人は出会い、知り合い、別れ、そして去っていく2011年04月23日 23時02分45秒

★そして思いだけが残る。

 ようやくこれが生きていくこと、人生なんだと思えてきた。

 スーちゃんの訃報は既にマスコミでも大きく取上げられているから拙ブログで取上げる必要はないかと思っていた。
 むろん、ある時代を共に生きた者として、キャンディーズというアイドルグループには当然思い入れはあるし、三人の中で誰の一番ファンかと言えばまずはスーちゃんこと田中好子であったからやはりショックであり彼女を悼む気持ちも強い。が、今日届いた友人からのメールでは、高田純氏が急逝されたとあり、今はそのことのほうに深く心動かされている。

 高田純という名前をご存知の方はある程度の年代、そして趣味傾向も決まってしまうだろうし勝手だが、この場で説明はしないでおく。ただ、かつての深夜放送、TBSのバックインミュージック内でDJ故林美雄の放送を聴いていた世代には懐かしくも重要なキーパーソンのはずだと思う。
 肩書きは映画評論家、脚本家と報じられているが、一言でいえば林さんの周辺にいた濃い映画マニアの人であり、彼の放送の常連であった。自分もまた映画ファンのはしくれだとするならば、若き日にその世界に導いてくれた先達、水先案内人の一人であり、先年の今野雄二氏、そしてみのわあつおさんに続いてまた彼も去って行くのかという悲哀と落胆に満ちた思いがわく。直截会ったことはなくとも声や文章で十代の昔から慣れ親み勝手に懇意に思い、私淑してきた人の死はやはりこたえる。
 高田氏の場合は、うすうすと当人も予期されていたところもあったのではと思うものの、たいていの場合、死は常に突然で、他者はその急の知らせで知り驚き心動かされる。そして故人との歳月を振り返る。

 今回の大地震や巨大津波などで不慮の災害に見舞われ突然に亡くなられた方も多々いらっしゃるし、不慮の事故、あるいは心臓疾患など急性の病魔により急死される人もまたいる。
 しかし、事故や災害はともかく、病気での死は若者よりも当然のこと高年齢の人に多く、自分の周囲も含めてこのところ「死」の報は後を絶たない。いや、自分もその年代になったからこれからこそが本番であり、ますます数を増しやがては葬式に参列した者たちの間でババ抜きをしているように自らもついにそのカードをひく日が必ず来る。

 人の死にふれて様々な感慨や哀しみ悼む気持ちがわくのはこちらが生き残ってまだ生きているからだろう。亡くなった方もあの世があるならば、あの世でこちらに対しての思いが残るだろう。ならばもうそれもまた仕方ないこと、生まれてきた者に必ず起きることと受け入れるしかない。おいそれと肯定できるはずもないが生ある者は必ず死ぬのだという事実を認めなくてはならない。

 人を亡くして哀しいのは、様々な悔いがまだ残っているからだ。あれもこれもと死の先にまだあったはずの人生を、特に故人と共に過ごす予定だった人生を悔やむ。さらに勝手にも死者に代わってその先の人生への残した思いが消えた無念さを悔やむ。

 死が全ての終わりだと思うと辛いし自分だって怖くて夜も眠れなくなる。しかし単に別な世界へと行くのだとすれば、それはそれで仕方ない。今世では会えなくなることは哀しいが、逆にある年代ともなればあの世の方が懇意で賑やかともなろう。
 今はこちら側、死ねばあちら側、ただそれだけの違いなのかもしれない。今の自分は目に見えないが確かにあるものの存在を信じているし、目に見えない何かに人は導かれ動かされ生きているのだと確信している。ならばすべてこの世のことは意味あることとして受け入れていくしかない。

 いつ死が自分にも訪れても良いよう、常に覚悟して一日一日をしっかり生きていくしかない。人の死の報を受けて様々な思いがわいてくる。泣いて悔やむことよりも思いは思いとして残していくしかない。そしてその人のことを語り継ぎ忘れないこと。それが生き残ったものの務めなのだとようやくわかってきた。
 そしてそれこそが生きることなのだと。