9.11と3.11の「体験」を人類はどういかすか。 ― 2011年09月11日 01時39分43秒
★永遠と一瞬、偶然と必然。
いまこれを記すのは10日の深夜遅く、日付が変わり11日となってしまった。
このところ連日やたら忙しくて、出かけては終電間近の電車で帰宅している。家を空ければ親達のことも心配で正直気が気ではないのだが、盟友バロンのために何かできることはあるかと思うし、人生は出会いそのものなのだから、自ら殻を閉ざして引きこもる理由は無い。
こんな人間でも受け入れてくれる場があり、多少でも何かお役に立つことあらば外の世界、つまり世間や社会、人間関係を深め自らの世界を広めていきたいと切に願う。
それは今年の大阪での苦い体験を踏まえて、このところ強く思うことだ。
世の中にはまず最初から敵を想定し、狭量な心から相容れないと判断した「敵」を憎み排除することに躍起になる輩がいる。それは共同体の秩序を乱すものでもかまわないし、異宗教を信仰する者、異なる人種でもかまわない。ともかくまず気にくわない「敵」を作り上げては、共同体の利益と安全のためにそれら「敵」を排除し攻撃し排斥していく。
それはかつてナチスドイツがユダヤ人に対してやったことであるし、今ではユダヤ人の国イスラエルがパレスチナの人たちにやっていることでもある。そしてその「心境」は実は誰の心にもあるもので、否定しても仕方ない当たり前のことだと考える。
アメリカを襲った同時多発テロの9.11からちょうど10年になるという。そして奇しくも東日本をおそった3.11から半年となる。一方はテロリスト達に拠る人為的大災害、そして日本は自然の大災害であり何も関係ないと常識では考えよう。しかし自分にはこの二つの11日は、深層のところで共通する人類にとっての大きなメッセージだと思える。この重なりは偶然ではあるが、人類が忘れてはならないための必然でもある。
それはどちらも常識外、想定外の不慮の悲惨な出来事であり、体験した人々に全人的に大きな負荷を与えたことだ。じっさいリアルな直体験がない者にまでも映像などから、及び後からその地を訪れた人にまで生涯忘れる事のできない衝撃を与えるほどの大事件であった。それは一言でいえば表現しようもない怒りと哀しみ、憤りでさえあった。その一瞬の出来事が心には永遠の出来事となってしまった。
アメリカの場合はその怒りと哀しみ、憤りの矛先が、かねてよりアメリカに反抗し敵対していたタリバンらアフガン、「テロリスト」たちやイスラム、イラク人たちに向けられた。ビン・ラディンらが真犯人なのか何一つ判明しないのにブッシュの「正義の戦争」は、9.11の犠牲者の何十倍もの民間人を多く含む死者を生み、世界中を混乱に落としいれた。憎きサダム・フセインやビン・ラディンは殺害できたものの、10年後の結果として今アメリカは経済も国も疲弊し凋落の一途をたどっている。
テロに拠る大惨事と天災による大災害を同一視すべきではないとの声は当然あろう。しかし、天災は起こる、が天災による死者は多くが人災である、と言われているように、福島原発の事故を見るまでもなく今回の大津波の被害は甘い想定が引き起こした人災でもある。
それが未然に防げたかという論は意味がない。問題は起きてしまった惨事を、人はどう受け止め受け入れてこれからもどのような心で生きていくかであろう。
やり場の無い悲痛や哀しみ、憤りを怒りや憎しみに転化することはたやすい。誰それのせいで、誰々が悪いからこんなことが起きたと人は仮想敵をつくり上げる。
今回の大震災において日本人は、国家としては醜態を晒したとしても国民、つまり特に被災に関係した人たちのレベルでは世界に範を示せたのではないか。大正末の関東大震災の時は、全国的にパニックが起きて何の罪もない朝鮮人ら外国人が多く虐殺された。しかし今回の被災地では人々は助け合い譲り合い秩序を保って事態を受け止めた。むろん復興は未だ緒についたところで、先のことは全く見えてはいない。生き残ったものの今も絶望の淵に立ち尽くしている人も多くいると案ずる。
しかし人は起こってしまった惨事を受け入れて、前へ前へと少しでも良くなっていくと信じ希望を持つことができる。起きてしまったことを怒り憎しみ、不安にかられることではなく、哀しみを抱えながらも人を信じ赦し助け合って生きていくこと。
9.11と3.11は、これからも半年ごと、一年ごと、10年ごと節目節目に我々すべての人類に問いかける。大惨事において人はどう生きていくべきか。何を人はすべきなのか。その教訓から何を学ぶのか。そして記憶を風化させていないかと。
いまこれを記すのは10日の深夜遅く、日付が変わり11日となってしまった。
このところ連日やたら忙しくて、出かけては終電間近の電車で帰宅している。家を空ければ親達のことも心配で正直気が気ではないのだが、盟友バロンのために何かできることはあるかと思うし、人生は出会いそのものなのだから、自ら殻を閉ざして引きこもる理由は無い。
こんな人間でも受け入れてくれる場があり、多少でも何かお役に立つことあらば外の世界、つまり世間や社会、人間関係を深め自らの世界を広めていきたいと切に願う。
それは今年の大阪での苦い体験を踏まえて、このところ強く思うことだ。
世の中にはまず最初から敵を想定し、狭量な心から相容れないと判断した「敵」を憎み排除することに躍起になる輩がいる。それは共同体の秩序を乱すものでもかまわないし、異宗教を信仰する者、異なる人種でもかまわない。ともかくまず気にくわない「敵」を作り上げては、共同体の利益と安全のためにそれら「敵」を排除し攻撃し排斥していく。
それはかつてナチスドイツがユダヤ人に対してやったことであるし、今ではユダヤ人の国イスラエルがパレスチナの人たちにやっていることでもある。そしてその「心境」は実は誰の心にもあるもので、否定しても仕方ない当たり前のことだと考える。
アメリカを襲った同時多発テロの9.11からちょうど10年になるという。そして奇しくも東日本をおそった3.11から半年となる。一方はテロリスト達に拠る人為的大災害、そして日本は自然の大災害であり何も関係ないと常識では考えよう。しかし自分にはこの二つの11日は、深層のところで共通する人類にとっての大きなメッセージだと思える。この重なりは偶然ではあるが、人類が忘れてはならないための必然でもある。
それはどちらも常識外、想定外の不慮の悲惨な出来事であり、体験した人々に全人的に大きな負荷を与えたことだ。じっさいリアルな直体験がない者にまでも映像などから、及び後からその地を訪れた人にまで生涯忘れる事のできない衝撃を与えるほどの大事件であった。それは一言でいえば表現しようもない怒りと哀しみ、憤りでさえあった。その一瞬の出来事が心には永遠の出来事となってしまった。
アメリカの場合はその怒りと哀しみ、憤りの矛先が、かねてよりアメリカに反抗し敵対していたタリバンらアフガン、「テロリスト」たちやイスラム、イラク人たちに向けられた。ビン・ラディンらが真犯人なのか何一つ判明しないのにブッシュの「正義の戦争」は、9.11の犠牲者の何十倍もの民間人を多く含む死者を生み、世界中を混乱に落としいれた。憎きサダム・フセインやビン・ラディンは殺害できたものの、10年後の結果として今アメリカは経済も国も疲弊し凋落の一途をたどっている。
テロに拠る大惨事と天災による大災害を同一視すべきではないとの声は当然あろう。しかし、天災は起こる、が天災による死者は多くが人災である、と言われているように、福島原発の事故を見るまでもなく今回の大津波の被害は甘い想定が引き起こした人災でもある。
それが未然に防げたかという論は意味がない。問題は起きてしまった惨事を、人はどう受け止め受け入れてこれからもどのような心で生きていくかであろう。
やり場の無い悲痛や哀しみ、憤りを怒りや憎しみに転化することはたやすい。誰それのせいで、誰々が悪いからこんなことが起きたと人は仮想敵をつくり上げる。
今回の大震災において日本人は、国家としては醜態を晒したとしても国民、つまり特に被災に関係した人たちのレベルでは世界に範を示せたのではないか。大正末の関東大震災の時は、全国的にパニックが起きて何の罪もない朝鮮人ら外国人が多く虐殺された。しかし今回の被災地では人々は助け合い譲り合い秩序を保って事態を受け止めた。むろん復興は未だ緒についたところで、先のことは全く見えてはいない。生き残ったものの今も絶望の淵に立ち尽くしている人も多くいると案ずる。
しかし人は起こってしまった惨事を受け入れて、前へ前へと少しでも良くなっていくと信じ希望を持つことができる。起きてしまったことを怒り憎しみ、不安にかられることではなく、哀しみを抱えながらも人を信じ赦し助け合って生きていくこと。
9.11と3.11は、これからも半年ごと、一年ごと、10年ごと節目節目に我々すべての人類に問いかける。大惨事において人はどう生きていくべきか。何を人はすべきなのか。その教訓から何を学ぶのか。そして記憶を風化させていないかと。
コメント
_ 今井くるみ ― 2011/09/11 23時22分21秒
出会いは偶然でも結びあうのは必然という。。。。。。だから大事にする。。。。。いま生きているのも不思議な偶然的必然
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