情報誌などなかった時代から再び情報誌のない時代へ2011年07月24日 13時34分30秒

★「ぴあ」休刊に思ったことなど

 都内は再び猛暑が戻ったとのことだが、ここ多摩地方は曇りがちで風もあり凌げないほどの暑さではない。さて、気持ちを取り直して残り少なった今月7月中にやるべきことを片づけていこう。

 先に新聞報道などで知ったのだが、雑誌「ぴあ」が紙媒体としての情報誌の役割は終わったとして休刊となったとのことだ。「休刊」とは実のところ廃刊と同義であり、これだけ携帯端末やインターネットが普及した今日、どうしても印刷という時間差が生じてしまう紙媒体での「情報」は遅れをとってもはや有用ではなくなったということに尽きるかと思う。
 本にしろ雑誌にしろ紙ものをこよなく愛する者として残念な気もしなくはないが、情報のみに特化した「情報誌」はもう今の時代は不要なのはいたしかたない。

 しかし「ぴあ」発刊から39年でその役割を終えるということはそうした情報誌が存在しない時代から知る者としてただ感慨深く思ってしまう。まさに隔世の感ありである。では、その昔、ぴあとか存在しない時代は人はどうやってさまざまな情報を得ていたのか。むろん携帯電話だってパソコンだってない時代なのである。電話は一応宅電は店にもほぼ誰の家にもあったけれど。

 自分が青春を過ごした十代はちょうど1970年代と重なっていて、中学、高校、大学と学生時代を存分に過ごすことができた。その直前の時代、68,69の激しい学生運動や反戦安保闘争の熱気は既になかったけれど、まだ街にも学校にも残り香的活気は満ち溢れ、いよいよもって若者文化が花開いた時代であったと思う。それは一言でいえば、規制の文化や価値観に対して対抗する、カウンターカルチャー、今でいうサブカルの誕生期であり、全国あちこちに若者たち自らによるユニークな店、喫茶店、たまり場が誕生してきた。

 1970年、東京では吉祥寺に「武蔵野火薬庫ぐゎらん堂」、両国には「フォークロアセンター」ができたし、大阪難波には「ディラン」、京都には「ほんやら洞」とほぼ時を同じくしてロックやフォークに目覚めた若者たちのたまり場が全国あちこちに自然発生的に生まれた。
 そこでは簡単なライブもできたが、当時も音楽を演り、コンサートやイベントを企画する者、演劇や自主映画の上映会を催す者たちは多く存在した。しかし、その情報伝達の手段は今に比べ格段に少なかった。
 インターネットの今の時代なら、様々なサイトやブログ、掲示板を用い、また自らのホームページで告知すればその情報を求める人は検索しすぐにヒットして伝わっていく。ときにツィッターで増殖してさらに話題になっていくことも多々あろう。
 しかし70年代初頭にできる宣伝手段とすれば、まずはチラシをガリ版ででも刷って、そうした若者たちが集う店に置かせてもらうことであり、あとは人の集まるイベントで配ることぐらいしかできなかった。むろんそれは今でいうフライヤーのはしりなわけだが、今日のように豪華カラー印刷のそれが格安で作れる時代ではなく、コピー機すら普及が遅れていて一枚ごと値段も高く、コピー印刷だって手が出なかったのである。
 また映画を観るにも、どこで見落とした映画がかかっているかは、名画座に直接電話して確認するしかなく、書を捨てよ、街に出でよではないが、ともかくまず街に出ないことには自ら求める情報には簡単に出会えなかったのだ。

 そうした時代に若者のニーズとして生まれたのが情報誌であったのである。つまり情報発信する側も、その情報を求める側にも必要不可欠なメディアとして求められていたからだ。