人は見えない縁に結ばれている。2011年05月17日 22時01分22秒

★神はいないとホーキング博士は言うけれど。

 今日火曜日は親たちの病院通いの日で、できるだけ同じ日に時間帯を合わせて車で立川まで連れて行き、共に診断を聴いたり、治療が終わるまで待って外で昼を食べて戻るようにしている。毎度のことだが午前から出ても結局家に帰るのは夕方近くとなりほとんど他のことは何もできない。

 そういう自分も今日は風邪気味で、何だか腰が鈍く痛く、微熱でもあるのか頭もぼーとしていた。気持ちもすぐれず、何やっても気が乗らず、今日はダメな日だと諦めていた。親たちのことではなく、実は個人的悩み事も抱えている。
 まあ、晴れの日ばかり続かないように、人生もツイていない憂鬱気味な日だって当然あるし、調子がすぐれない日もままある。そんな日はもう諦めて酒でもかっくらって早く寝るにこしたことはない。

 そんな気分の日だったが、夕方郵便受けを覗いたら、とある先だって大阪で知り合った方から今年の春一番を録音されたものをCDに焼いた包みが届いていて先ほど御礼の電話し少しお話できて、気持ちは一気に回復した。それにしても不思議な縁だと改めて思うしかない。人の世は不思議で素晴らしい。

 その方たち、ご夫婦だと思うのだが、今回の春一の会場で自分のすぐ後ろのほうの席にいらした。そして二日目の日、増坊のスタッフとのトラブル、その顛末を見ていらして、大変ご心配頂いた。そして三日目の日にも開場前に偶然またお会いして、彼らも録音していたから消されたなら音を後でお送りしますよとおっしゃってくれて住所などを交わしたのだった。
 結局のところ、自分は三日目で会場出入り禁止となり、その人たちともそれっきりとなってしまったわけだが、有り難いことに本日きちんとまず前半部分の録音を何枚もに分けてCDに焼いてお送り下さったという次第だ。拙ブログを読んでくれていた方だとお話したとき知らされたが、その荷物が届いて今日は感激した。お手間をとらせて申し訳ないという以前にその暖かいご好意に感謝の言葉もない。これこそが本来の春一仲間なのだと今確信できとても暖かい気持ちになった。

 お話してみると、70年代の頃から天王寺での春一番に通っていたとのことで、おそらく自分とも近しい世代だと思われる。むろん、今の春一にもその頃からの年期の入った観客が多く参加しているとは思うが、今回のような事件がなかったらこの方たちとは知り合う機会はなかったはずでこれもまた何かの計らいのように思われた。

 自分は決して世渡りがうまいわけでもないし、逆にあちこちでトラブルを仕出かすほうが多い人間なのだが、結果としてその失敗の後にまた新しい出会いやさらなる展開が広がっていくことが常である。失うものも多いがまた新たに得るものもまた多いのだ。不思議だが事実であり真実だ。それは偶然にしてはあまりによく出来すぎている。

 あの物理学者ホーキング博士に言わせると、宇宙を作ったのも神ではなく、死後の世界も一切なく、神とか信ずるのは暗闇を怖がる弱い心のなせる業だと発表したという記事をネットのニュースで垣間見たが、神の計らいかとはともかく、目に見えないもの、何らかの意思は確かに存在していると断言する。
 小さな唄に手を引かれ、どこへ向かうか、とは、畏敬するいとうたかおが書かれた本の題だったかと思うが、自分もまた、見えないものにずっと手を引かれて小さな世界ながらもあちこちあれやこれやうろつき生きている。
 これまでも迷える自分の手を引いてくれる方、しでかした過ちや災難の時もその後に救ってくれる方は確かに存在していたし、自分はそれが神だと考えるし、でなければ説明がつかない。

 人は見えないものに導かれて出会い、別れ死んでいく。その出会いが共に好きなもの、信ずるものを通してならば出会いもまた必然であるが、その偶然の必然も起こるべくして起きたと過信してはならないと思う。その出会い、縁に深く感謝して大切していかねばならない。

 人は必ずやがては死ぬ。その短い人生の中で、何故に敵を作り、相容れない者を敵と見なし、その世界を狭めていくのか自分には不思議でならない。音楽とはもっともっと自由なもののはずだ。自由と寛容を求めて自分の春一番はこれからも続いていく。