足るを知ること2011年07月15日 09時50分22秒

★よいものを少しだけに

 外は朝から焼けつくような陽射しである。このところ朝の犬散歩でも8時過ぎてしまうともう道も陽射しも暑くて犬も自分もへたばってしまう。せいぜい陽がまだ低い7時頃までに散歩を済まさないとならない。

 この猛暑に節電の夏、近年の日本人にとってもっとも暑い試練の夏となった。しかし、昔の文献など繰って明治や江戸の昔を知ると、暦の違いはともかくも夏や冬の盛夏や厳寒期や日中はもはやほとんど何もできず、子供たちは井戸端で水浴びをし、大人たちはひたすら家の中でじっとして涼をとっていたようだ。つまり生産的なことはほとんど何もせずに。冬なら漱石先生のように長火鉢に手をかざし硝子戸の中に閉じこもっていた。

 ゆえに生産も消費も落ち込む二月、八月は商売も何もすべてダメであり、人の出足もないので特に興業や出版の世界では二、八(ニッパチ)は鬼門とされてきた。
 文人であり卓越した商売人でもあった菊池寛は、自らの出した文芸春秋誌の売り上げが厳冬盛夏時期が最も悪いことに気づき、何か対策はないかと考え出したのが、直木賞と芥川賞の創設である。その両賞は話題を呼び、その受賞作掲載号は飛ぶように売れた。ゆえに今でも文芸春秋誌の受賞作掲載号は毎年2月に出る3月号と8月に出る9月号であるのは周知のことだ。

 閑話休題。
 明治や江戸の頃はさておき現代では、真夏であろうが、厳寒期であろうが豊富な電力のおかげで農業から工業まであらゆる物資の生産は季節に関わらず安定して供給されるようになった。そして消費も同じくほとんど季節には影響されない。人は空調の効いた部屋や工場で、外はどんなに暑かろうが寒かろうが常に同じく作業ができた。

 しかし、2011年の3.11以降は、西日本はともかくも東日本全域で、もはやそうした電気を潤沢に浪費する贅沢はできなくなってしまった。今、スーパーとか店に入ると、当然あまり涼しくないし、広い店内は薄暗いし歩き回ると汗ばむほどだ。
 当然のことあらゆる生産量は落ち込むし、冷蔵庫に買いだめもできないので、消費も悪化していく。連日の「高温注意報」の発令では、もはや日中は外で運動でも作業でも何か体を動かすことは命に関わる。

 となると、もはや節電節電でクーラーをギンギンに効かせることもできないならば、江戸や明治の頃のようにただひたすらじっとしてこの季節が過ぎゆくのを待つしかないのではないか。国の経済を考えれば停滞であり国力は損なわれるわけだが、真にグローバルな地球規模で環境問題を考えれば、原発にしろ何にせよもはや無理して電気を増産しなくてももはや良いように思えてきた。
 暑いときは暑いし寒いときは寒い。これは自然のことであり、人類はそれを十分克服してきた。これ以上夏でも冷房が効きすぎて膝掛が必要な生活、冬でも室内はTシャツ姿でアイスクリームを食べるような生活を続ける必要はないと考える。

 自分も含めて人は欲深い動物だから、あれもこれもと望み、季節に関係なくすべてを手に入れたいと考えてきた。自分も今だって今夏のうちにあれもこれもしたいことが山ほどある。しかし、この猛暑だ。連日体温より高いほどのこんな気温で何かを成し得ることは冷房に頼らない限り不能だ。だとしたら、この季節の間は、犬が穴を掘り、穴の中で土の涼をとってじっとしているように、自分は家の中でじっとしていようと思う。

 振り返れば自分は特に欲深いから、あれこれ実にたくさんのことに手を広げ多くを望みすぎた。それは人間関係も含めて身の回りすべてにわたってだった。
 多くを望むことは決して悪くはない。しかし、今の時代は逆にあるものに感謝して今あるものを大切にして活かすことが肝心だ。つまり貝原益軒や安藤昌益先生たちが説いたように「足るをしること」だと気づく。

 もはや時間も体力もなく、あれもこれも望んだとしてもできっこない。これからはすべて、良いものを少しだけ求めていきたい。