汝の薪をはこべ ― 2012年10月14日 17時11分51秒
★自分の薪をためるとき
それにしても寒くなった。うすら寒いとか肌寒いという表現を通り越して本格的に寒くなってきた。でも考えてみれば10月も半ばであり、これが正しい本来の季節、気温なのだそうだ。あまりに夏が長く暑かったから寒さに免疫がまだできていないからこの程度の気温で騒いでいる。
さて、一晩あけて今日は曇り空。今にも雨が降りそうだったが日中は降らずにすんだ。ただ昨日とは段違いに気温が低い。浅草まで出かけるのは小旅行であるからさほど帰りも遅くならなかったもののやはり疲れている。
友人の活躍と成功は誰だって嬉しいはずだ。だが人はなかなかそれを手放しでは喜べない微妙な気持ちも持つ。羨む、嫉妬や妬み、やっかみという感情は人間だからこそ、いや犬だって持っている。
でも岡大介に関しては歳も二十歳も離れていることもあり、本当に純粋に喜ばしく思う。人間的にはちゃらんぽらんなところはあっても音楽に関する志だけは常にしっかり見失うことのない努力家の彼だからようやく報われ売れて来たのである。孤高の才人土取利行氏との出会いは彼のその行いの正しさが結びつけた僥倖だとつくづく思う。人徳であり人との出会い運が彼は実に強いと改めて感心する。
ただ一つ気にかかるのは、そうして高みに上っていくと自分のような者はやがて相手にされなく、もう気軽に付き合ってもらえないかもという心配である。それこそ友人の成功に倣ってこちらも奮起して少しでも向上していかねばならないと今思う。※岡さん、有名になっても増坊のことを忘れないでくださいね。
ただ最近、臆している気持ちなのか、自分がダメだということではなく(それは自明のことだから今さら悩みも困りもしないが)、何をするにせよまだその時にあらずという気持ちがしている。それはまだ自分には知識も技能も含めた「力」が備わっていないという認識なのである。
先日、検査で胃カメラを口から入れられ、かなりつらく苦しかったことは既に書いた。そのとき、いや最中ではなくその直後なのかふいに考えたことは、「残りの人生、悔いなきよう生きねばならない」という啓示であった。そして自分はまだ何もしていないしどこへも行っていない、まして何も知らないし何一つできない、と気がついた。
物心ついてからだって半世紀50年以上も生きてきた大の男がそんなことを告白すると嗤われて当然だ。しかし、これは本心、ほんとうのことであり、外国どころか日本だってまだ行ったことのない県がいくつもあるし、この世は経験したことのないことばかりだと気がつく。
じっさいモノは何でも持っているし時間もたくさんあり何でもできたはずだが、それは「ある」というだけでちっとも活用しなかった。常にいつかそのうち、と先延ばしにしてある意味人生を放擲していたのである。
いつかそのうち、ヒマになったら、と先延ばしにして気がついたらこんな歳になっていたのだからある意味自分としては玉手箱を開けた浦島太郎のような気持でもある。気がつくとあっという間に老人になってしまっていたと。
先の検査の結果はまだ聞いていないが、あと何年この体が動き、人生が残っているのかわからないが、死ぬときに思い残すことのないよう悔やまないようもっともっとあれこれやっていきたい。行きたい場所もたくさんあるししたいことも山ほどある。読みたい本も聴きたいレコードも、書き記したいことも山積みなのだ。
しかし反面、何をするにせよ、特に人と関わるようなことはまだまだ自分は力不足で何一つできない、する資格などないという気持ちも強い。これは正しい自己認識だと考える。今まではあまりに無鉄砲というか、いろんな意味で若く愚かで考えなしだったから何でもできた。そして結果として多くの失敗、失態、失言、過ちを積み重ねた。自分はどれほどの人間だと考えていたのか。
葛飾のほうでやはり自宅でフォークシンガーを迎えてライブをやっている友人は「マスダはもっと苦労させたほうが良い」と言っていたと人伝に聞いたが、今はまさにその通りだと自分でも思う。いろいんな意味で恵まれた幸せ者であった自分は本当に苦労知らずであった。
だから本当は家にこもって自らを磨き、力を溜めるべきときなのである。しかし、そんなことを言っていたら何一つできないままできっと「そのとき」=お迎えが来るであろう。だからこそ、並行してやっていくしかないし一人籠るのではなく、人との関わりの中で自らを岡さんのように高めていくしかないのである。
拙ブログの読者なら当然ご存知かと思うが、三好達治の詩が今このとき、この季節に心にしみいる。その名詩「汝の薪をはこべ」の一部を載せておく。※汝は「なれ」と読む。パソコンでは出ない漢字はひらがなにした。
汝の薪をはこべ
春逝き
夏去り
今は秋 その秋の
はやく半ばを過ぎたるかな
耳かたむけよ
耳かたむけよ
近づくものの声はあり
窓にとばりはとざすとも
訪なふ客の声はあり
落葉の上を歩みくる冬の足音
薪をはこべ
ああ汝
汝の薪をはこべ
今は秋 その秋の
一日去りまた一日去る林にいたり
賢くも汝の薪をとりいれよ
《以下略》
それにしても寒くなった。うすら寒いとか肌寒いという表現を通り越して本格的に寒くなってきた。でも考えてみれば10月も半ばであり、これが正しい本来の季節、気温なのだそうだ。あまりに夏が長く暑かったから寒さに免疫がまだできていないからこの程度の気温で騒いでいる。
さて、一晩あけて今日は曇り空。今にも雨が降りそうだったが日中は降らずにすんだ。ただ昨日とは段違いに気温が低い。浅草まで出かけるのは小旅行であるからさほど帰りも遅くならなかったもののやはり疲れている。
友人の活躍と成功は誰だって嬉しいはずだ。だが人はなかなかそれを手放しでは喜べない微妙な気持ちも持つ。羨む、嫉妬や妬み、やっかみという感情は人間だからこそ、いや犬だって持っている。
でも岡大介に関しては歳も二十歳も離れていることもあり、本当に純粋に喜ばしく思う。人間的にはちゃらんぽらんなところはあっても音楽に関する志だけは常にしっかり見失うことのない努力家の彼だからようやく報われ売れて来たのである。孤高の才人土取利行氏との出会いは彼のその行いの正しさが結びつけた僥倖だとつくづく思う。人徳であり人との出会い運が彼は実に強いと改めて感心する。
ただ一つ気にかかるのは、そうして高みに上っていくと自分のような者はやがて相手にされなく、もう気軽に付き合ってもらえないかもという心配である。それこそ友人の成功に倣ってこちらも奮起して少しでも向上していかねばならないと今思う。※岡さん、有名になっても増坊のことを忘れないでくださいね。
ただ最近、臆している気持ちなのか、自分がダメだということではなく(それは自明のことだから今さら悩みも困りもしないが)、何をするにせよまだその時にあらずという気持ちがしている。それはまだ自分には知識も技能も含めた「力」が備わっていないという認識なのである。
先日、検査で胃カメラを口から入れられ、かなりつらく苦しかったことは既に書いた。そのとき、いや最中ではなくその直後なのかふいに考えたことは、「残りの人生、悔いなきよう生きねばならない」という啓示であった。そして自分はまだ何もしていないしどこへも行っていない、まして何も知らないし何一つできない、と気がついた。
物心ついてからだって半世紀50年以上も生きてきた大の男がそんなことを告白すると嗤われて当然だ。しかし、これは本心、ほんとうのことであり、外国どころか日本だってまだ行ったことのない県がいくつもあるし、この世は経験したことのないことばかりだと気がつく。
じっさいモノは何でも持っているし時間もたくさんあり何でもできたはずだが、それは「ある」というだけでちっとも活用しなかった。常にいつかそのうち、と先延ばしにしてある意味人生を放擲していたのである。
いつかそのうち、ヒマになったら、と先延ばしにして気がついたらこんな歳になっていたのだからある意味自分としては玉手箱を開けた浦島太郎のような気持でもある。気がつくとあっという間に老人になってしまっていたと。
先の検査の結果はまだ聞いていないが、あと何年この体が動き、人生が残っているのかわからないが、死ぬときに思い残すことのないよう悔やまないようもっともっとあれこれやっていきたい。行きたい場所もたくさんあるししたいことも山ほどある。読みたい本も聴きたいレコードも、書き記したいことも山積みなのだ。
しかし反面、何をするにせよ、特に人と関わるようなことはまだまだ自分は力不足で何一つできない、する資格などないという気持ちも強い。これは正しい自己認識だと考える。今まではあまりに無鉄砲というか、いろんな意味で若く愚かで考えなしだったから何でもできた。そして結果として多くの失敗、失態、失言、過ちを積み重ねた。自分はどれほどの人間だと考えていたのか。
葛飾のほうでやはり自宅でフォークシンガーを迎えてライブをやっている友人は「マスダはもっと苦労させたほうが良い」と言っていたと人伝に聞いたが、今はまさにその通りだと自分でも思う。いろいんな意味で恵まれた幸せ者であった自分は本当に苦労知らずであった。
だから本当は家にこもって自らを磨き、力を溜めるべきときなのである。しかし、そんなことを言っていたら何一つできないままできっと「そのとき」=お迎えが来るであろう。だからこそ、並行してやっていくしかないし一人籠るのではなく、人との関わりの中で自らを岡さんのように高めていくしかないのである。
拙ブログの読者なら当然ご存知かと思うが、三好達治の詩が今このとき、この季節に心にしみいる。その名詩「汝の薪をはこべ」の一部を載せておく。※汝は「なれ」と読む。パソコンでは出ない漢字はひらがなにした。
汝の薪をはこべ
春逝き
夏去り
今は秋 その秋の
はやく半ばを過ぎたるかな
耳かたむけよ
耳かたむけよ
近づくものの声はあり
窓にとばりはとざすとも
訪なふ客の声はあり
落葉の上を歩みくる冬の足音
薪をはこべ
ああ汝
汝の薪をはこべ
今は秋 その秋の
一日去りまた一日去る林にいたり
賢くも汝の薪をとりいれよ
《以下略》
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