電気を極力使わない暮らし・前2011年04月16日 21時21分53秒

★今こそまた改めてアンプラグドなのだ。

 この何日か、友人の死をうけて、ちょっと鬱病気味だった。時間の感覚もおかしくなって、気持ちが昂ぶったり大声を上げたりと自分でも感情を制御できなくなっていた。ようやく少し落ち着いてきた。

 さて、今回の大地震がもたらした原発事故、もし良かったことがあるとしたら、東電と無能無策政府に生命に関わることを任せきりにして、安全神話という「神話」を疑いつつもまあ、絶対大丈夫と言ってるんだから大丈夫なんだろうと、白紙委任してきた多くの反原発層の人たちに改めて目を開かせる機会を与えたことだろうか。
 自分もまた、大学で生越先生の授業をとってきたのに、教えを忘れていつしか他人事のように原発のことを頭の隅に押しやってしまっていたのだ。人というのは、普段は何も言わないし関心もろくにないのに、何か一つトラブルや失敗が起こると、だから言ったじゃないか、こうなると思っていたと騒ぎたてる動物だから、この事態になって、行政や対応を批判したり放射能は恐ろしいと騒いでも今さらのようにも思える。
 それよりももし本当に原発をなくして原発に拠るエネルギーに頼らない暮らしをしていくとしたら、いったいまず自分はどういう生活ができるかどう生きるのか自問しなければならないはずだ。

 自らこのところよく考えるのは、どうしても電気でなくては動かせないもの、電力がなくてはつかえないものできないものは何なのかということだ。

 音楽の世界では、アンプラグドという言葉が以前よりあった。つまりプラグ、コンセントを用いないアコーステック系の音楽と形態のことで、所謂まさにエレキサウンドではない生音、生唄のことであった。
 それでもアンプは通したり、増幅してスピーカーから音を出したりはしていたのだが、本当のアンプラグドとは、例えば、両国フォークロアセンターや西荻のみ亭で、生ギターや生楽器、生唄で演るライブなどのことであり、自分はそれを手がけてきたとの思いがある。
 
 じっさいうたとは本来そうしたもので、ある程度の客数となると、ボーカルが後方の聴き手に届かなくなるからマイクが必要となってしまったわけだが、演劇ならいまだ基本的に生の声で観客席100から200ぐらいのホールでは十分可能だし、うただって、生ギターに生のボーカルでも小ホールならPAはなくても力ある歌い手なら十分やれるはずなのだ。ただ楽器の数が増え、伴奏の音量が増すとやはり生の歌声では難しいとは理解もするが。

 もちろん、エレキサウンドを否定するものではないし、どちらが良いとか上とか考えてもいない。しかし、今後は基本的にアンプラグドで、どこまでどの規模までやれるかということが常に問われていくだろう。またそれは、歌い手の実力が試される機会でもある。
 自分の知る、愛するミュージシャンたちは皆誰もが、路上から、あるいは集会や運動から唄い出した人たちなので、もともと電気やPA は不要のところから唄い出した人たちばかりだ。何の手を加えない、生の歌声で人はどこまで勝負できるか、その姿勢さえも問われていく。

 考えてみれば、古代ローマの石で作られた巨大劇場だって、電気による拡声器がない時代、人の声と生楽器だけで上演できたのである。