大地震から10日目2011年03月20日 21時22分57秒

★この辺ではようやく日常が戻ってきたが・・・

 20日、日曜日である。我家の庭の梅は満開だ。もう少しすれば桃の花も咲き出す。しかし今年の春ほど様々な感慨をもって迎えた年はない。

 計画停電が始まって連続5日。幸いにして昨日今日は週末の土日でもあり、電力需要がさほど多くないとの推測から「停電」脅しはなかった。実のところ増坊の地区では今まで幸いにして実際に電気が切れるという事態には遭遇していない。しかし、毎日早朝から市の放送で停電予定は何時からと脅されてその時間帯になると本当に停電するか不安に駆られと落ち着いて過ごすことはできなかった。なので昨日今日と久しぶりにのんびり安心して過ごしパソコンにも腰据えて向かえ作業できた。
 おかしな喩えだが、かつての戦時下、空襲警報がないときもきっとこんな心持ではないかと思う。非常時というのは、当然のこと平穏、平常心ではいられない。それは災害に遭われた方々ばかりではなく、この国の民全員が同じだと思う。原発事故の今後も含めてこちらはどうすることもできず、ただ固唾を呑んで様子を見守るだけだ。だから常に何か落ち着かない。

 じっとしていてもまた揺れてぐらぐらしているような気がするし、もとより普段から低血圧症で、メマイ気味の身としてはこれだけ余震が続くと精神的にも参ってくる。しかし未曾有の大天災、国難と思えば我が身も含め家も家族も地域全体が無事であったことを神に感謝せねばまさにバチが当ろう。そして被害に遭われた方々と地域にどのような形でも支援の手を差し伸べなくてはならない。

 今家ができて、一応ある程度のスペースはあるのだから、被災者を受け入れることも可能だとそれも考えた。しかし、母の退院がほぼ決まり、その後の容態がこの家でどうなるかまだわからないこともあり受け入れ態勢が母だけでも整っていない。以前のように家族全員健康ならば喜んで招き入れることもできたと思うのだが・・・。

 年明けから母の病気の悪化、入院、そして一時期さらに悪化、そして手術、さらにそこに大震災と今年は今日まで目まぐるしく息つく暇なく日々慌しく進んでいる。今後のことは全く見えない。本当はブックカフェのほうも今頃は三日三晩の盛大な家屋完成・開店記念のパーティーをやって店としても動き出しているはずであった。家の方はいちおう完成したのに、母は入院しているし大地震は起こるはまさに先のこと、未来のことはどうなるものか予測つかないとつくづく思う。

 それでも自分に関しては今はすべて良い方向に向かっていると思いたい。まだ身動きはとれないし、なかなか思い通りに何一つ進んでいかなくとも。誤解されても困るのだが、母の病気も大地震もすべてのことが自分にとっては「良いこと」だったと考えたい。もちろん起こらないにこしたことはないし、受け入れ難いというのが本心ではある。被災地の大きな被害に遭われた方々の心労心痛を思うと何故こんなことがと胸が塞がれる。が、なおのことこれを、ここをきっかけにしっかり新たな一歩を踏み出したいと誓いなおした。自分も新しく変わりたい。生き直したいと願う。もちろん前途多難である。先はまだ見えない。どう転ぶかわからない。しかし、きっと良くなると信じて、前を向いて、上を向いて歩いていこう。

放射能の雨にうたれて2011年03月21日 22時12分46秒

★雨に濡れるとハゲになる神話。

 今日21日は一日しょぼしょぽと冷たい雨が朝から降り続いた。
 今の人はきっと知らない話だろうが、増坊が子どもの頃、それは昭和30年代~40年代にかけての頃だと思うのだが、親たちからよく、雨に濡れないようにしなさい、雨に濡れるとハゲになると言われたことを思い出した。
 そう、今回の大地震と想定外の巨大津波が引き起こした福島原発の事故による放射性物質汚染である。報道では雨に濡れないよう外出時には気をつけなくてはならないとのことだ。ハゲになるとはさすがに言っていないが、まさかまたこんな事態が起きるとは思ってもいなかった。しかも自国の原発事故である。忘れていた昔話を思い出したので書いておくことにする。

 子どもの頃の、雨に濡れると禿るという「伝説」は、東西の冷戦下、米ソの水爆実験が繰り返され、世界中に大量に核物質が飛散し、人々が核戦争の恐怖に怯え、放射能の脅威がごくごく身近であったから広まったようだ。
 じっさいのところ、広島・長崎の原爆投下後の黒い雨でもない限り、空気中にただよう放射性物質を含んだ雨に濡れたとしても頭髪が抜けるほどの傷害など起こるわけはなく、当時だって雨で禿げたという人はいなかったはずだが、何故かそう人口に膾炙し子ども心にも雨は恐怖であった。まあ、今はハゲは怖くも何も身近な話題となったが。

 今回もまた核兵器、核実験でもないのにたぶんまた同じような雨で禿げる伝説が流布していくかもしれない。けっきょく規模は違えど、見えない恐怖、放射能に対しての国民のアレルギーは強く、政府が何度も健康に直ちに被害が出るレベルではないと保証したとしても、いったん放射性物質が外部に漏れ出して農作物などに通常値を超える数値が出てしまえば当分の間、もう茨城、福島県産の食品は食卓に並ぶことは難しくなるかと心配する。
 この国の民は、ふだんはノンキに原発問題にしろ何にせよ政治的なことにはほとんど無反応無関心なのに、いったん事故とかコトが起きるときわめて過剰に反応する。しかしその不安や心配は杞憂では決してないし無意味ではない。食べることは生きること同義なのだから食の安全を本当に考え不安に思うならば、TPPも原発と同様に、政治家たちに人任せにするのではなく、自ら政治的に自分のこととして真剣に考えなくてはならない。

 原発安全神話が完全に崩壊した今こそ、東電や歴代政権の政治家たちに任せっきりにしてきたこの国のエネルギーと食の問題、それに米軍基地問題も含めた安全保障について今こそ国民一人ひとりがどうしたいかどうあるべきかを深く考え直すときが来たと思う。今までは政治家を選ぶことと現実の我々の暮らしに大きな乖離があった。これからは、この大震災と原発の大事故をきっかけに政治的なことは強く意識されていくだろう。政治と暮らしがきちんと結びつく。それは良いことだし、そうでなければ被災者や亡くなった方々は救われない。

母はついに退院でき帰宅しました。2011年03月23日 23時19分23秒

★母は昨日夕、一ヵ月半ぶりに家に戻りました。ご支援とお心遣い本当にありがとうございました。

 連絡が遅れ申し訳ありません。立川の病院に入院していた増坊の母は昨日午後退院となりました。2月4日に急患扱いで立川の病院に行きそのまま入院となって検査の結果ガンによる腸閉塞とわかって3月3日に手術、そして経過良好で予定より早い退院となりました。昨晩はお鮨とって、母はほとんど食べられなかったけれど、家族全員で祝い夜もふけて倒れこむように寝てしまいお知らせが遅れました。

 当初は今月中か、早くても今週末の退院の予定が、母の娘、つまり自分の妹がまた九州から来てくれたので、相談したらそれにあわせて急遽退院できることとなった次第。

 まだ食も細く、食べるとすぐ便となって出てしまうし、体重も全然戻らないのが不安だけれど、ようやく普通食が食べられるようになったことと、味覚も戻りやっと美味しいもの、食べたいものがわかるようになったので、病院としても治療することもないならば退院させてしまおうとなったようだ。

 月並みな言葉だけれど、まさに感無量。ただ、もう少し先になると考えていたこともあって、まだ実感はわかないし、まだ夢を見ているような気さえする。病院に長くいたから母がいない生活習慣に慣れてしまっていたことと、新しい家で新しい生活スタイルが始まって、そこに突然母がいることに戸惑いもある。

 これからどうやって病後、いや手術後の衰弱から立ち直っていない母を世話しながら認知症がこのところ一気に進んだ父を抱えてどうこの家でやっていくか、考えると不安にもなるが、今はともかく奇跡の生還を果たした母の帰宅を心から喜びたい。

 今はまだすべてに試行錯誤の段階で、どうすべきかどう進むか手探り状態でもあるが、自分にとってもここから人生仕切りなおしだと思っている。先のことを考えないわけにはいかないが、まず一日一日しっかりやっていくことだろう。
 ともかく全てに感謝以外言葉もない。本当に有難うございました。

有難くもあり、また面倒うんざりでもあり2011年03月25日 22時17分32秒

★人間とは何と身勝手な業の深いものかよ

 書くことに躊躇いはあるが正直に書くことに如くはない。

 母が無事退院できてめでたしめでたしで、家族みんな仲良く過ごしました、とお伽話ならハッピーエンドとなるはずが、もう早くも心底うんざりで、心身共に最も疲れきっている。いったいどうしたことかと悩み、天罰があたっても仕方ないとも今思う。

 22日に母は退院でき、自分の唯一の兄弟である妹もまたも九州から来てその日から今日25日までウチに泊まって母の面倒を見てくれたのだが、有難いと思う反面、今回は本当に疲れた。
 母用の食事も含め家事のほとんどやってもらったし忙しい中また実家に来てもらい大いに助かったと感謝しつつも今日帰ってくれてほっとしている。かつては気心知ったる実の妹ではあるが、やはり他人とは暮らせない。いくら兄弟でも何十年も離れて別々に暮らしてしまえば、もはや別人他人であり、別生活が長く環境、生活習慣も常識も異なるからやはり気を使うし、ささいなことで意見や考えが異なりぶつかることばかりで、日が経つにつれてイライラストレスも溜まってくる。

 これがまったく家事をしない、できない男なら妹に任せて御の字楽チンという立場でいられようが、基本が男オバサンである自分としては妹のやる家事一つ一つが気にくわない。何でもぽいぽい勝手に捨ててしまうし、ゴミの分別でさえ後から全部やりなおした。まるで嫁姑のいさかいである。まあ、料理は作ってくれて大いに助かったし他人の味はまた目先が変わってそれなりに美味しかったが。

 今度あらためて思ったが、だから自分は結婚できないのである。そもそも妻とかに、つまり他人に家事を任せようともやってもらおうという気持ちはまったくない。衣食住、このことは自分のペースでやりたいし、人任せに一番したくないことだ。結婚が家事の分担、分業だとすれば、妻こそ仕事を持ち外で働いてもらうならともかく、家のことこそは全部自分が思い通りにやりたい。勝手に他人にいじられると何がどこにあるかわからないし、本当に困りはてる。これだけは他人には任せられないし任したくない。
 では自分が誰よりもきちんとでき他人がダメだというわけではない。要するに自分のペースで、自分勝手に自由に思い通りやりたいというだけのことだ。しかし身の回りのことも含め、家事とはそもそも他人に任せて他者にやってもらうことなのだろうか。

 母が退院して家に戻り安心し嬉しかった反面、正直何もまだできないし何もしないくせにあれこれ家事に口を挟むのでもう早くもうんざりし切れかけている。元気で生きているからこそそう言えるしすることだとも理解しているつもりでも、入院しているときのほうがはるかに楽であった。こんな口うるさい人だったのかと今は不信に思い食事の仕度も含めて頭を痛めることばかりである。わずか一ヶ月そこらで家族関係も変容するものなのか。変わったのは母か自分か。退院したらそれこそ大変だと予想も覚悟もしていたはずだが気苦労は耐えない。しかしこれで愚痴や文句言うならば間違いなく罰が当ろう。

 じつはさらにそこに母の入院の間に急激にボケの進んだ父の問題も介在して、もうホント自分ひとりでは、ボケ親父と退院直後の衰弱した老母の世話を見切れない。父に対して始終イライラしている。かといって、実の妹が来てくれても彼女に対してもうんざりなのだ。何と身勝手な業の深い人間なのかと自らを改めて見つめなおしている。

 今はまずオヤジをどこか施設にショートステイで預けて少しでも負担を軽くしないとこのままでは最愛の家族全員皆で地獄へ堕ちていく。母が退院して嬉しい幸せのはずなのに早くも家族全員苛立っている。これが自分が願い望んだことなのか。それとも幸せに甘えて家族全員のぼせきっているのだろうか。ならば本当に情けなく罪深いことだ。もう一度あの無闇地獄に行くか。

 どんなことでも一難さってまた一難であり、決して平穏なんておいそれとはこない。まだまだ試行錯誤、暗中模索の過程にある。あれだけ待ち望んだ幸せは束の間のものに過ぎなかったのか。ならばなんて自分は業の深い人間なのか溜息をつく。しかし感謝を忘れてはならないと今自戒している。

 今また試されている。ここを乗り切らねばならない。最悪のときを乗り切ったときこそ改めて今後の真価が問われているのだと思う。

何でもない当たり前であることの幸福2011年03月26日 03時50分22秒

★3.11以後自分もどう生きていくかだ。

 不慮の大震災は直接の被害はなかった自分だけれど、被災された方々の惨状と苦難を横目に見つつ、我家での「生活再建」を模索している。これからどうしていくかなのだ。

 今のままではブックカフェもいったいいつ開店となるかまったく目星もつかないし、大地震の余波はなくとも母の退院以降この家は生活環境が一変したので混乱の極みに今ある。病気を抱えた老人二人と暮らすことは家はとりあえず完成したものの新たな段階に入ったと言えよう。

 この家は自宅療養中の母の今後のがん治療と認知症の父の問題がうまく進むようになってこそ自分の生活、人生が動き出す。母の闘病ととりあえずの生還、そして3.11の大震災は自分にとっても大きな転機となった。家族とは何か見つめ考えなおすきっかけとなった。

 自分は決してたった一人で生きてはいけないし、いやでも早晩「お一人様の老後」が待っている。だから今は今ある家族を大事に大切にしていかねばならないし、そうすべきだと理解はしているが家族、それも老人と暮らしていくことは大変だなことだとはっきりわかってきた。時にはまた切れてうんざりもしてしまう自分である。これまでは親たちはさほど手のかからない老人だったので自分もまた音楽にしろ旅にせよ自分のことが好き勝手にできていたのだった。

 何でもない当たり前のありふれた幸福ということがこのところあちこちで取りざたされている。大震災は人々にそのこと、「ささやかな幸福、家庭の幸せ」を思い知らしめてくれた。自分もまた母が還ってきてそのことを思い返し噛み締めている。
 その幸せを手放したくないし、手のかかる病人二人であろうと介護保険を活用して息子である自分は何とかうまくやっていきたいと願う。
 
 ブックカフェ開店は正直いつになるかお約束できない。まず親たちのこと、彼らの人生がスムーズに動きだしてからだ。しかし、だからといって、彼らの介護だけに追われていたら自分の人生も終わってしまう。ましてなかなか出かけられないならウチに人が来てくれたほうが良い。

 先のことは見えないけれど、この家で自分も自分の人生を動かしていきたい。気がつけば今月も終わる。年が明けてから本当に慌しい三ヶ月だった。まだこれから一波乱も二波乱もあるだろうし、さらなる試練も苦労もあると覚悟するが、自分の夢を諦めずに少しでも実現するよう並行して進めていきたいと考えている。両立は難しいだろうけれども。

 来月からは月間計画をまた再開して公表していこうと思う。今あることの幸せを大切にしながらやっていきたい。

大地震から二週間過ぎて思う2011年03月27日 23時54分11秒

★死の影に脅えることなく死を想うこと。

 大震災から二週間が過ぎ、ようやく当初の混乱から事態は収束、収拾に向かうところに差し掛かってきたように思える。もちろん被災地においてはとてもまだ何一つ先のことは見えず混乱のまま困惑し疲労が増すばかりだという方々がいまだ多々おられるかと想像するが。

 東京多摩地区では、もはや地震数日後から起こった早朝からスーパーやドラッグストアに並んでの米やインスタントラーメンなど保存食料品やトイレットペーパーなどの生活・防災用品を買い溜めするパニック状況は終息した。
 電車などもほぼ通常通り乱れずに走っているし、大地震があったことを示しているのは、駅や店舗などが節電のため薄暗いことと福島原発事故による放射能数値の変動だけであろう。じっさいのところ今も解決のメドすら立たない原発事故と計画停電騒ぎがなければ、被災地に親族友人がいないで大地震の被害が直接なかった者にとってはこの国を襲った未曾有の大震災でさえもニュージーランドで日本人が不運にも亡くなられた局地地震と感覚的にはさほど違うところはないかもしれない。

 今は悲惨かつ深刻な現地からの報道に胸を痛めるが、当事者でないかぎり、しだいに人はどれほどの大惨事でさえ離れたところのこと、過去のこととして他人事として気持ちも記憶も風化していってしまう。これはそうあってはならないという思いで書いている。

 情けないことだが自分も含めて人は生の価値、有難さを死の位置からしか測れない。死が迫り、じっさいに対峙し、迫ってきたり追いつかれたときになってやっと「生きていること」を真剣に考える。
 地震とは異なるが、自分もまた母が病魔に襲われ、一時はかなり重篤状態になって死を意識したときになってようやく生の意義をはっきり認識した。その価値、生きていることの有難さが失う頃になってわかったのだ。
 健康なとき、平穏な日常においては死は常に遠く、考えもしないし存在すら忘れている。ということは生、生きていることすらきちんと自ら向き合っていなかった。ただ日々何だか慌しく忙しいことを口実に時間だけが過ぎてゆき何一つきちんとできず無駄に生を浪費してきていた。

 だが、療養中の母の一件と3.11の大震災を体験してからは、「死」は今や身近な存在となった。机の上の文具のように、手の届くところに今はあるから、常にそれを使って生を測ることもできる。メメント・モリ、死を想えという言葉があるが、死を怖れることなく、死を意識することでより良くしっかり生きていかねばと思っている。

 そう生と死は不可避一体のものであった。自分は愚かにもその一面だけしか見ていなかった。光と影があるならば、陽の当るところだけでなく陰の部分に目をやらねば良い絵が描けない。人生もまた自分が描く絵とするならば、死を見据えて死を想いしっかり生きていく、いやしっかり死んでいかねばならないのである。それこそが生きていくことだった。

人生のリセットボタンを押した。2011年03月28日 22時51分01秒

★もう一度自分もまた再生開始としたい。

 3月も終わるというのに寒い日がまだ続く。被災地では瓦礫と化した家々の残骸の上に何度雪が降り積もったのか。
 生きるも地獄という言葉があるが、家族全員、まして子供たちを失った親の気持ちはいかほどの悲嘆悲哀かと想像に余りある。それでも生き残った者はこれからも生きていかねばならない。この世に哀しみ苦しむ者がいる限り自らの幸福はありえないならば、自分もまた被害に遭われた方々のために何かすべきこと、できることがあるはずたと真摯に考えている。できれば現地に行きたいと思う。

 さて、母が退院して一週間と明日でなる。量が食べられないことも食べるとすぐにトイレに駆け込むのも相変わらずではあるが、まあ大事に至らず再び病院に戻ることはなく、何とか事もなく日々過ぎていっている。ならばそれだけでも良いことなのかと考えるしかない。
 来月から抗がん治療も始まるわけだが、ともかくこの家で療養しつつ生活しつつ癌と闘っていくしかない。一週間が過ぎて、ようやくそうした母を交えての生活のスタイルが模索しつつ見えてきた気がしている。

 これまでは拙ブログもそうであったが、病気の母のことばかりが全ての中心で、まずは看病と父の世話などの我が家のことだけに追われ忙しく身動きとれず自分のことは何一つできなかった。
 かろうじて家でできる古本稼業だけほそぼそと続け、注文あれば発送し本の処分を兼ねた在庫整理は続けていた。しかし他のこと、音楽活動も人と会うために出かけることも手控えるしかなく、友人知人の動向もわからないし、稀にライブなどのお誘い連絡があってもなかなか返答すらできなかった。

 だが、昨日ようやく若き友人の招きで、夕方から代官山に出向き、先の浅草木馬亭を手伝ってくれた知人が出る演劇を観て、その後串カツ屋で軽く呑みあれこれ互いの近況を語り合った。友人知人と外で会い酒を酌み交わしたのは、1月末の西荻のみ亭での中川五郎さんとのライブ以来である。

 母の容態のほうが手術、そして退院と一段落したということもあるが、ようやくこれでひとまず一つ段階を終えたという気がした。おかしな表現だが、リセットボタンのスイッチを押しなおした思いでいる。もちろん今後のことはどう進むかわからない。母がまた悪化し入院となる可能性も高いし、そうなればまた振り出しに戻り身動きとれない日々が再開する。

 いや、今だって身動きがなかなかとれないのは同じであるが、気持ちは格段に違う。やせ衰え弱弱しくフラフラでも今現在は治療中ではなく、家で共に暮らせて日常生活が送れている。だから体調さえ良ければ、食事の用意だけしておけば自分もまた外へと少しは家を空けられる。

 母がどこまで元気になるかいつまで生きていけるかわからない。しかし、こんな調子でも何とか食べられて多少でも動けるようならば、母のことにかかりっきりにならずとも自分は自分のことがまたできるような気がしてきた。

 このところの拙ブログ、ともかく母のことしか書けなかったが、これからは何か起こらない限りそちらは控えて、前のように本の事や音楽のことなど自分ごとを書いていこうと思う。もちろん、ブックカフェ開始に向けての動きも。
 今まではまず母の容態優先で、毎日その日のことで精一杯でまったく予定も計画も立たなかった。これからは先の計画立てで目標を決め連絡告知もして動いていこうと考えた。今年も早や三ヶ月が過ぎてしまったが今ようやくここで仕切りなおしである。

 ブログの読者方に対しても友人知人に対しても迷惑をかけてきたことを改めてお詫びする。何かを始めるのに遅すぎることはないとするならば、すべてはまたここからなのだと思いたい。

「計画停電」についてもう一度考える。2011年03月29日 23時54分57秒

★電気はいったい誰のものなのか。

 大地震から半月が過ぎた。未だスーパーには商品が並んでいない空いた棚も目立つし、営業していないガソリンスタンドもなくはないが、東京多摩地区ではその余波とも呼ぶべき大きな問題、心配事はもはや電気のこと、つまり「計画停電」だけとなったかに思える。むろん、福島原発事故の行方は常に続く不安ではあるが、さしあたって我々が何かできることは残念だが特に何もできない。

 実はウチの町、増坊の済んでいる区域では、地震以来一度たりとも停電していない。むろん何度となく、テレビなどでも報じられ停電予定であると広域放送もされ、その時間帯はパソコンなどのスイッチを切って常に停電に備えていたのだが、中止となったと知らされたこともあるし、その予定のはずなのに停電にならず、後から終了しましたと放送されたこともある。ともかく何故か一度も停電はない。単に運が良いのだろうか。隣の立川市では母の入院中、午前に一度数時間の停電はあったと聞くが。

 その後、どうやらこれまで停電がなかった区域は今後も停電はないと市のホームページなどには書いてあったが、それがどこまで信じて良いものか確証も持てない上に、東電はまた区域を細かく変えたようで、本当にウチは絶対停電することないのかいまだ判断できないでいる。

 先にも書いたが、その東電の「計画停電」という脅しは十分効果を上げたようで、その予定時間帯は休業する店舗も多かったし、自分も停電が怖くてパソコンなど主な電気製品は使うことができなかった。国民に節電を促す効果は確かにあったと思うし、電力供給が逼迫していることは事実なのだからその「計画」自体には異論はない。

 しかし、問題は東電は被災した方々も含め多くの人々を停電騒動で長期間振り回し困惑心配させていることで、そもそも発端が自然災害だとしても今に至るまで続く混乱の原因はすべて東電側にある。ようやく最近になり東電の「計画」が見えてきたが、どうやら都内23区内は国家や企業の中枢を担う機関が多いとの理由から停電は今後も行わないようだし、その観点からの発想でこれまでも被災地にさえ停電があったように、停電があるのは要するに地方、つまり停電がじっさいに行われても大きな問題が起きないであろうと東電が考える地域だということだ。そこにも大都市と地方の格差の論理が働いている。

 言うまでもなくこれは不公平であるしもしこれが国難、国民誰もがが公平に担わなくてはならない天災だとするならば、等しく区域を区切って真に「計画的に」停電地域を順番に回していくべきだと考える。それならば停電から起きる不便さや混乱も我慢し納得できなくないだろうし、じっさいに企業も個人も停電に備えて前もって計画立てて対処行動ができる。

 いくら当日の天候や電力使用状況を見ないとわからないといっても、あらかじめともかく大まかに県及び県内地方単位でも停電予定区域を発表してスケジュール表を周知させていくことはできるはずなのだ。その中で、その日停電があろうとなかろうと中止になろうと人は備え予定しておくことができる。それをいくつも細かく、同じ市内でも何グループに分けて停電の有る無しを直前になって発表するとは頭が悪いとしか思えない。いやそれ以上に利用者のことなどまったく考えていない。

 結局東電という会社は、顧客サービスや利用客に多大な迷惑をかけているという意識はかけらもないのだと今回はっきり見えてきた。要するに電気には他に同業別会社がなく企業競争がない。ということは企業努力も一切そこにはないわけで、殿様商売ゆえに原発事故に関してもここまで国民に不安と迷惑をかけているのに真に反省しているようには全く見えないわけだ。
 
 考えてみると電気はガス、電信電話、郵便よりも国民が生きていくのに必須必要不可欠なものであって、生きていくために絶対必要な水道下水が市町村単位で行政が担っているのに対してどうして電気だけ公共国営ではない一企業に任されているのだろうか。原発事故もそうした企業体質が事態をさらに悪化させたと断言しても良いと考える。

 それと、これは以前も拙ブログで書いてきたことだが、原発安全神話と同じように、住宅の「オール電化」優良簡便神話は今回の停電騒動でこれで崩壊したのではないか。自分はかねてより東電がオススメする「オール電化」住宅に対し、もし大規模停電が起きたときいったいどうするのかと批判してきた。今回、停電がじっさいに起きて、マンションなどの場合水道さえ止まったと聞く。電気がないということは、今や生きていくためのライフラインがほとんどすべて断たれるということだ。せめてガスさえ来ていれば被災地はともかく単なる「計画停電」ならば煮炊きはできる。生きていくためのエネルギーをすべて供給が不安定な東電任せの電気だけに頼るのは絶対的に危険である。
 ウチでは、今回の増改築にあたり値は張るが薪ストーブを設置した。実はまだ今冬は使用には至っていないが、オール電化住宅より停電時には存分に活躍すると期待している。

災害時において生きていくことは結局、行政や企業など人任せにすることではなく日頃から自らがどう対処と対案を用意していくかということだと今回の大震災をきっかけに考えた。

おそらく最後の春一番2011年03月30日 22時09分52秒

★亡き阿部ちゃんの遺志に報いるためにも

 今月、2011年の3月も終わろうとしている。今月は歴史に残る大震災の起きた月として、長く記憶と歴史に刻まれることだろう。今もなお復旧のメドは立っていないし、原発事故も含めてこれだけの大災害は今後何年もの間この国全体に深い爪跡を残すと思われる。

 さて、そのことはさておき、自分としてはこのところ今年の春一番コンサートについて気持ちが揺れ動いている。もちろん行きたくても今年は行けるとははなから考えていない。しかし母がともかくも癌手術後、家に戻ってきてからはもしかしたらうまくすれば例年の如く大阪へ行けなくもないかもとかすかな可能性もわいてきた。

 正直な気持ちとして今年こそ今年だけは何としても行きたい。何故なら断定は出来ないし迂闊なことは言うべきではないが、春一番コンサートも今年今回で終わると思われるからだ。その理由はただ一つ、主催者の一人、自分も深く敬愛した阿部ちゃんこと阿部登が昨年暮れ亡くなったからだ。
 大阪の、5月の大型連休に毎年開催されるフォークシンガーたちの一大音楽イベント「春一番」というのは、1970年代初頭から主催者福岡風太という名物男と阿部登の二枚看板で何十年も続いてきた。
 この二人は表と裏、陰と陽の関係であり、風太が表看板だとすればそれを裏方として支えてきたのが阿部ちゃんであった。二人は40年来の親友であり、自転車の両輪、歯車としてまさに二人三脚で長年このコンサートを企画運営してきた。
 このコンサートは昔からの主だった出演者は高田渡をはじめ近年次々と櫛の歯が抜けるよう死により去っていったが、風太と阿部ちゃんの二枚看板が健在の限り続いていくと、当人たちも観客も信じていたしじっさい主なミュージシャンたちが還暦過ぎの高齢化を迎えても毎年大阪春の風物詩として春一は復活再開後も何十年も続いてきていた。

 しかしその名コンビ、二人のうちの一人片割れが死んでしまった。彼らを知るミュージシャンに聞いてもおそらく風太一人ではもうコンサートはやっていけないたろうと口にしていたし、今年の春一番だけは、既に昨年度が終わってから準備に動き始めていたから当然開催は決定していたから決定であるが、問題はその次、来年である。増坊もたぶん今年でついに最後だと予想している。ならばなおのこと行きたい。

 しかも今年こそは70年代の9回も含んで通算で40回目だそうで、ある意味終わらせるにも区切りが良い。個人的には福岡風太が生きている限り、これからも毎年回を重ねて開催してほしいと心から望むが、もはや阿部ちゃんがいない春一は春一としても別なもののようにも思える。今年2011年で最後としてついに終了してもそれは仕方ないし理解も納得も出来るかと思う。だからこそ気持ちとしては今年こそ何が何でも参加したいとは切なる気持ちだ。

 自分は10代のころ、大阪天王寺野音で催された70年代の春一は77年、78年と二回2年続いて東京から通った。しかしそのとき最後の79年は何故か行かなかった。そのことがずっと後悔の種でもあった。
 そしてもし今年の春一番が本当に最後の最後だとしたらば行かなかったことはきっと生涯痛恨の極みになると思える。しかし、今は母の容態も安定せずどうしても行くことがかなわない。
 まだ一ヶ月先の話であるが、今から苦悶し始めている。

4月こそ心機一転もう一度再スタートを2011年03月31日 22時05分38秒

★2011年3月のことは死ぬまで忘れない。

 今月も終わる。この2011年の3月のことは死ぬまで忘れないと思うし心に誓ったことばかりである。
 外の世界においては一つの文明が滅びるほどの危機が襲い、内なる世界では老病死に対し自らとことん向かい合う羽目に陥った。どちらもそれまで真剣に考えもせずずっとこのまま続くと信じていたものが脆くも簡単に崩れ去った。
 そのこれまで続いていた日常や価値観の崩壊は辛く耐え難いほどのものであったが、結果としてごく当たり前のありふれた幸福の価値と大切さがはっきりとようやく理解できた。今はその一点において自分にとっては良いことだったと思えるし、どんなものにも永遠も絶対もないのが道理だったのだからくもっていた目が開かされた気がしている。

 しかし正直疲れた。大地震以降、余震がなくてもずっと目眩感、船酔いのような感じは続いているし、母が退院してからは朝も早く、夕方も一時的仮眠もできないので、睡眠不足と疲れが溜まって歯が浮いたように痛い。自分で言うとギャグだが自分は働き者だと自負している。それは以前の自分比の話だが。

 しかし、何はともあれ一日一日ともかく皆元気で生きているだけで有り難いしこうして月日が過ぎ季節が移って行くのは救いである。自分事が何もできないという焦りや苛立ちもなくはないが、申し訳ないがまずは家の事、家庭内のことが最優先であって、仕事や公的活動よりも今は老いて病む親たちとの生活を第一にしたいと思っている。その上で、うまく少しづつでも自分のことを進めていかねばならないと考えている。
 もし母がこのまま体調を取り戻し、ガンもうまく克服できるならば最善幸いであるし、たとえそれが難しくとも少なくとも神に祈った、無事退院でき家に戻るという願いはしかとかなえられた。だから今大変でも疲れてもそれは良しなのである。

 原発事故の行方も含めて様々な思いが次々とわいてくるが、明日、4月からは、ともかく慌しかった今月も終わるので、気持ちを切り替えて自分のこともまたやっていくつもりだ。ブックカフェ「無頼庵」も夢物語に終わらせることなく、4月中にはオープンはともかくも何らかの開店に向けての動きがお知らせできるよう、また来たいという人を招けるよう、受け入れ態勢を整えていく。

 ギターもまた弾き始めたし、震災で落ち込んでいる商売の方も新規出品分を増加させ売り上げを取り戻さないとならない。生きていればそれもできる。自分が出来ることすべきことと真摯に向かい合いたい。すべての道は通じている。

 このブログの有り方についても考えるところがあるのだが、また動きあれば逐次報告していく予定だ。疲れて目が開かないのでもう寝ます。