやはり力しかないのだ。
しかしそれは個人の場合であって、国と国、いや、民族と民族、地方や地域との場合でも当てはまるのであろうか。個人の延長線上に国家があるのだとすればそれもまた同様だという考えがなりたつ。無法国家の力による暴走、例えば離島に侵攻するなど主権侵害された場合はどうするのか。我が国も言葉で抗議するばかりではなく、じっさいに軍隊、つまり自衛隊を派遣して「力」で対抗すべきではないのか。
そして双方の国の軍隊が戦闘行為を行う場合、それを「戦争」と呼ぶ。つまり解釈改憲ということは日本はこれからは国家の主権を守るためには戦争すら辞さないということなのだ。国民にその覚悟はあるのか。国民はそれを望むのか。戦争を認めるのか。問題なのは政府与党は、きちんと国民にそれを示し問いかけていないことだ。政府与党だけで決められることでは絶対ない。
また国民もそこまで覚悟するどころか想像すらしていない。そして戦争とはいったいどういう事態であるかという認識も想像力すら持ちえていない。国民の財産といのちを守るために、と安倍首相は繰り返すが、戦争、戦闘行為でそれが守れるのであろうか。
実は書いてきたことはつまるところ世間でいう「男らしさ」なのである。では「男らしい」って何なのだろうか。この項続けて書いていく。
季節は春から夏へと駆け足で進んでいく。こうして四季が繰り返すごとく時代もまた同じ過ちを繰り返すのだろうか。
言うまでもなくこのところ解釈改憲と集団的自衛権の行使容認で世相は喧しい。政府与党間の協議だけで、国民にはかることなく勝手にそうした国の根幹に関わることを決められるのかそもそも疑問に思うが、さておき、このところずっと考えていることを書いていく。
こうした解釈改憲、集団的自衛権を行使できるようにしていくということは要するにこの日本国も戦争ができる国になるということであろう。
「戦争、戦闘行為が堂々とできる」ということはというのは耄碌暴走老人慎太郎のような男にとっては望むところであった。今の平和憲法があるがために戦争がしたくてもできなくて切歯扼腕していたわけであり、よくも悪くもそうした制約が憲法自体を変えなくてもとっぱらわれてこれからは堂々と国際貢献と積極的平和主義の名のもとにパートナーの米国と共に戦争ができる国になるということなのだ。
で、あえて問うてみる。戦争ができることは良いことか悪いことかと。
こうした戦争ができる権利、つまり集団的自衛権の行使を求める人たちの思惑は一様ではないと思える。大企業などは軍需産業と戦争による好景気なる思惑があって戦争を望むのだと推察もつくが、かなりの一般人の間にも近隣諸国の無法行為に対してこの国はあまりにも非力で情けないと嘆き憤る心情があるように思える。それが先の都知事選での田母神氏への特に男性を中心にした熱い支持につながったと推測できるしそうしたシンパシーはわからなくもない。実はそれは一言でいえば「男らしさ」ということであり、「男らしい」とはどういうことか、どう考えるかということに尽きる。
そのことについて考えてみた。
例えば深夜、一人で人気のない裏通りを歩いているとき、数人のチンピラたち、今ならヤンキーと呼ぶのであろうが、若い不良たちに囲まれて痛い目にあいたくなければ、金を出せと脅されたとしよう。そのときにぶるぶる震えてこれだけしかありません、どうかご勘弁を、と土下座して金を言われるがままに差し出すのは情けないことであろう。
漫画などでは、そうしたとき、臆すること動じることなくさっそうとあっという間にヤンキーたちを殴り倒し、彼らは逃げながら覚えやがれ!と叫んで走り去り、男は何事もなく家路に向かうというパターンがいくらでもある。じっさいそんな風に強くありたいと願うし、そうした力の「無法」に対しては力で対処して問題を解決したいと自分も思う。そうした強さに男は憧れる。
が、現実の話では、彼らに怯えて唯々諾々彼らの求めに従い後で自己嫌悪に陥るのがフツーの人であろう。どうして殴られてもかまわないからはっきり拒絶しなかったのか、負けてもいいから闘わなかったかと自らの臆病さを責めるかもしれない。自分は女々しい、男らしくないと思うかもしれない。
漫画などでは、ほぼすべてのアクションマンガは主人公が強敵、難敵と対峙し最初は負けたとしても努力と鍛錬で力と技を磨き、応援してくれるマドンナ的女の子と仲間たちの声援を背に苦労はしても必ず相手、敵を倒すというパターンに満ちている。
いや、それは漫画だけでなく、ほぼすべての人気映画、人気ある読み物はそうしたストーリーでできている。格闘漫画でなくても主人公が苦労はしても必ず最後には難敵強敵を倒すようにできている。そして読者も当然それを待ち望む。まさか最後まで負けっぱなしで相手の思うがままにされる主人公は物語として成立しえない。
つまるところそうした行為、敵を倒していくということこそが「男らしさ」と同義だと世間では認識されているのではないかと思える。そして現実世界を見れば、自らの日本国を取り巻き、慎太郎的に言わせれば悪い「三国人」たちがいる。特に中国、そして韓国の無法ぶりは目につく鼻につく。日本は憲法で戦闘行為はできないと記されているから彼らは頭に乗って挑発行為を繰り返す。北朝鮮も同様だ。ならば解釈改憲であろうとも集団的自衛権を行使できるようにして彼らの無法に武力で反撃したら良いではないか。ぎゃふんと言わせてやろう。
多くの日本人、特に男性にはそうした思いを抱く人が多いのではないか。この国はかの国の無法ぶりに対して外務省を通じて抗議する程度しかしないのはあまりに大人しすぎる、情けなさすぎる。このままでは国家として他国から外国人からなめられてしまうと。
力の無法、暴力に対しては力で対抗するしかないという考えがある。それは決して間違いではない。
例えば、大阪池田小の事件のように、街中で凶器を持った男が暴れて誰彼関係なく一般市民を殺傷したりした場合、言葉で説得したとしてもまず意味がなく、やはり警察、機動隊、ときに自衛隊テロ対策部隊のような力の組織で対抗するしかないはずだ。時に射殺しても許されるとさえ考える。また、警察などに頼れない場合は、民間人でも力を寄せ合い総力を挙げで犯人を追いつめ捕らえるであろう。そうするしかないし無法な力、暴力に対峙するのはやはり力しかないのだ。
しかしそれは個人の場合であって、国と国、いや、民族と民族、地方や地域との場合でも当てはまるのであろうか。個人の延長線上に国家があるのだとすればそれもまた同様だという考えがなりたつ。無法国家の力による暴走、例えば離島に侵攻するなど主権侵害された場合はどうするのか。我が国も言葉で抗議するばかりではなく、じっさいに軍隊、つまり自衛隊を派遣して「力」で対抗すべきではないのか。
そして双方の国の軍隊が戦闘行為を行う場合、それを「戦争」と呼ぶ。つまり解釈改憲ということは日本はこれからは国家の主権を守るためには戦争すら辞さないということなのだ。国民にその覚悟はあるのか。国民はそれを望むのか。戦争を認めるのか。問題なのは政府与党は、きちんと国民にそれを示し問いかけていないことだ。政府与党だけで決められることでは絶対ない。
また国民もそこまで覚悟するどころか想像すらしていない。そして戦争とはいったいどういう事態であるかという認識も想像力すら持ちえていない。国民の財産といのちを守るために、と安倍首相は繰り返すが、戦争、戦闘行為でそれが守れるのであろうか。
実は書いてきたことはつまるところ世間でいう「男らしさ」なのである。では「男らしい」って何なのだろうか。この項続けて書いていく。
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