脱原発時代に「日本人」の行くべき道2011年07月27日 21時52分45秒

★漂流国家ニッポンの行く末

 今朝方は曇りがちで、いっとき小雨がぱらついた。自転車で古本回収のため朝の町を走っていたら咲き誇るムクゲや百日紅の木の下を縫うように燕が低く飛んでいた。様々な思いがわき出る。
 

 人が生きていくことは生活の糧を得るため働くことも大事だが、いちばんの仕事は子孫を作ることだとこのところよく考える。つまるところそのことは受け継いだ命をまた次へと渡すことであろう。しかし、誰もが当たり前にすることでもそれをしない人もできない人もいるのも事実であり結婚及び子作りや子育ては人として必須のことではもちろんない。

 ならばそれをしない、しなかった者としてできることは何かと考えれば、今まで生きてきて自ら知りえたこと、知識や技術も含めての伝統と文化を構成に伝えることではないだろうか。歴史を語り継ぐ、書き記すということでもある。そうした個人の記憶や技術がきちんと継承されてこそ伝統であり、文化なのだと思う。そしてそれらが市民レベルで蓄積された集合体が真の意味で国家、つまりこの国、日本だと信ずる。

 残念なことにこの国の伝統文化というものは甚だ脆弱であり、江戸の時代まで続き花開いた日本文化は近代に入り開国してからは欧米化の一途を進み、戦後は米国一辺倒となりそして今は韓国化が急速に進んでいる。他国の文化や思想を取り入れことは決して悪いことではないし、心は常に「開国」する必要はあろう。
 しかし言葉も食文化、生活スタイル、思考までも他国に倣ってしまえばその国の独自性、独立した国家としての必然性、存在理由もなくってしまう。かつてのハワイ王国や琉球国ではないが、植民地化しいつしか属国と化し、やがて国家として消滅していく。

 自分はどこそこの右派の論客に与する者ではないし、生涯サヨクの側に身を置き、現憲法を擁護する立場は変わらないが、いったい日本人とは何か、そのアイディンティティはどこにあるのかよく考える。
 米国のように他民族、多種文化の寄せ集めの国ならミックスサラダ、もしくはちゃんぽんになった文化でもかまわないし理解もできよう。しかし島国として独自の言語と文化を有史来続けてきた国家として今のあり方はかなりおかしいと思える。それは明治以降の欧米化であり、戦後の米国化であり、それもまた全世界的傾向だと思わなくもないが、あまりにも日本文化はないがしろにされている。

 日本には独自の素晴らしい伝統文化と固有の思想があった。謙虚であり礼節を美徳とし清貧を良しとしてきたはずだった。山や河、八百万の神を大切にしワビサビの心を持ちモッタイナイと物を慈しんできた。そして繊細かつ多様な語彙の言葉、他に類のない素晴らしい日本語を用いてきた。今そうした古来からの伝統文化が危機に瀕している。

 ならばどうすべきか。自分は某論客女史のように自主憲法を制定し教育として愛国心を幼少の頃より叩き込むことが解決策だとは考えない。また外国人を排斥し日本人による強国ニッポンを目指して国民を束ねることにも賛成しない。
 政治や行政が今とことんダメな体たらくの時代、上から目線で政治家たちに何かやってもらおうとか期待すること自体無駄だと思う。また利潤追求を第一義とする大企業に文化や伝統は任せられないし頼るべきではない。教育も大事だと思うが、学校や教師任せにすべきでもない。

 今、まずは国民一人ひとりが市民レベル、個人レベルで生きていくこととはどういうことなのか、人生を考え真摯に向き合うことではないか。3.11の大震災は、多くの死者、被災者を生んだだけでなく原発事故をも引き起こし、これまでの生活スタイル、日常習慣を見直し再考することをもたらした。関西圏はどうか知らないが、多くの日本人の意識に大きな変化を与えたことは間違いない。
 生活とは何か、家族とは何か、郷土とは何か、いちばん大切にすべきことは何なのか、多くの人が自ら問うたはずだ。自分もまた人の命、家も何もかも全てが儚いものだと思い知った。だからこそ、物ではなく、心、人々の思いを大切にして残すこと、聴き語り継ぐこと、後の世に書き伝えることが肝要だと気づいた。

 ここにはこうした人たちが暮らしてこうした生活があったと次世代に伝えていくこと。一瞬のうちに消えてしまったものを永遠にしていくこと。それが人々、程度の差はあろうと大震災に罹災した人々、日本人のすべきことだと考えた。
 思えば、原爆を二発も落とされた世界で唯一の被爆国が、今また大きな原発事故を起こして放射能を撒き散らし世界に非難されている。日本人ができることはこの教訓を今度こそ活かして、原発ゼロの戦争のための米軍基地もなくし平和憲法を誇る真に愛国心の持てる日本にすることだと夢想した。