当ブログへのコメントなど「投稿」についての見解2013年05月20日 08時51分28秒

★どのようなコメントでも「無視」より有難い。

 これは以前ちょっと記した記憶もあるのだが、拙ブログでのコメントやトラックバックなど「投稿」について当方の考えを改めてお知らせしたい。まあ、仕様説明書のようなものだ。本当はトップページにでも載せておけたら良いのであるが。

 加川良さんのうたに、「いちばん哀れな女は忘れられた女です」という一節があったと記憶するが、哀れかはともかく自分にとって一番ツライのは、無視されること、誰からも相手にされないことだ。

 昨日、先だって自分が大阪の橋下氏について書いた記事についてコメントを頂いた。記名はあるもののハンドルネームであるし、メルアドなど連絡先もいっさいない。
 またその内容は自分の記事についての異論、反論であると思える。しかし、書いておられることは真摯なご意見でまっとうであるし、マス坊と考え方が違うからと言ってそれを無視し消してしまうべきではない。そう判断して今アップしてある。ぜひお読みいただきたい。

 説明が遅れたが、今このブログのシステムは、コメントやトラックバック申請が届いてもまずそのお知らせがあり、こちら、つまり管理者がそれを許可しない限り自動的にはアップできないようになっている。
 何故そうしたかというと、以前やっていたブログで、知人とあることからトラブルになり、そのブログ上に執拗な攻撃書き込みをされた経験があったこと。そして自由に誰でも書き込めるようにしておくと、全くブログ内容とは関係のない靴やバックなどのブランド品の宣伝広告や下品なスパムコメントやトラックバックが大量に届きそれを消すのに大変になるからだ。
 その上で、自分の書いた記事についてのご意見、感想などはたとえ自分とは相容れない反論異論であろうとも届けば常にそのまま載せている。

 前やっていたブログも含めればブログを始めてもう10年近くになるかと思う。そのときどき、無名の自分が考えたことや思うこと、それに私的連絡事項などを気の向くまま自由に好き勝手にただ書き連ねている。
 これは自分の趣味であり、気軽にできる一つの表現行為であり、別に誰かに読まれなくても反応が全くなくても関係なく書き続けている。まあ「日記」のようなものでもある。が、すべてのうたは聴き手を求めているように、書かれたものもまた読み手を求めているならば、当然のこと読み手からの反応、反響があると嬉しい。

 告白すると書いて何の反響がなくてもかまわないと言いつつ、このところの拙文のように、それなりに力入れて時間かけて書いた記事が続いても一切誰からもコメントがないと正直失望してくる。いや、失望以前に無意味なことを書いているのかと不安にもなるし気持ちも萎えてくる。書くからには誰かに読んでもらいたい気持ちがあるし、読んで頂いているという実感が誰だってほしい。

 そんなとき届いたコメントは、記事に対してのどちらかというと反論異論であったが、それでも全くの「無視」よりも有難く思えた。なぜならその方は、拙文を読み、感想を持たれ自らのご意見をわざわざ書き込んでくれたのである。そのために時間を割いてくれた。自分のような者と関わりを持とうとしてくれたのだ。考え方は異なろうとそのことはすごく嬉しい、有難いではないか。
 が、「あなたはどの様にお考えですか? 」と問われてもそのコメントには直截返答はしないことをこの場で答えておく。

 もともとコメント数が少ないこのブログであるが、それは自分が頂いたコメントについて一つ一つフォローしないからだと言われたこともある。しかし、何かの記事についての問い合わせなどであれば、知人など連絡先がわかればすぐに個人的に返答はしているし、そこに投稿者のメルアドが記してあれば連絡はとっている。ただ、それ以外の個々のコメントや感想についてはこちらはそれにコメントしない方針でいる。

 というのは、異論、反論などのご意見についてまたこちらがさらに反論していると、論争が続き永久にいたちごっことなって終わりがないからだ。
 橋下氏ではないが、それはその人個人の考え、持論であり、それを周囲がいかに批判しようと当人はその考え方を改めはしない。逆にかえって躍起になって持論に固執し、それが伝わらない日本人には読解力がないと嘆く。ならば何人ならば彼の持論を容認するのか問いたいが、人とは結局こうしたもので、それはこの自分もまた同じなのである。

 自分は、頂いたコメントにあるように「米軍がなければ残念ですが他国に侵略され」るとは考えない。が、そのことに関しての「解答」は誰にも出せない。歴史にもしもを考えても意味ないし、米軍がいたから侵略されなかったかどうかはそう考える人には真実であろうし、認めない人には欺瞞であろう。いずれにせよ起きていないことについてはどのようにでも解釈ができるのだ。歴史に数学のような正答は存在しない。

 ならばそうした「論争」をしても意味はなく、場合によっては互いにエキサイトして事態は泥沼化していく。ただ、もとより自分の考えが絶対的に常に正しい、正義ではないと思う者として、他のご意見こそ拝聴すべきであるし、自らと異なる意見、考えは抹殺するのではなくそれもまた併記すべぎだと信ずる。橋下氏は大阪では独裁者的に自らと異なる考えの者たちを弾圧してきた。自らに従わせようしてきた。自分もまたその愚を犯して絶対にならないと心する。

 異なる意見、考えだろうと言論の自由は常に保障されなくてはならない。こんな無名の個人ブログでも。だから反論や異論であろうと、何か読まれて考えたことなどどなたでもどしどしお気軽に記して頂きたい。マス坊はこう考え、そう信じて書くが、異なる意見、考えこそが重要なのである。世の中には様々な考え方がある。世界は多様化している。そのことにより読み手はまたさらに思慮を深めることができるのだ。

 今回のコメント内での私への「問いかけ」については考えを深めたうえで拙ブログの中でまたおいおい「返答」していきたい。