どのようにして死に臨むか2011年04月05日 23時54分51秒

★近況報告とこれからのことなど

 この数日慌しいのと疲れが溜まって拙ブログさえ書けなかった。申し訳ない。
 大震災の後始末的なことはほとんど何もないのだが、母が退院して2週間が過ぎて、家で養生することの世話、介護と、このところ一気に進んだ父のボケの応対に追われ、そこに合間縫って、改築後の荷物の移動やまだ未塗装の壁塗りなど作業もしてたので、夜になると疲れがどっと出て酒の勢いもあり倒れこむように寝てしまいブログさえ書くことままならなかった。

 思うが、生きていくのも大変だが死んでいくのもまた大変なのだ。いや、そもそもある程度歳をとって生きていくということは逆説的に考えればどう死んでいくのか、どう死に臨むかということに他ならない。今や男の平均寿命を越えた父と80過ぎ、ガンを患う母が生きるということはこれからどう死ぬかということが直截問われている。
 自分はまだ50代だが、その問いにはたぶん60ぐらいになれば嫌でも真剣に向き合わねばならないと思う。そう、どう死んでいくかだ。これがなかなか難しい。

 人間はのんべんだらんだらだらと日々時間を浪費していくことはたやすい。歳取れば一日なんてあっと言う間だし、毎日毎日何だかんだやることはあるし慌しくもたもたしていれば一週間、一月、そして一年なんてあっと言う間に過ぎてしまう。そしてそれが積み重なって気がつけば老年、老人となりいつ死んでもおかしくない年代になっている。

 生まれてきた者が死ぬのは自然の摂理だから、それはそれで仕方なくあたり前のことなのだけれど、人は他の動物と違い、生きたことの意味、意義や価値をそこに付加したいと願う。生きた証である。また誰でも同じかと思うが死は怖いし、順々とおいそれとは受け入れられない。ならばもっと真剣必死に日々生きておけば良いのに、人は怠け者で考えなしだから、いざ死が目前に迫ってきて慌ててはたと考える。
 いや、それは家族だって同じであり、そんないつ死んでも不思議でない歳の老人なのに、あまりに長い付き合いなので、自分が生きているのと同じように彼らもまだまだずっと生きていくものだと考えていた。
 ようやくその考えの過ちに気がついた。それは失礼だが震災に遭われた方々も似た思いを持たれたかと思う。生は当たり前のように考えがちだが、常にオセロのコマのように死に裏打ちされていたのだ。

 そんな天災による突然の「死」でなくとも、年齢と共に病気の巣窟のように体は衰え、死と向き合い、迎える段階に入っていく。それでも今は医学が進んでいるから、毎日呆れ果てるほどの量の薬を飲み、ときに手術したり、注射や点滴や機械の力でかなりの期間延命も可能となる。
 漱石居士は、度重なる病患の末、50代早々に、胃潰瘍で死んでしまった。いくら昔の人だといっても若すぎるし今の医学では死に至る病ではなく、小説を書き続けられたかはともかく70代ぐらいまでは軽く生きられたはずと思う。
 日本は今や世界有数の長寿国であるが、じっさい健康無事に八十代まで生きられた人は少なく、医学の力で本来はとっくに死んでいた人が生きていられ長寿を迎えられたのだと母の入院で同室の老人たちを見ていてつくづく思い至った。長生きは良いことであるが、周囲の人、特に家族にとっては高齢の病人の家族もまた老人であるので、見舞いだけでも大変なことなのである。

 母が入院している間、うっかりして認知症の薬を飲むのを当人任せにしていたので、当然親父は飲み損ねていたせいでか、このところボケが一気に進み、奇矯な行動や発言が頻繁に起こるようになった。母が退院して安心したり甘えているせいもあるのだろうが、このところ我家では騒動が絶えない。
 母も退院してから、どうしたことか前より怒りっぽく、口やかましくなってその父を大声で叱りつけたりもしている。物語ならば、瀕死の病気から生還でき、家族全員喜んで悔い改め仲睦まじく暮らしました、となるはずが、また元のように怒鳴りあう、騒がしい家庭に戻ってしまった。これでは元の木阿弥であるし、生の有り難さがちっとも生かされていない。喉元過ぎれば何とやらでまったく情けない。つくづく人は身勝手なものだと嘆息する。

 下手にブログを書き出すとそんな愚痴ばかりとなりそうで、迂闊にブログさえ書けなかった。いずれにせよ、生きていくのは、いや、死んでいくのは難しい。願わくば、残された日々一日一日、一つ一つのことをきちんと大切にして慈しみ感謝して生きたいと思うのだが・・・・。