本当に体力なしの自分が・・・2011年07月01日 21時12分12秒

★一日ひたすら寝込んだ日に

 とりあえず倉庫の片づけが昨日でほんの一部でも一段落したからか、暑さの疲れが出たものか、今日は溜まった洗濯終わらせて昼飯作って親たちに食べさせたら睡魔に襲われ夕方まで前後不覚でひたすら眠り続けてしまった。いつ寝たのか覚えがない。実は朝も寝坊したのにいったいどうしたことなのか。

 まあ、勤め人でないので平日でも家にいられて自分の裁量で好き勝手に寝たり起きたりできる幸せはこうしたときつくづく有難いと思う。そのぶん、土日祝日もなく、貧乏ヒマなしで金の工面に頭を悩ますわけであるが、世間の都合に無理して合わすより体の欲するまま従うことができるのはこれ幸いであろう。

 カタギの勤め人であれば、ボーナスも額はともかくきちんと夏冬支給されるわけだし、年金も含め様々な保障もされている。そのぶん会社や組織内での面倒な辛いことも多々あるのだと推察するし、老後までの安定度とはその応分の我慢度に比例しているのだと考える。
 それは自由の有るなしとか、量の問題とは関係ない。時間的自由というものもあるが、自由とは本来は心のありようでしかない。刑務所の中にもささやかな自由はあるはずだし、無人島に暮らす人はそこを自由だとは思わないはずだ。金で買える自由もたくさんある。逆に時間があっても金がなくて不自由をかこつ人もたくさんいる。

 今、自分はつくづく恵まれていると思う。収入が少なく、金の工面に頭を痛めてはいるが、基本的に自由であり家も親たちもまだ在る。もし不満があるとしたら、生活に関連した雑用がやたら多くて本来の自分のことがなかなかできないことだ。しかし、「自分のこと」とは「仕事」や「稼業」の前に、世間から見れば「趣味」でしかなく、それが特技にまで達していればまた評価のされようもあろうが、今はまだ単なる「物好き」の領域でしかない。
 そしてつくづく自分は「物好き」「モノ好き」なんだと思い至る。たくさんの本やレコード、オーディオ類に囲まれて身動き取れないのだから。そしてその移動や片付けを少しやったぐらいで、疲労困憊で倒れこむように寝込んでしまった。
 「モノ」はじっさいのところモノでしかなく、被災地を訪れて家さえもゴミと化してしまう現実を目の当たりにして衝撃を受けた。モノ好きな自分がモノでないところに拠って生きていけるのだろうかと今も自問している。
 そして今幸福な恵まれている自分が、東北の被災地の方々に何ができるか、すべきことは何かともずっと考えている。8月はまた予定が山積みだが、今月7月は今のところ大して用事は決まっていない。
 これからさらに暑くなるかと思うが、まずは体力を戻し体調を整えて、自分のことだけではなく、他者のためにやるべきこと、すべきことをしなければと思う。勤め人方とは違い自分には時間的自由はかなりあるのだから、その自由を用いなければならないのだ。

懐かしのキッド・アイラック・ホールへ行った。2011年07月04日 00時10分41秒

★原将人監督「初国知所之天皇」を部分的に8ミリで観てきた。

 今これを書いているのは7月3日の夜零時過ぎ。正しくは4日の午前零時を回ったところだ。
 このブログ会社のシステムは、その日のうちに書かないと、後追いで過ぎた日の分を書き込むことはできない。なので、空白日を作らないためにも帰りが遅くなりそうな日は予め出かけに、見出しとかちょこっとだけ書いてアップさせなくとも送信だけはするようにしている。さすれば後ほど時間あるときに書き足し書き直したりしてもその日のうちに書いたことになる。

 今日3日は友人に誘われて京王線明大前駅近くのキッド・アイラック・アート・ホールへ夕方から出向いた。観なくてはならない映画の上映会がそこのホールであったからなのだが、体調もすぐれず最後までおらず、向こうを10時過ぎ先に出たので、零時前には家に戻れた。※その映画については後ほど別に書き記しておきたい。
 が、シャワー浴びてから夜食を作ったりしてそれを抱えて二階に上がり零時5分前にパソコンに向かったのになぜか起動に時間がかかり零時を過ぎてしまい今日3日分に間に合わなかった。

 出かけても日付が変わらぬうちに家に帰る。このところの自分のモットーはこのことで、たとえ不義理をはたらいて付き合いを抜け出してもともかくその日のうちに帰宅したいと決めている。むろん、立川からの青梅線が動いているうちに帰れれば問題はないのだが、そこにリミットを合わすと果たしてその終電に乗れるかドキドキハラハラするし、結果として乗り遅れてまたとぼとぼ歩いて一時間以上かけて帰るはめとなる確率が高い。
 ならばともかく、日付が過ぎる前に家に帰ることに決めておけばそうした災難からはまず逃れられる。出かけてもできるだけ早く家に戻っていたい。それは体調も悪いからだが、もはや体力は若いときのようになく、夜更かししたり無理すると後々疲れがずっと残る。

 このところ私淑している京都の詩人、有馬敲氏の生き方を見、いかに自己管理が大切か深く思い至ったこともある。人との付き合いも大切であるが、無理して、まして深夜に一時間も酔っぱらって歩いたりするととうぶん立ち直れない。何日も寝込む。命を縮めるだけだ。義理を欠いても御身大事だとようやく気がついた。
 
 もう若くないし先も長くない。まして看取ってくれる身内もいない。ならば自らが節制して自制することだ。出かけたとしても日付が変わらぬうちに家に戻るようにしないと後が怖い。
 自分にはまだ成すべきことがあるかとも思う。いや、なくたって誰にも頼れないし誰も助けてはくれない。自分も身勝手だが人もまた身勝手なのだ。みんな身勝手なのだからそれはそれで仕方ないではないか。

 もう無理して人に合わせたり辛いことを我慢するのもやめにした。人のために生きたいと切に願うが、そのことと御身大事であることは矛盾しないと思っている。よくも悪くもまずは自分の体が資本なのだから。

今の政治家たち全員嫌い2011年07月05日 21時33分54秒

★政治家たちは地に堕ちた。

 政治のことなど書きたくないし、書いても無力感にただ襲われる。膝も胃も痛く、身動きとれないところにあれこれ急を要する用事が飛び込んでくる。被災地のこともこの国の政治も自らのことも先行きが見えずただ漂流しているような気がしている。どうしたら先行きが見えるのか。事態は打開されるのか。

 書きたいこと、書くべきことは山積みで、パソコンに向かう時間さえとれれば何時間でも書きたいし書けるのだが、日々家の用事で慌しく頭を抱えている。わけあって生活も不規則で、早朝といってもまだ真夜中に起きたり、へんな時間に昼寝したりとメチャクチャになってしまった。が、母や老親たちの容態が悪化したというわけではないので、ご心配くださるな。

 今朝方松本復興相が自らの失言の責任をとって、就任わずか9日目で辞任した。被災地の県知事を前に、言うことをきかなければ助けないぞ、いいか、と見下した横柄な物言いが報じられ何様のつもりかと世間の批判を受けたからだ。そもそも知る限りの政治家とはこうした物腰の人ばかりであり、選挙の時だけは謙虚に地元民に平身低頭でぜひぜひ何卒お願いしますと頭を下げるが、当選してましてエライ地位に上りつけば、偉そうに胡坐かくのが政治家センセイなのである。そんな人間を大臣に任命した菅首相の責任は言わずものだが、そもそも政治家たちはほぼすべて似たり寄ったりの同類だと断言する。松本氏は、「自民も民主も公明も大嫌い」という名言を吐いたが、そういうお前がいちばん嫌いだと申し上げたい。何様のつもりなのか。復興大臣とは江戸時代のお殿様か。

 古来、その器にあらず、という言葉がある。何かをするにあたり、もしそれが大事を任され重責を担う仕事であればこそ、果たしてその任に堪えうるかが問われることは当然だろう。
 自らも常にどんなときでも事にあたり果たしてそれを成しえるのか自分はそもそもその器なのかと自問することがよくある。
 
 例えばの話、もし自分が政治の世界に担ぎ出され、運よく選挙で当選できたとしても、それは町村市議のレベルでも務まるとは思ってもいない。何故ならその器にあらずからだ。その責も能力も自分にはかけらもない。向き不向きは自らがいちばんわかっていることだ。
 ところが今政治の世界ではあきらかに、誰が見ても世の常識として政治家に相応しくない人たちが政治を担当している。今回の松本大臣に限らず、今政治を動かしている人たちは皆そうとうおかしいことは説明不要であろう。
 その理由は簡単で、本人の資質以前に、政治とは代々世襲で受け継ぐ家業であり、国会とは二世、三世どころか政治家一族の巣窟と化している。彼らはまともに社会に出て働き下積みの苦労もしたことはないし、親の跡を継ぎ、ただ漠然と政治家になっていく。麻生太郎や鳩山一族ほどでなくても大資産家の家に生まれ、生活苦とはかけ離れた所から政治の世界に入っていく。これでは庶民の暮らしがわからないはずだし彼らにとっての政治とは権力抗争でしかなく、いかにトップに登りつくか眼目にない。

 では、そうした世襲ではない、市民運動から出発して首相まで登りつめた組織も金もない菅直人という男が政治家の理想かといえば大間違いであり、彼こそその器にあらずと就任以来ずっと世に知らしめている。彼には理念も判断力も信念も昔から何一つなく、あるのはその場その場の姑息な世渡り処世術と口先だけの詭弁だけであり、政治家としての出世欲だけで政界を巧みに泳いできた男だった。
 本来、この大震災が起きなければとっくに首を取り替えられたはずだったが、これを好機、復興復旧こそが我が使命と息を吹き返し、辞任すると公言してからも、一定のメドをつけてからだと言い逃れしてだらだら延命に腐心している。

 この国の悲劇は、菅首相が総理であることだと前にも書いた。しかし、では誰がポスト菅ならば政治はよくなるかと考えた時、暗澹たるものがある。民主党もダメだが、原発を推進してきた自民党だって当然ダメだし、世間知らずの世襲議員たちが政治を動かす限り、みんなの党だって同じ結果は想像に難くない。

 しかし、だからといって、政治も選挙ももうどうでもよい、呆れてもう知ったことかと無関心無関係になってはならないはずだ。バカはいつでも世に多くいるから政治家として、人として上に立つのに不向きな人間をこれからも支持し選び続けるだろう。人は永久に期待を捨てない動物なのだから、自民党がダメだから民主党、民主党がダメだったからみんなの党、あるいは某知事が率いる地域政党へと騙されても裏切られても懲りずに新たに期待していく。
 そうした試行錯誤、模索や混沌の中から、真に政治家の資質を備えた真にその器たる人が登場すれば良いと思うけれど、へたに強いリーダーシップを誇り、カリスマ性のある人気者が首相になったとき、果たしてそこからこの国がどこへ向うのか大いに不安を抱く。

 今の政治家達がダメなのはこの国の民にあった政治家達だからだという論もある。つまり彼らを選んだ相応の結果だということだ。じっさい民主党も自民党も公明党もこの国民の多くが選んだのだ。そして今の菅首相がいるのである。
 政治とは民意の反映に他ならない。だとしたら変わるべきは政治家ではなく、まずこの国の国民、我々自身ではないか。

 このところよく考えるのは、世界を変えたいと願うならばまず自らが変わらない限り世界は何も変わらないということだ。自分は変わらないし、変わりたくないのに、政治だけ変えたい、良くなってほしいと願うほうがおかしい。

 世界は変わる。自らが変われば。いくらでも変わる。
 自らが変わらない限り世界は何も変わらない。このことは真実だ。うんざりとした政治も日常も実は自分が望んだものだったのである。

高坂一潮さん再び 追悼番組に向けて2011年07月06日 17時26分02秒

★一潮さんについて思い出や情報をお寄せ下さい。

 先だって、青森のシンガーソングライター高坂一潮さんが闘病の末に亡くなられたことを当ブログで書いた。かえすがえすも本当に残念であり、今もふと時折彼の「だびよんの鳥」のメロディーが頭をよぎっていく。

 一度しかお会いしたこともない自分が、書くべきか迷いもし僭越を承知で書き記したわけだが、幸い何人か彼のファンの方々から反響が届き、自分なりの彼に対しての思いを書き残せてよかったと安堵した。

 青森の放送関係の方で、伊藤さんという方が、拙ブログのその回のときコメントをくれた。以下それを改めてここに転載しておく。


 現在(2011年6月)、青森ケーブルテレビで一潮さんの追悼番組を企画しています。01年11月~02年10月まで、一潮さんと一緒に青森市内およびその近郊を歌で旅する「一潮のぶらり一人旅」というコーナーを制作・同行しました。その映像を中心に何とかできないかと考慮中です。
 一潮さんとは知り合いですが、当方はミュージシャンの世界には疎く、本人にも歌について深くたずねたことがありません。ぜひ、みなさんが知っている一潮さんの人となり、エピソードがあれば教えていただけませんでしょうか。番組の完成は今年中にはと考えています。(欲を言えば2時間番組にしたい)よろしくお願いいたします。
 申し遅れました。私こと、青森ケーブルテレビの嘱託として勤務する者です。だびよん劇場が閉店する際に縁あって、「さよなら会」の司会を担当しました。(青森にて)


 
 増坊も知る限りの情報をさっそく伊藤さんのところにメールいたしたが、むろん思い出は人の数だけあるのだから、追悼の番組により多くの情報が寄せられることを望む。※コメント欄にご連絡先など書き込んで頂ければ、伊藤さんのほうに転送いたします。

 自分はだびよん劇場も青森の音楽シーンについても詳しくない者だが、一潮さんのステージを一度でも観れたことは光栄に思うし、五郎さんに倣って、彼のことと彼のうたは歌い継いでいきたいと思っている。

 それにしても青森の沿岸部も今回の大震災でかなりの被害があったことだろう。彼はこの大災害にも意識目覚めることなく逝ったわけだが、こんな時代だからこそ彼のうた=暖かい人柄と明るい歌声が強く求められていると思う。その彼がいないことは残念でならない。きっと彼の魂は被災地をさまよい人々を影ながらはげましつづけていることと信ずる。

8ミリ映画とキッド・アイラックホール・12011年07月06日 21時20分47秒

★「過去」を今一度見直して考えたことなど

 時は過ぎ行く。
 何かしようと、何もしないでいようと時は休みなく過ぎ行く。
 あの日から早くも四ヶ月が経とうとしている。そして何一つ解決も進展もしていないのに時間だけは確実に過ぎていく。
 
 どうしたことかこのところ体はガタガタで、疲労感がとれず体は重くともかく足がだるく重たい。ふつう眠ればいくぶん疲れは抜けて体は軽くなりスッキリ起きられるはずなのだが、今日も朝起きたときから両足が重くだるく痛い。どうしたことか。

 男にも更年期があるというし、先月はあれこれ雑事や搬送に追われてかなり無理したから疲れも溜まったはずで理由なくもない。が、このところは大した作業もせず出かけることも少なく家にいられるのにこの疲労感である。まだ老人だという認識はないが、これが50代相応の肉体の現実なのだろうか。ともかくだるい、かったるい。理由なく疲れている。単なる夏バテに思えない。
 ならば知っている60代のフォークシンガーたちのほうがよっぽど元気で心身ともに若々しいではないか。フォークソング健康法というものがあるのかもしれない。まあ、それは日々人前で唄うことなのだろうが。

 浅川マキがけだるく歌う「こんな風に過ぎていくのなら」が今日は頭の中を流れている。こんな風に過ぎて、時は過ぎ、箱舟は去り、気がつけば歳だけとってしまった。
 よくも悪くも、いや、良い悪いではなく、全てこれが現実であり、新たな出会いもなくはないが、人は次々消え去っていく。今週末にはまた葬式ができた。
 寺山修司は、M・デュシャンの言葉をひいて、「死ぬのはいつも他人ばかり」と口にしていたと聞くが、そういった当人が若くして死に、気がつけば自分も彼の死んだ歳をとうに越えてしまった。
 今こう体調がおかしいと、この肉体のどこかに病気があるのではないかと不安になるし、もしかしたら先行きも長くないような気がしている。

 先日久しぶりに8ミリ映画を観た。しかも場所はキッド・アイラック・ホールであった。その映画も70年代に撮られたものであったが、改めて今この自分が21世紀に生きていて、あの頃、あの時代を振り返るきっかけとなった。そしてそこにある「距離」に驚かされた。
 山登りしていると、ふと今まで歩いた道を振り返って見たとき、あの山からここまでずいぶん歩いてきたんだとその距離に驚くときがある。それと同じように、じぶんがかつて慣れ親しみ、自らも回した8ミリフィルムの映画は今の目で見直すとずいぶん大昔の「過去」のものでしかなかった。※何回か書き足せたら書き足す予定です。

まずは今年の夏を無事に乗り切ることだと。2011年07月08日 22時55分00秒

★壮大ないかさまが今崩れ落ちていく。

 今日も暑い。太陽はあまり出なかったが、日本の梅雨らしく湿度が高く風もあまりなく、じっとしていても汗が吹き出るように蒸し暑い。
 クーラーを入れれば快適になるのだが、今夏は節電・省エネの夏であり、原発を稼動せずとも夏を乗り切れることを実証するためにも自らクーラーは使わずもっぱら扇風機と冷水でのシャワーに頼っている。

 何だかんだ言っても自分は毎夏クーラーなしでもほぼ裸族として暮らしているからどうってことはないが心配なのは老親の体調で、特にオヤジのほうのボケが進んでいるから徘徊系認知症はうっかり目を離すと危険である。
 庭仕事だろうが何か作業すると熱中して自らはどんなに暑くても家に入ることを忘れてしまう。つまり熱中して熱中症になる。呼んでもなかなか家に入ってこないし、おそらく親達だけにしておくと救急車が来る事態となる。
 元々が六尺もある大男だから体重が半分しかない母が制御することは不可能で、何度警告しても家に入らないときは無理やり羽交い絞めにして抱えるようにして家に連れ戻す。当人は抗ったりもするのでこれもまた一苦労である。老親と暮らすことは大変だ。
閑話休題。
 
 九電のやらせメール事件にみるまでもなく、原子力発電所というもの自体がすべて壮大ないかさま、国民をだまし続けてきた詐欺だったことがはっきりした。そもそも世界唯一の被爆国に、原子力の平和利用という名目で、全国津々浦々辺境の地を狙って原発を何十機も作り続けるということ自体が、米国主導のいかさまであった。それは米軍基地押し付けの構図と酷似している。
 マスコミも一体となってのやらせやサクラ、嘘と欺瞞で原発安全神話は作られ、国民は学者先生やお上が言うのだから安全なのだと信じさせられてきた。

 今また、安全性が確認されたからと原発を再稼動させろ、でないと国力が衰え大変だとバカは騒ぎ立て、地元に要請しているが、そもそも原発は安全のはずだったのである。絶対安全だと言い切って、大地震を受けたら想定外の事態が起きたのである。そして今安全だからと言ったって、3.11以後、何一つ新たな対策工事もしないままにまた稼動すれば、いずれ大地震が起きれば必ず規模の違いはあれ絶対トラブルが起きる。
 3.11以後頻発する余震なのかわからない全国規模での地震騒ぎを見なくともそもそもこの国は地震の巣窟の上に乗っかっている脆弱な地盤の国なのである。そんな国に、かなり老朽化した原発がたくさん存在すること自体不発弾を抱えているようなものでいつまた福島を越える大事故が起きるかわからない。

 むろん廃炉はいっぺんにできることではない。その作業だって建設のときより時間もコストもかかるであろう。しかし、地震国日本で、大地震を防ぐことも予知することもできないならば、予め起こりうる想定できる危機は取り除くべきであろう。
 もう国民は騙されない。原発がなくても日本人は生きていけるということを示すことができるはずだし、それができなくては3.11の被災者達に申し訳が立たないはずだ。

 とにもかくにも、今年の夏を原発に頼らずとも乗り切っていこう。まず今夏を家族無事に乗り切ること。すべてはその後からだと思っている。

猛暑日に思う2011年07月10日 23時49分51秒

★もう戻らないあの夏の日

 梅雨はあけたのか。このところ連日猛暑が続く。連日最高気温更新中である。
 昨日は都内に住む女友達二人に頼まれて彼女たちの自宅から不要のものを引き取りに車で朝から出かけた。
 飯田橋と東中野の二件で、本や雑貨類と使っていない小型冷蔵庫などである。冷蔵庫はブックカフェ用に二階にも一つ必要だと思っていたので大いに助かった。
 帰りに三鷹の生活雑貨量販店で、アイアンのカーテンレールを買って昼飯も食べずに戻った午後3時であった。祖師谷に住む「社員」である友人を伴っての移動であったが、都内まで往復すると半日はかかってしまい、結局家の作業はすぐに夕方となって友人が来ても大してはかどらなかった。

 今日、日曜は町田に住む叔父の奥さんが急死したのでその葬式に親たちを連れて行った。
 叔父というのは父の弟であり、むかしの人だから親父の兄弟姉妹は全部で6人もいた。父は長男であり、すぐ上に姉がいたが何十年も前に亡くなり、父の下には妹が3人いて、そのうち一人は先年癌で死に、一番下に弟が一人いて、今回亡くなったのはその人の奥さんである。
 わけあって再婚したのでその方はまだ60歳であった。むろん既に孫子もいるが。叔父が帰宅したら倒れていて既にこと切れていたと聞く。どうやら脳梗塞か何かで倒れたらしく検視騒ぎとなったそうだ。

 実はその叔父夫婦はこの3月、母が立川の病院に入院していた時に二人して突然見舞いに来てくれた。そのときは母のほうが容態悪く、向こうはピンピンしていたのに叔父の奥さんは突然亡くなり、見舞われた母が父を伴って彼女の葬式に出たのである。
 血のつながりある親戚ではなかったのでさほど親しくしていなかったが、まったく命というのもの、先のことは誰一人予想もつかない。病気した老人が葬儀に出られて、元気だった若い人が突然死んでしまう。叔父は周囲をはばかることなく号泣嗚咽していた。

 式は一時間かそこらで、焼き場まで付き合わずに、老人たちをせかして昼には式場を後にしたのだが、帰り道の車窓からは西の空には巨大な入道雲が青い空に湧き上がっていて、いよいよ本格的な夏の到来を思い知らされた。

大震災から四か月が過ぎて2011年07月11日 22時10分42秒

★季節だけは足早に過ぎゆくが・・・

 東京多摩地方も連日焼けつくような暑さが続く。
 この数日出かけることが続き、テレビさえ観なかったので知らなかったのだが、一昨日土曜日に関東も梅雨明けしたそうで、いよいよ今年も夏本番である。今の感じでは今夏もかなりの猛暑となるようだ。

 この暑さに被災地では仮設住宅さえ入れず体育館のような仮施設に今も入っている方々の労苦はいかほどかと案ずる。この国にはしっかりした政府も行政組織もあるのにどうして権力の大英断としてどこかホテルや民宿を借り上げるとかしてともかくまず彼らを救う手だてはできないのか憤る。避難所での仮暮らしも四か月はもはや限界であろう。

 しかもイカサマ、まやかしの極致として、全国多くの方々からの義援金が未だちっとも被災された人たちに行きわたっていない現実、本当に怒りさえ覚える。窓口にあたる地元の行政も被災し人手が足りないとか確認や手続きに時間がかかるということを差し引いても、ならば国の責任で率先して別な窓口を拵えていち早く困窮にあえいでいる人たちに一日でも早く届くように迅速な対策をとるべきではないのか。それが今できる復興策であろう。
 がれきの処理もほとんど進んでいない地区も多々ある。季節の進みに対しあまりに行政はすべて遅すぎる。このままだとせっかく津波や地震で助かった人命が、政治の現実に絶望して自ら命を絶ちかねない。

 では自ら、自分が何ができるかと自問すれば、果たしていつ被災者に届くか定かではない義援金なる「善意」に自らの心を満たすことではなくじっさいのアクションをともかく起こしたい。それは被災地に行くことに他ならないはずだし、何か体を動かして被災された方々のお役にたちたいと切望している。

 が、情けないことに自分をとりまく諸状況がそれをゆるさず、自分の体調はともかく、病後の老親を抱えた一人息子の立場ではたとえ福島まででも家を空けることはなかなか難しい。あれからずっと検討し、向こうではボランティア要員は今も求められているはずだしたとえ一日だけでも何か関われればと考えているのだが、その日程が立たない。
 このところほぼ二日に一日は通院やら親たちの用事で出かけていてその日はほぼ日中丸一日時間をとられてしまう。忸怩たる思いでいるがそれも仕方ないのか。何かできることはないものかと考え続けている。


 しかし被災された方々には申し訳ないが、このところ基本的に家にこもっていたおかげで、ようやくだがほんの少しだが、個人的生活「復興」の兆し、人生再建の道筋が見えてきた。

猛暑でも涼しい家ができた。2011年07月12日 22時32分38秒

★今年後半に向けてまたここから

 暑いのは相変わらずだし、今の季節とても外にいて何かすることはできやしないが、幸いにして今の増坊宅は意外にもかなり涼しい。いちおうの改築、正しくは旧い家の壁や骨組みを生かして半増築しての初めての夏、外は猛暑でも室内は思いのほか涼しい。

 それは、風が抜けるよう広く空間をとったことも大きいし庭には木が多く木陰が多いこともあるのだろうが、いちばんは木と塗りの土壁部分が多い昔ながらの蔵に準じた家を保っているからだと確信する。

 実はこの家は、数年前に先に建てた新建材と今風の工法で更地に一から新規に建てた裏の部分と古い家を生かした表側部分が合体して一棟になっているのだが、新工法で建てた裏の部屋は機密性が高いからかともかく夏は暑くて入るとむっとする。じっとしていても汗が吹き出る。冬はそのぶん暖かい感じもするが、今夏はとてもそこに日中いることすらできない。

 一方今春完成となった旧い材や土壁のある部分は不思議に涼しく、広く風が三方に抜けることもあるからだが、部屋全体が裏より数度低いことは間違いない。ごちゃごちゃモノはあるのは同じだし、違いはやはり工法の差だと思う。表側にいれば基本的に扇風機も冷房も必要ない。
 今改めて、自らの判断は正しかったと確信している。建築段階でも報告したが、当初は裏側と同じく全部古い家屋は壊して更地にしてから今の工法で一から建てて裏側とドッキングすることになっていた。
 しかし、自ら壊す途中、柱もだがあまりに土壁はしっかりと頑強なことに気がつき、これを壊して新建材にする意味も答えもみつからなかった。急遽計画を変更して大工に無理言って、全面的新築としての改築ではなく、できるたけ旧い家も残せる部分は残しての増改築としてもらい、そのぶん手間も時間も費用もかかると脅されながらわがままを通した。そして予想通り、いや、予想以上に夏は涼しい家ができた。

 もし、今古い昔ながらの築50年以上の家屋に住み、その不便さに倦み、ぜんぶ壊して今の工法で今風の家を作ろうと考えている方がいるとしたらこう進言する。今の家は冬は暖かいが、夏は冷房なしではとても暑くて暮らせない。脱原発と節電必至の今の時代、自然環境のことも意識するならば、どうか昔ながらの家にところどころ手を加えて補強したりして住み続けて欲しい。築50年無事に建っていた家は、手を入れて住み続けていけばこれから先の50年は住み続けられる。よほど大金をかけて総ヒノキの家を宮大工に建てさせるほどの金持ちでない限り、新しく建てた家はいくら快適な間取りでも夏は暑くて冷房なしで一日も暮らせない。
 その証拠にぜひこの増坊の家に来てその差を実感してほしい。ふるい昔ながらの木と土壁の家はともかく夏は涼しい。大工に無理言って昔の家を部分的にでも活かして建てて良かったと今心から満足している。

ほんの少しでも先行きが見えてきました。2011年07月13日 22時24分26秒

★ようやく人生再建と生活復興の兆しが見えてきた。

 今も避難所で暮らすことを余儀なくされている被災地の方々、また放射能汚染に振り回され農漁業に大きな打撃を受けている方々には本当に申し訳ないという思いあるが、私ごとにおいてはほんの少しではあるが、今後の先行きがようやく見えてきた気がしている。


 連日の猛暑の7月も半ばを迎えようとしている。私ごとを書かせてもらうとようやく今頃になって生活復興の兆しが見えてきたように思える。人生再建というと大げさであるが、去年2010年はともかく狂瀾狂気怒濤の忙しさで生活も何もすべてがめちゃくちゃとなってしまった。

 それは春先から音楽企画で忙しかったこともだが、そこに家の工事が始まり、ようやくライブ活動が一段落したと思ったら体調を崩していた母の病気が悪化して、年明けから入院となり、かなり進んだ癌が発見されその転移で腸閉塞を起こして一時は死も強く覚悟した。幸いおかげさまで癒着部分の大腸を1m近く取り除く手術は成功し、3月末には退院し家に戻ることもできた。

 その後の経過はまあこともなく、体調も体重も病気前に戻ったわけではないが、検査数値を見る限り癌の再発は抑えられているようで、本当に喜ばしい。今は家事などもずいぶんできるようになってきたし、増坊の家事にかかる負担もだいぶ軽くなってきた。

 しかし昨年の春先から今年の春までの丸々一年間、そんな超多忙の慌ただしさに自分の人生はふりまわされ、お金のことも物もきちんと整理も記録もないがしろになって部屋も机の上も頭の中さえも混乱の極み、しっちゃかめっちゃかになってしまっていた。忙しさは言い訳にならないがともかく毎日忙しく出かけてばかりいたからだ。

 おまけにそこに春先に家の工事が一応「完成」終了したことで、近くに借りている倉庫に預けてあった本や衣類、雑貨類などが新居に戻すこととなって、ただでさえモノが溢れて混乱していた自室にまたさらにモノが増える結果となった。足の踏み場がないどころか、例として適切ではないが、津波に襲われた沿岸部のガレキの山状態になってしまったのだ。
 それをこのひと月ほど、友人を招いて公開イベントも企画したこともあって、親たちの病院送り迎え以外はほとんど出かけずけんめいに片づけていた。ガレキと同じくまずは分別し整理し保存するもの以外は処分していく。正直なところまだまだボーダイな量が残っていて、果たして年内に整理分別が終わるか心もとないが、それでも当初よりは整理が進んで先行きが見えてきた。

 ようやくだが、今この自らの人生をもう一度再建、再生させたいと思う。家もできたし、親たちもとりあえずは回復している今、最後のチャンスかもしれない。

 残りの人生あと何年あるのか、いつまで体が動くのか不安に思う夜もあるが、焦っても慌ててもしょうがない。ゆっくりでいいから確実に、ていねいに人生の目標に向けて止まることなく歩を進めていくことだ。