あまりにも拙速な東電の「無計画停電」2011年03月14日 11時06分09秒

★電気がいつ切れるのかわからず身動きとれない。

 外は光のどけき春の日である。暖かいぽかぽか陽気だ。
 テレビや新聞で報道される今も続く三陸の阿鼻叫喚図とこちらの現実とがどうにも結びつかず、まずそのことが不安な気持ちになる。福島の原発もいったいどうなってしまうのか。

 ただ、朝方は青梅線など鉄道が動いていないためか、都心に向かう街道は、車の渋滞の列が続いていて、そこに自転車の人も多く、表通りは騒然としていた。

 それよりも実感として一番困るのは、「計画停電」なるものがいつ何時から行われるのか、それとも中止なのか、あるいはいつまでこうした事態が続くのかまったくわからないことだ。
 パソコンに向かい商いをするものとして、作業中に突然電気が止まりそれまでのデータが消えてしまうことを最も怖れる。パソコン自体もそれで不具合が起こることも多々あるし、これでは全く仕事にならない。
 今も恐る恐る一行づつ打ち込んではブログ運営ページに投稿して届いたか確認しつつ書いている。

 原発の停止などで電力が不足することは理解できるし、この大災害時にできるだけ電力を消費しないよう国民全体で自制しなくてはならないのもよくわかる。しかし、昨日の今日、突然「計画停電」なるものを打ち出し決行しいるというのはあまりに急な話であり、しかも情報が二転三転しこの地区は何時からいつまでなのかもちっともわからない。

 昨晩、そのことをテレビで知り、パソコンを繋ぎっぱなしにできないので停電となる時間を知りたく確認を急いだ。市の防災放送も何時からとか夜放送していたのだが、声が拡散、反響して停電はわかるが肝心の何時という部分がよく聞き取れない。

 仕方なく、東電のホームページを見ても、同じ市内町内でも時間帯が二種類表示されていて③のエリアなのか④のエリアなのかわからない。テレビで知った東電の問い合わせ電話もただ今大変込み合っているので後ほどおかけ下さい、と全然繋がらない。
 しかも朝になったら①の時間帯で停電する地域は中止になったとのことで、今もこちらも停電になっていない。では、それで今日は停電はしないならともかく、様子見て突然の停電もあり得るとも言っている。

 ふざけるな、利用者をバカにするなと叫びたい。これでは、まったく仕事にならない。いつ停電が起きるかドキドキしながらバックアップとりながらでは作業も進まないし、落ち着いて何もできない。
 冷蔵庫のことや交通など市民生活への不安もあるが、それよりも電気がいつまで止まるのかきちんとはっきり確定して知らせてもらわないと何一つ備えることも対応すらできやしないではないか。計画して停電するならその計画自体をきちんとたてろである。

 こんな無計画でその場しのぎに停電されたらどれほど国民に被害を与えるのか、東京電力はまず公共機関として深く自戒せよ。いいかげんにしろ、東電!

計画停電ならば計画通りに停電しろ2011年03月14日 21時25分51秒

★追記=あまりにもずさんな「計画停電」に呆れ果てた。

 被災地の惨状を思えば、こちらの苦労や不便など何一つ文句言えないのはよく理解している。そして原発があんな状態では電力は足りなくなるのも当然であろう。だから地域を分けて計画的に停電するというのも歓迎はしないが国民として当然受け入れられる。

 しかし、コトはならば、計画通りに停電をきちんと実施してほしい。当日になって様子見ながら停電するのかしないのか皆目わからずひたすら待ち戸惑い続けなくてはならないというのは災害時ということを通り越して東電側の身勝手だと断ずる。このままするかしないかその日の電力需要を見ながらというのでは電車も動かせないし、ただただ多くの人たちが東電に振り回されるだけであろう。これは大地震とはまたべつの次元で災害ではないのか。もっと大変な人たちがいるのだからというのはコトの本質を見失っている。これは東電による二次被害、新たな災害である。

 何しろ情報が錯綜し、まず自分が住む地域が5つに分けられたどの地域に入るのかすらよくわからない。同じ市内でも違うグループということもある。ホームページで確認したが最後までわからないままだった。
 結局今日は、朝になって一番最初に予定していた地域では実施中止となり、自分の町は停電するのかそもそもどのグループなのかよくわからないままに、昼過ぎになって交差点で交通整理している警官に尋ねたらこの辺はグループ③であり、停電が予定されているのだがまだ停電になっていないとのことでようやく状況が把握できた。結局夕方まで一日東電に振り回された。

 昨日の晩遅く突然計画停電の話が出て、その周知も徹底されないまま翌日朝から実施すると決定し、それが朝になって停電するのかしないのかはっきりせず、しないわけではなくするかもしれないとか発表も二転三転し、商業施設の多くは停電を見越して臨時休業したり、その時間帯は閉店を余儀なくされた。電車もほとんど動かなかった。むろんだからこそ本格的に大規模停電をしないで済んだという論も理解できる。
 だが、明日も今日と同じく停電を予定しているが様子見でするかしないかわからないというのでは本当に住民を愚弄しているとしか思えない。企業も困る。東電はまったく反省していない。

 電力不足で停電が避けられないならきちんとこの地域では何時から何時まで停電すると住民全員に周知させて、その時間内だけきちんと停電してほしい。それならばその間だけ何らかの対応策もとれなくはないし準備も心構えもできる。電車だってその時間内だけ運休させるとかできるのではないのか。

 またこのような状態がいつまで続くのか、まだ先が見えなくても電力会社には利用者に不便を強いているのだから確定でなくて良いので、目安を伝えてほしいと思う。原発があんな状態でもはや機能しないのだから、あと何ヶ月もそれ以上も電力は不足することがはっきりしているのならば国を挙げて電力消費を抑制するライフスタイルをとらなくてはならない。各家庭が節電に励むだけではなく、24時間営業しているような店や夜通し付いている広告電飾などは消してかつての石油危機のときのような質素簡素な暮らしに戻るしかない。

 東電はこのままいたずらに人心を惑わし不安にさせるのではなく、原発の今後も含めてきちんと情報公開し、東日本の国民はどう生きていくべきか電力の用い方を提案し説明する義務がある。
 天変地異と人ができること、すべきことを同一に論じてはならない。

世界はこのまま破滅へと向かうのか2011年03月15日 20時44分32秒

★大震災後丸4日目さらに事態は混迷混乱していく

 東電の無責任「無計画」停電のおかげでブログも落ち着いて書けないが、そんなことより不安なのは福島の原発事故であり、いったい何が起きているのか、これからどう事態は進むのか、東電や保安院なる人たちの会見を聞いてもちっとも要領を得ずますますさらに不安が高まるばかりだ。
 要するに今どうなっているのかよくわからない。これからどうなるのか全くわからない。冷やすための懸命の努力はしていると繰り返すばかりで、もちろんそこに原子力の専門家や専門技師、学者的な人々も関わっているのだろうけれど、その人たちの顔は全く見えず、この東電職員とこの無策無能の菅政府がしどろもどろ会見を繰り返す度に国民の不安と不信、怒りはいやおうにも増していく。事態は次々とさらに悪化していくばかりでないか。

 今の時代、マンガ映画ではないのだからスーパーヒーロー的に一気に事態解決が図れる英雄はいないのもわかるが、せめて真に信頼おける原子力専門家に窓口を一本化してその人から現況とこれからについて見通しも含め説明させたほうが国民は安心できるのではないか。少なくても無計画停電騒動で被災後の事態をいたずらに混乱させている東電側の説明より信頼性は高まると思える。
 また原子力に詳しい大学のセンセイや専門家がその会見を補足説明するが、彼らは基本的に原発推進派であるはずだし、彼らが人体にはまったく影響はないと保証したって人の心はおいそれと納得できやしない。

 思うにもはやこんな事態になったらば、一国の一企業に漫然と事態解決を任せるのではなく、他の原発先進国にも諮って、共同で相談し対策を練り地球規模、国連規模で事態の収拾に向かわない限り方策はないように思える。米国から専門家たちが入国したとも報じられていたが、フランスやドイツなどヨーロッパの原発先進国、それにロシアとも図ってこのまま地球規模の大事故に発展する前に阻止するしかないと考えるのは素人の考えか。

 こんな地震多発国に無謀にも原発を多数建造することを許してきたことを今にして悔やむ。自分はずっと反対の気持ちはあった。だのに、もう一つ勇気がなかったことと考えが甘かったのだ。原発は地方の話であり、他人事でもあった。なのにその電気を湯水のように使ってきた。こんな狭い小さな国なのに迂闊さと愚かさに恥じ入るばかりである。悪魔の炎を人間が制御できると考えたことじたい人間の奢りであった。

個人のレベルで大震災を書き記して記録していこう2011年03月15日 22時25分25秒

★震災後日毎さらに混乱と混迷の度が深まるとは

 有史以来、地震に限らず天変地異は常に起こり、人々を襲い苦しめるものだが、あの阪神大震災でも数日後には復旧し、被災地でも徐々に元の生活、日常が戻ってきたと記憶する。
 しかし、今回の東北関東大地震、先にも書いたが、直接大した地震被害がなかった自分の住む東京都下、多摩地区でも震災後になって被害が出

 と、ここまで書いたら突然今またかなり大きい地震があり、パソコンが乗っかっている机の棚を押さえたりして様子をみていた。テレビつけたら静岡内陸を震源とするとかで、これもまた余震?なのだろうか。こちらは富士山に近いのでたぶん都内より激しく揺れた。大地震後の関連地震では一番でかい。

 思うのだが、あの日、3月11日は正直なところウチの方は大したことは何もなかった。だから何一つそれまでと変わらないとそのときは思っていた。しかし、日を追うごとに事態の大きさ、深刻さが報じられ、それはじわじわとこちらの市民生活にも大きく影響しだした。一昨日よりも昨日、昨日より今日の方が大変な様相を呈している。それだけ地震が巨大だったということだが、ともかく今も騒然としている。
 2001年の9.11がアメリカ人の意識を根底から変えてしまったとしたら、2011年の3.11は、東日本に住む日本国民の意識をことごとく大きく変えてしまった。もう平穏な日は戻らない。

 こうした震災の都度、被災した人、避難している人、死亡者行方不明者、倒壊した家屋などが数字であらわされる。その数字は事実として災害の全容を示すデータではあるが、人の数だけ人生があるとしたら、そんな十把ひとからげに数に集約された人たちこそ哀れであろう。
 また、じっさいに震災被害に遭わない者でも、自分のように多かれ少なかれ何らかの影響はいやでも受けている。だとしたら、人の数だけ人生があり、その数だけそれぞれの思いがあるならば、数にまとめるのではなく、個々にそれぞれを書き記し残していかねばならない。
それは、帰宅難民となって帰宅できなかった話でもかまわないし、今スーパーにトイレットペーパーから生鮮食料品まで何一つなくなっていることの報告でもよい。そして福島原発に対する不安感、あるいは東電の無責任な計画停電への怒りでもかまわない。
 コトにおいて庶民とか市民、一般国民と呼んでもかまわないが、そういう普通の人たちがそのとき何を考え、どう行動したのかを書き記していく。さすれば、それは後々後世の人にとってまた同様の事態においても参考になるはずだし、それこそが真の歴史だと思う。

 今の時代、人は携帯やパソコンさえあればどこにいてもどこへでも自らの考えや思い、情報を発信できる。それはブログでも良いし、自らのホームページ、何かの掲示板でもかまわない。また拙ブログに書き込んでくれても全くかまわない。

 この未曾有の大震災に遭遇し、同時代を共に生きている人たちが何を思いどうしたのか、自らも知りたいしまず自ら書き残していきたいと願う。場合によっては東日本、東京辺りまでの人たち全住民がこのまま被爆して早晩死んでしまう可能性すらある。ならばどう生き、どう死んでいったか、残された人々、人類のためにもこの教訓を活かしてもらいたい。

大震災後の東京多摩地域2011年03月16日 00時01分43秒

★まず今週月、火の二日間のことから。

 ウチでは実際の話、今回の地震で損失を伴うような被害は何もなかった。が、古本稼業、つまり通販による商売は上がったりで、11日以降、注文はバッタリ途絶え、ようやく今日15日午後になって大阪の人から一冊だけ受注あった。
 しかしたとえ、東北、北海道方面から注文があったとしても現在まだ郵便局など配送機関はその方面へはメール便などは引き受け停止のままなので、今も一冊北海道の人へ自店舗売りの方で発送しなければならない本があるのに送れないままでいる。

 まあ、この非常時だから人心も本どころではないだろうし、今は全国的に慌しいから当分の間古本商売は難しいと覚悟はした。おまけにそこに「計画停電」もあるので新たに本の出品もままならない。ウチはともかくこのままだと多くの企業が倒産してしまうのではないかと案ずる。

 さて、15日火曜日の増坊の日常。

 東電の「無計画停電」がこの地域、今日は早朝から予定されているのは前の晩テレビで確認はしていた。一応パソコンとか停電で影響受けそうな機器は電源を切っておいたが、朝6時過ぎ、市役所の広域放送で、本日計画停電が6時20分より実行されると聞こえ、まずそれで起こされて一応テレビをつけた。
 そのまま停電となるかとドキドキしつつその時間を待っていたが、結局その時刻が過ぎても電気は切れず、テレビの中のテロップで、停電予定の地域は栃木県のどこどことか表示されたので、きっとここいらはまた中止かと安堵して寝直した。そしたら寝坊した。結局うちの地域は今日も幸い停電はなかった。

 昨日は青梅線も私鉄もこの近くの電車がいっさい動いていなかったので朝から都心方面に延びる街道筋は車や自転車ですごい混雑し渋滞もしていたが、今朝は、とりあえず青梅線は拝島~立川間は本数少ないものの動いていたし、中央線も動いていたのでやや道は空いていた。しかし、今日も五日市線、ウチの前を通る八高線は終日止まっていたので、その方面に住む人はいったいどうやって通勤通学に出たのだろうか。昨日休校となっていた学校も始まった。

 母が入院して以来、毎日家から10キロ先の立川にある総合病院へ日に一度は見舞いに行っている。昨日は道が混雑していたので自転車で、今日は父を乗せて車で行ったのだが、やはりガソリン入れる車の列で渋滞しているところもあり、昼前裏通りをぬって時間かけてたどり着いた。
 聞いたら立川では午前中に早くも数時間計画停電があったとのこと。病院も節電でこのところ薄暗い。お知らせが遅くなったが、母はおかげさまで点滴もとれて、チューブは一切なくなり今ははれて自由の身となった。ただ、問題はまだ食がほそく、食べられても出された半分程度で、無理すると胃が痛くなるとのこと。味覚もまだ戻っていないようだ。それでもじょじょに食べられるようになれば体重も戻るだろうし、退院も可能かと期待している。もっとも今は停電と原発騒動、おまけに食料品も売っていないので、退院するより病院内にいたほうがこちらは楽であるし安心もできる。

 昨日も気がついたが、今スーパーなどでは生鮮食料品を中心にしてモノが不足して棚もガラガラだ。中でもパンや牛乳などはもはや全く手に入らない。カップ麺やインスタントラーメンも売切れだし、トイレットペーパーを買いあさる人も多いようだ。また近くの生鮮食料品を扱うスーパーは昨日から閉店したまま。スタンドもガソリンが品切れでやっていないところも多い。

 買占めはしないで、とレンホウだかテレビで言っているのを見たが、流通が動いていないので生物、日配品が入らず、おまけに首都圏の野菜や魚の産地、供給地が大地震の影響で壊滅的状態なのだから、原発事故の先行きもわからず不安に駆られてともかく食べ物を買いあさる。それは人の本能であり、今日入ったスーパーでは米まで棚から消えていた。

 計画停電もいつまで続くのか何の発表もないので人心の不安は高まる一方だからつい買い溜めに走る。まして放射性物質が拡散して屋内待機となることを思えば食料をまず確保しなければならない。

 大地震後まるまる4日が過ぎたのに、事態の深刻さは増すばかりだ。いったいいつまでこの不便と不安感は続くのだろうか。地震は天災であるが、今の混乱はたぶんに人災である。

やや「日常」が戻ってきたが2011年03月16日 13時34分39秒

★強い北西の風が吹いている。

 計画停電の予定区域に入っているので、今日も午前中はパソコン繋ぐことができなかった。
 風はあるが穏やかな陽射しの暖かい春の日である。どうやらJRの電車、青梅線以外にも八高線も五日市線も動き出したようで、昨日までよりは町は落ち着いている。
 が、近くのドラッグストアや魚や肉、野菜を扱うスーパーでは開店前から長蛇の列で、警備員が出て入場制限している。入ってくる品数が少なく、スーパーは昨日まで休み、ドラッグストアも夕方早々と閉めてしまっていた。ガソリンもかなり待たないと買えないようだ。

 今日になって市のほうから印刷物で、この町のグループ分け地図が届き、ようやく自分の住むところがどのグループなのか確認できた。狭い市なのに、あきれたことに3グループにも分けられ、おまけに何故か計画外で停電から外されている地域もあることがわかった。
 通りで、停電時間のお知らせに同じ市の名前が常に登場するか、情報が錯綜する理由も理解できた。しかし、今日午前から計画に入っていたはずなのに、またもこの辺は停電がなかった。
 市の放送だと夕方6時頃から10時頃までの約3時間予定されているとのことだが、それもどうなるのかまだわからない。ともかくその合間を縫ってパソコンに向かっている。もう東電にはほとほと呆れ果てた。

 午後から強い北星の風が出、今野外では音を立てて吹きまくっている。また福島からの放射性物質が風に乗って来ているかと思われる。認知症の父はまだ事態がよく認識できず、スーパーに並ぶ人の行列を見て、戦争でも始まるのか!とぶつぶつ文句仕切りである。

 これから自転車で立川の病院に向かう。街道は渋滞していないと思うが、今はできるだけガソリンを使いたくない。

 夜計画停電がまた無計画になって停電していなかったら続きを書きたい。

「計画停電」の夜に思う2011年03月16日 20時31分58秒

★脅しとしての節電効果に舌をまく。

 筆者増坊の住む町では今、「計画停電中」のはずである。が、停電するグループ③に入っているのに停電してなく、今もこうして不安な気持ちを抱えながらパソコンに向かって投稿している。

 増坊の住む町の地区は、グループ③だとようやく確認できた。東電側からは個々に停電に関して何一つ連絡も説明もないが、市のホームページで本日の停電予定を確認したら朝はともかく夕方6時20分から10時過ぎまで停電実施の予定だと載っていた。
 計画停電なるものが始まって3日たち、ようやくそのシステムというものもわかってきた。電力確保のために停電するといっても要するに実施するグループに属する町や地区全部が一斉に予定通り停電するのではなく、停電自体の中止もありえるし、今までのところ実施されたとしてもその予定グループの中の一部の地域だということなのだ。

 ではどこがどのくらい停電するのかというと当日になって電気需要を見てその場そのときで東電が地区を決めて判断する。発表は常に遅い。その裁量はすべて東電の腹一つである。どうやら大都市部の住民が多いところなど停電すると大変なことが起こりそうな地域は意識的に避けて比較的人の少ない地方を中心に停電させているような気もしてきた。
 停電させる地区の基準も説明されていないし、今までのところ幸いにしてまだ増坊の住む地区は停電は一度もない。しかし停電はなくても住民たちは振り回され結果として節電に十分協力させられている。

 というのは、今晩6時20分から停電の予定とあらかじめ伝えられてしまえば、たいがいの店舗はそのときに備えて6時頃までで営業を短縮させ早めに閉店させてしまう。それは郵便局も同じで、停電にはなっていなかったのに、ほぼその時刻に冊子扱いで本の発送を持ち込んだら停電に備えもう電気を切ってしまったからレジなど印紙が出ないからと受付を断られた。こらちとしては発送予定もあるし、また明日出直すのは面倒だったので粘って交渉して、レシートが出なくて良いから切手を買ったことにしてそれを貼ってともかく受け取ってもらい発送したことにした。

 実は今晩の計画停電、このグループは確かに計画停電の予定に入っていて、何度も市も放送や市のHPでもそれを告知していたのだが、夕方6時前、テレビをつけたら、計画停電情報として、停電する地区の市町村名がテロップで表示されていて、ここもその地区であったはずが、東京では都区内のどこそか二箇所だけとあって、それは我が町ではなかった。
 だからやや安心して、立川の病院から自転車で戻り、追加注文あった分も含めて二冊、厚い辞書と専門書を梱包して郵便局とヤマト運輸に停電の開始時間に持って行ったのだ。でも停電開始時刻の直前には、またも市はこれから停電の予定だと広域放送していた。例によって情報が錯綜しまったく徹底されていない。するのかしないのか市にも伝わっていない。
 
 郵便局は停電していないのに停電に備えて、早めに窓口は全部閉めてしまっていて、時間外非常窓口に持ち込んだら、今は停電予定なのでと断られた次第。ヤマトも計画停電なので受け付けないと貼紙はしてあったが、開いていて、受け付けてはくれたものの今日の便は既に早く終わってしまっているので明日の便になると言われた。まあそれでも出した。

 家に戻って、犬たちの散歩のため町を歩いたが、町はどこも暗い。停電はしていないのに、ファミレスもドラッグストアも牛丼屋も近所のほとんどの店が停電を見越して早めに店を閉めてしまったからだ。

 そして気がついた。確かに、たとえ停電はしなくてもレジなどに電気を使う大手のチェーン店などはもし突然停電したらと、その可能性があるだけでたとえ停電はしなくても予定が出ただけで営業することは難しい。これが個人のラーメン屋などなら現金商売だからたとえ停電しようとそのときすぐ店を閉めれば良いだけの話で、停電があるまでずっと店を開けられる。なるほど、「計画停電」とは東電側としてはじっさいに停電させなくても十分メリットがある妙案なのだと感心した。

 しかしそこには店側のメリットは何一つない。ただ振り回されて迷惑なだけだ。これが続けば商売は成り立たない。停電予報のたびその時間内いつも店閉めていたらやっていけない。あくまでも節電のためには効果はあるが、これが続けば経済はさらに疲弊していく。

 今は非常時で被災地のためだから我慢せねば論がマスメディア中心に横行しているが、こうした脅しで節電させる場当り的無計画停電ではなく、効率的に節電はしつつもう少しマシなうまい節電案、誰もが元気なくし疲弊する悪平等ではない経済効果あるうまい方策があるようにも思える。どうだろうか。

 結局今晩の「計画停電」、ブログ書いていたら先ほど9時前に、市の放送で、本日の第③グループの計画停電は終了しました、と放送があった。同じ市の他の地区がじっさいに停電したのかわからない。ともかくウチの辺りは停電はなかったが十分に節電した。今日もまた一日東電に振り回されたとの思い。車を使わず立川の母が入院している病院まで往復約20キロ自転車で走ったこともあるが、ああ疲れた。

都心に出て無事帰れるか焦りながら考えた2011年03月17日 22時15分50秒

★大震災後初めて都心に出て考えたこと

 大地震後、毎日何だかんだ慌しくて気が休まる日がない。あまりに余震が多すぎて常に地面が揺れているような気がする。それは地震の被害が直接あろうがなかろうが、3.11を体験した東日本に住む者は誰もが同じかと思う。負けてはならないと思うがさすがに気持ちも疲れてきている。

 今日17日は、地震後初めて電車に乗り都心へ出た。そして今も続く混乱の中でも日々通勤通学せねばならない方々の辛苦が少しだけわかったような気がした。そのことで考えたことを書く。

 自分は居職で、基本的に家でパソコンに向かって仕事をしているのでもう何十年も定期券もスイカも持ったことないし、そもそも電車には都心に出るとき以外に乗ることはほとんどない。
 今日は大地震後初めて電車に乗り、午前まず立川で降りて母の病院に行き見舞ってからその後飯田橋まで足を伸ばした。考えてみると、このところ母が入院してからはライブとかも一切お休みしているから一月ぶり以上の電車移動かもしれない。

 電車は震災後ようやくほぼ元通り動き出しているのだが、やはり本数も少なく時刻表通りには行かずあちこちでかなり待たされた。それでも中央線は特快も走っていたし、青梅線の一部、青梅より先奥多摩までの区間とか、五日市線が今日は不通なぐらいで、自分は問題なく都心まで出られた。行きは特に混んでもなかった。ただ節電のためエレベーターはどこも停止されているので階段をいやでも使わねばならない。

 飯田橋に出たのは、映画館ギンレイホールで、明日まで「ノーウェアボーイ」他をやっていて、J・レノンを愛する者としては何はさておきともかく観たいと願っていたから、ギンレイの会員でもあったのでこの混乱収まらない最中だが無理して出かけたのである。こんな時世だからか館内もいつもよりかなり空いていた。映画の感想はまた後ほど書けたら書く。

 午後2時から始まった映画2本を見終えて外に出たら、夕方6時を回っていた。映画館の出口で、これから観に来た客にギンレイの窓口の人が、今晩はこれから大規模な停電があるかもしれない、途中で停電して観れなくなるかもしれない、またお近くの方ならともかく、電車も止まって帰れなくなるかもしれないと、説明していた。
 それを聞いて、おや、この地区はこれから計画停電なのかと思い、ならば停電になると大変だと慌てて走って飯田橋駅に向かった。

 幸い下りの電車もさほど待たずして来て、四谷で乗り換えたらちょうど河口湖行き通勤快速で、いつもなら夕刻のこの時間かなり混んでいるのに車内はわりと空いていてラッキーと思ったら、車内テレビのニュースでは、海江田大臣が夕方に特別会見したらしく、本日は夕方から夜にかけて大幅な電力不足が予想され大規模な停電が起こる可能性があると報じられていた。
 さっきギンレイで話していたことはこれかと気がつき、まったく知らなかったので驚かされた。もし停電になったら自分もまた帰宅難民になってしまう。そんな不安が高まった。いつ停電するかもしれないとドキドキしながら特快が走るのを駅ごと確認しては安堵しつつただ帰れることを願った。車窓から見える街並みは停電はしていないが明りが少なくどこも薄暗い。

 結局途中で停電にもあわず無事立川まで来れて、青梅線も動いていたのでさほど遅くもならずに家に無事帰れた。途中三鷹あたりから青梅線内もかなりの混雑であったが。
 その車内で考えたことは、今日は何も持たず何も予想せず家を出たわけだが、もうこれからはおいそれと気軽には電車には乗れないということだった。大地震後、計画停電も続いているし、起きるかわからないが、突然の大規模停電も本当にあるかもしれない。そうなれば、都心に出ていたら、間違いなく電車は動かず自分は家に帰れなくなる。

 たとえ途中の駅で降りられたとしても真っ暗な街を歩いて帰るにはまず懐中電灯が必要だし、飲み水やパン類など携帯食料も必要だ。まして自分のような持病がある者は薬も持参しておかねばならない。その他、小型の地図とかタオルなどもあったほうが安心だ。
 自分は腰さえ悪くなければ歩くのは全く苦にならないほうだから、これまではもし終電がなくなっても、帰ろうと思えばたとえ新宿からでも一晩かける覚悟で歩いて家に帰れる自信があった。たかが40キロぐらいならマラソンの距離である。

 しかし、今日、電車の中で、停電に脅かされその恐怖に怯えたとき、それは明りがあり店がどこもやっているときの話であり、真っ暗な中ではどうにも身動き取れないと気がついた。ならば今後電車に乗り都心に出るときは常にそうした装備を持ち、もしものときの覚悟をしないとならない。勤め人や学生さんたちは今もこれからもこうした危険に常に見舞われているわけで、計画停電も含めた電力不足が続く限り、気苦労は絶えないと気がついた。

 先の大地震当日、その晩、電車など交通機関が止まり帰れなくなって帰宅難民となられた人々が帰路を急ぎ歩く行列は放送では見た。しかし、その大変さは正直実感はなかった。失礼だが、テレビで見てもあくまでも他人事であり、大変だなあ、と口から出てもその苦労は本当は何一つわかっていなかったのである。ある意味、高みの見物であった。

 情けない話、人は自らじっさいに体験しないかぎり、真にリアルにモノゴトを感じて真剣に考えることはできないものだと思い至った。それは自分だけではないだろう。人のことはあくまでも他人事であり自分のことにならないものだ。
 テレビで何度となく繰り返し映し出される悲惨な映像もしだいに慣れてしまえば意識としても風化していく。当初の衝撃も慣れてしまう。ならば体験しない者に必要なものは想像力か、同情する心か。当たり前であっては絶対にあってはならないことを当たり前にしないという誓いかもしれない。テレビは常に高みの見物である。こんな自分でも今日電車に乗って自戒した。

大変な国難、天災ではあるが「天罰」ではない2011年03月18日 22時47分31秒

★天罰を受けるべきは慎太郎であろう。

 大震災から今日18日でちょうど一週間。ようやく被災地にも鉄道が動き出し陸路も再開されてきたようで、復旧が今日にして本格化し始めた。今までは支援物資も途中で滞ってほとんど届いていなかったようだ。それだけ旧来の常識や想定を超えたあまりに巨大な大地震と大津波だったということだが、「大地震」が起きたそのことに対しこちらも対応に日々慌しくて書こうと思いつつ書けなかったことを書きたい。それは石原慎太郎都知事の大震災は「天罰」発言についてである。

 その前に、今日18日の東京多摩地区の現況報告。
 
 ウチの近くのガソリンスタンドでは、ガソリンがなくなって休業している店も多いが、やっていればどこもスタンドの周りは入れるのを待つ車の長蛇の列が出来て、警官さえ出てるところもある。幸い増坊の車はまだ半分程度は残っているし、今は立川の病院に親父も乗せて行くときだけしか使わないので、週明けまではまだもつし、来週にはこの不足状態も改善されるかと考えている。もう基本は一人の時は常に自転車移動である。

 スーパーなどは日に一度はかならずどこかへ入り確認しているのだが、現在どこの店でも棚に全くないものを並べると・・・

 ・パン、牛乳、豆腐、納豆などの生鮮食品
 ・カップ麺、インスタントラーメン、米(もち米以外)の保存食
・ティッシュ、トイレットペーパー類

 パン類などは原材料が地震後不足して製造できないとのことで理解もできるが、わからないのが、インスタントラーメンや米であり、ティッシュも含めて要するに今後の不測の事態に対する不安から備えるべく、買い置き、買い溜めして不足しているものと考えられる。それが庶民感情なのかと思うし、原発事故の今後の推移いかんでは、屋内退避を命じられるかもしれないわけで、避難のための移動にもガソリンは不可欠だから普段車に乗らない人もとりあえず満タンにしたいと焦っているのかもしれない。それ以前に、やっているガソリンスタンドも少ないが。

 計画停電の今後も含めて、いったいこの困った状態がいつまで続くのかまた追跡して報告したい。

 
 さて、石原都知事は、今度の都知事選にまたまた出る。4年前の再選時、もう今期で最後だと公言し、今度も当初は出馬しないと周囲に匂わせていた。拙ブログでは前回の当選後、絶対にこの男は懲りずにまた出馬すると断言しそう書き記したが、まさに予想は的中しやはり今回もまた出ると突然出馬会見しその最中に東北、関東大地震が起きた。

 そしてご存知かと思うが、この地震の直後、14日、慎太郎都知事は東日本大震災への国民の対応について記者団に問われ、「我欲で縛られた政治もポピュリズムでやっている。それを一気に押し流す。津波をうまく利用して、我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。積年にたまった日本人のあかをね。やっぱり天罰だと思う。被災者の方々はかわいそうですよ」と述べた、と報じられている。

 また、知事は一連の発言の前に、持論を展開して「日本人のアイデンティティーは我欲になっちゃった。アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等だ。日本はそんなもんない。我欲だよ。物欲、金銭欲」と語っていた。

 同日、この後に開いた記者会見で「天罰」の意味について「日本に対する天罰だ」と釈明。「大きな反省の一つのよすがになるんじゃないか。それしなかったら犠牲者たちは浮かばれない」と話した。※以上はMSN産経ニュースから引用。

 そして、この発言は報じられると大きな抗議と批判の声を当然巻き起こした。当初は抗議を受けても発言撤回しないと開き直っていたようだが、15日の記者会見で、謝罪し撤回したとのこと。

 発言を撤回したから、なかったことに当人はしたいだろうが、これは失言以前に彼の本心、慎太郎という男の本質をズバリ世に知らしめている。慎太郎とはここまで非情かつ高慢な、被災地の人たちを思いやる気持ちが欠落した人として最低の人間なのである。

 これまでも数々の放言、暴言を口にしては何度となく抗議の嵐を巻き起こし、しかもほとんど謝罪もせず、問題化するとその場その場で開き直ったり、あれは他人の発言だとか逃げまくっていた無責任このうえない小心かつ身勝手なこの男であるが、呆れ果てる以前に今回の大震災を「天罰」と言い放ったことだけは絶対に赦すことはできない。

 まだ震災の被害程度も全貌もわからず、混乱の最中被災地では何万人もの人々が逃げまどい救助を求め苦しんでいる一番大変な大事な時期に、よりによって、「やっぱり天罰だと思う」と口にできる人間はこの世にいない。被災地の人たちがそれを聞いていったいどう思うか。何故、無辜の民である彼らに天罰が下らねばならないのか。

 いや、個人として勝手にそう思うことはかまわないとしても、それを一国の首相に準ずる東京都の知事が公式の場で問われて口にすることは絶対に許されない。国政の政治家ならばそれだけで職を辞すことは間違いない。だのに何故か慎太郎というだけで、マスコミも都民の多くも不問に付し、ああまたかと思う程度で済ましてしまう。それがずっと不思議でならない。

 彼の発言は常に不快であり、抗議を巻き起こすが、特にこの「天罰」発言が問題であるのは、我欲で縛られた日本人に神?が天罰を下したとしたとして、彼慎太郎はその中に自らを入れていないということだ。上から目線という言葉が今流行であるが、彼は常にいつも自らを高みに置き、自分は天罰を受けない側だと信じている。自分だけは常に正しく、我欲などないと勝手にも思い込んでいる。それがこの発言から誰だって読み取れる。

 もし、もし仮に、この大震災が「日本人に対する天罰だ」としても「大きな反省」をまずすべきは慎太郎本人だと声を大にして言ってやりたい。我欲に縛られたポピュリズムこそ彼の政治そのものであり、弟裕次郎人気だか作家人気なのかわからないが、大衆の人気に胡坐をかいて好き勝手な放言暴言をしまくってきた。権力の座にしがみつき離そうとしない。この男はずっと傲慢であり思いあがってきた。
 人の痛みや苦しみがわからず、人を見下し、自らだけが正しいと己惚れ傲慢かつ奢り昂ぶった慎太郎にこそ天罰が下るべきであろう。神はいると信ずるし、ヨブ記ならばともかくも三陸の民に天罰など下すことは絶対にない。天罰が下るとすれば裸の王様慎太郎自らである。

母の退院の日が決まりました。2011年03月19日 22時05分10秒

★自分もまた人生と生活を「復興」させたい。

 これまで拙ブログでは昨年から体調を崩し今年の2月から入院し先に腸の開腹手術をした筆者の母のことについて逐次書いてきた。その母だが、昨日担当医と面談があり、経過説明の後にとりあえず治療は終わったので、来週にでもいったん退院してもかまわないと話があった。

 いぜん食事の量は全体の半分程度も食べられないし、まだ軟便も続いていて体重も全然戻っていないが、先日点滴も外され、食事自体もほぼ普通食に戻り、術後の経過もまあ良好なので、特に入院させておく理由がなくなったということだと思える。手術後2週間での話である。

 今のご時世、家にいるより病院にいたほうが三度三度食事も出され、不慮の事態が起きたとしても安心だという思いもあるが、自分の気持ちとしてはともかく退院でき、家に帰ってこれるということだけで、本当に嬉しいしまだ夢のような気さえしている。

 書くことさえ憚れ、はっきりとは書けなかったが、一時期はかなり重篤な状態で、もはやこのまま死もありえると覚悟もした。しかし幸い何度かの危機を乗り越えて、腸閉塞に関しては手術も行えて、それも成功し下痢は続いてても腸も繋がったので口から再び食べられるようになった。そしてとにもかくにもついに退院できる運びとなったのである。彼女はまだ新居では暮らしていないのだ。

 今おもうは、大震災での被災者方には失礼だが、津波にのまれて奇跡的に助かった方々ではないが、九死に一生を得たとはこのことかという気がしている。実は何度も諦めかけた。運が良かったとか、母は体力気力が幸いあったとか理由もなくはないが、一重に当ブログの読者の方々も含めた多くの人たちの支えと励ましがあり、そのおかげで弱い自分も諦めず挫けず頑張れたからだと思っている。本当に感謝したい。有難い。まさに神のご加護があったとの思いでいる。

 告白すると彼女の腹の中にはまだガンがかなり潜伏していて、決してこれで完治したわけでもなく、今後は抗がん剤治療に取り組むということになり、生きるための戦いはこれで終わったわけではない。じっさいのところあと何ヶ月、あるいは何年も生きられるのかもわからない。ガンは手術で採りきれたわけではなく今も進行しているはずだ。

 しかしまずは今回の入院、手術でずっと食べられず、食べても調子を崩していた要因に関してはなくなり、状態も改善されたかと思うので、昨年の秋から続いていた原因がわからず皆を悩ましていた胃腸の障害については一応治ったと言っても良いかと思う。

 先のことはわからない。しかし今の時代、健康な人だっていつ何が起こるか、いつまで元気で無事でいられるか何の保証もない。それは自分もまた同じであり、死は決して遠くの無縁のものではなくなった。

 母の治療に関しては、まずは家に戻り、少しゆっくりしてからどうガンと闘っていくか、あるいは共存してうまくやっていくか、親戚も交えてよく考えたいと思う。

 ともかくこれからは父母と共に過ごせる残された日々を丁寧に慈しむようにして生きていこうと誓った。ならば一日一日を無駄なく大切に過ごしたい。自分の人生さえも気がつけば平均寿命まで生きられたとしてもあと25年ほどなのだ。
 父も母も自分もこの歳までまあ無事に大した苦労も大病もせずに気楽気ままに生きてこれた。そして今回もとりあえず一つの危機、危険な峠を家族全員で乗り越えられた。実に運がいい一家だと今あらためて気がつく。
 自分はずっと幸福であった。しかし今まではそのことにさえ気がつかず、常に不平不満を口にし苛立ち、ここではないどこか別の場所を探していた。自分は不幸だとさえ考えていた。小さなつまらぬことに囚われていつも頭を悩ましていた。しかしそれは全てどうでも良いことであった。死の前にはすべては意味をもたない。
 
 今回の母の病気はいろんなことを教えてくれた。何より恥ずかしく思うのは、今まで自分は他者の痛みや哀しみに関してつくづく鈍感であり、人を思いやる気持ちにかけていたということだ。苦難のときに遭って、人の助けや励ましが身にしみた。有難いという言葉の意味がわかった。そして神の存在もようやく確信した。

 昨日の夕方帰り道、病院を後にして家路に向かうべく車を走らせた。ちょうど夕暮れ時、向かう方向、西に陽が沈む頃で、車のフロントからは茜雲の空と赤い夕日が落ちていくのが見えた。その雲の一つが、右下から左上へと細長く、筋状に、まるで階段のように延びている。それを見たとき、ふいに「天国の階段」という言葉が思い浮かび、メロディーが聴こえ深い感動にとらわれた。気がつくと涙が頬を伝わっていた。

 まずはここから、自分もまた人生と生活をもういちど復興させたいと心に誓った。