世間の見る自分像もまた自分なのである。2013年05月27日 03時04分13秒

★主観と客観のあいだの自分

 おかげさまで、26日無頼庵、三留まゆみ映画塾はまたも盛況のうちに終了した。ご参加ご支援ありがとうございました。今当日の零時をとうに過ぎてこれを記している。

 今回もいつもながら宣伝も遅れ動員もかけず、まあ、塾長自ら7名ほど入れば・・・と参加者が来ないことを予想されていたのに、十名を超すほぼ常連のお客様が駆けつけてくれて嬉しい結果となった。有難いことで満足感をおぼえている。彼女も同じかと思う。前回のようにあんまり参加者が多いと場のまとまりを欠くので最適だったか。

 金曜のライブからの疲れが溜まりにたまって、もう今日は限界であった。もう何回もこうしたイベントはやっているのに、日ごろから片付けや掃除、整理整頓をしていないのがいけないのだが、毎度ながら空間確保に大わらわとなってしまう。
 基本がウチは準ゴミ屋敷なので、人が連日来ているならともかくも少し時間が空くと、すぐにあちこちにモノがあふれ掃除もしてないので慌てて片付けに追われの大騒ぎ。何でも同じことだが、常日頃からからきちんとしていれば何も問題ないし慌てないし動じない。それができないから人が来るとなるとひと騒動となるのである。まさに愚図の大忙しだ。

 もう、今回でこうした騒動は終わりにしたいとつくづく思った。あるいは、あるがまま、ゴミ屋敷であろうとも取り繕らわず、そっくりそのまま見せてしまう勇気があるかどうかだ。何にせよ、家も人も同じことで、来てくれた人の見方だからそこでどう思われても仕方ない。ただ、どれだけ人に不快感を与えないか、居心地よく満足度数を上げられるかでしかない。

 まあ、そんなで大忙しで、気がつけば、26日当日はブログを書く時間=パソコンに向き合う暇もなく、零時を過ぎて深夜となってしまった。こんな遅く起きているのは久々である。今晩は遠くから来てくれた映画関係ではないミュージシャンの友人が泊まっている。

 パソコンを開くと、大阪の市長が、自らの「慰安婦容認」発言について「容認は誤解」と今頃になって抗弁している。また、米国と米国民については、先の「風俗業活用の勧め」発言については撤回と謝罪をしたとのことである。
 マス坊の個人的認識と見解としては、アメリカに謝る以前に、全女性、それも沖縄の風俗業に関わる女性も含め沖縄の人たち全員に謝罪し自らを深く恥じ入るべきだと考えるがどうだろう。

 米兵による「犯罪被害に苦しむ沖縄の問題を解決したい」と本気で考えているならばそもそも基地をなくせばすむ話なのに、肝心要のそこには思い至らぬようだ。ゆえにそれは「誤解」ではなく、本音なのである。つまり、風俗業活用という発想の根底に、「慰安婦」がどっしりと存在している。兵士には性的慰安が必要、ゆえに風俗業=慰安婦容認となるのである。そんなことは誰だって見当がつく。
 世界に向けどんな「見解」を発表し、言い訳の釈明をしようと一度口にした発言は取り消せない。そこに真意は最初から示されている。

 またいちばん 違和感を覚えるのは、見解文に「本来の私の理念や価値観と正反対の人物像・政治家像が流布しているのがこの上なく残念」とある部分だ。これは政治家以前に、大の大人はこんなことは臆面なく言わない。子供の言いでしかない。
 なぜなら他者が見て判断した「自分」もまた「自分」なのである。自分はそうでないのに、正反対にまで「誤解」されたのならそこには相応の理由はあるし、自らの不徳を恥じるしかないのである。

 こう書く自分=マス坊も自らはそう認識していないのに、世間では常に問題児、トラブルメーカーと目されていて内心不本意でならない。某フォークシンガーには、会う都度「あっ、問題児が来た」とからかわれて苦笑する。こんな温厚な、篤実な人間がなんでそんな風に言われたり思われるのか納得いかない。他者からの「正反対」の評価に悩みもしたが、今はそれもまた仕方ないと諦観している。
 なぜなら、自分が考えている「自分」と他者が見て判断する「自分」は別であり、その二つを含めてが「自分」なのである。自分は自分だけだけで生きてはいけないし、他者が見て認識する自分も全てではない。主観と客観は当然違う。

 「人は見かけではない」という格言がある。しかしそれは間違いであって、じっさいのところ「人は見かけなのである」。
 汚い靴や、汚いかっこうをしている人は、薄汚い人、貧乏な人と判断されても仕方ない。汚いかっこうかもしれないが、俺は気にしないし、心はきれいだ、と思っていてもそれは伝わらないし、他者の認識は「汚い貧乏な人」なのである。どう抗おうとその感想は撤回できない。

 橋下氏も「「本来の私の理念や価値観と正反対の人物像・政治家像が流布しているのが残念」と嘆くよりも、そう判断され流布に至った原因を深く考えるべきであろう。そう思われるには必ず何か理由がある。そしてその評価も含めて「自分」なのである。
 本来の私とは正反対だとしてもそれもまた自分、その自分を受け入れて付き合っていくしかない。俺はもう人からどう思われようと何を言われてもどうでも良くなったが、客観と主観の二つの「自分」の溝、その違いを埋めていく、あるいは統合していく作業もまた「人生」なのだ。

 昨今世間ではよく、「本当の自分」という言葉が大流行りである。本当の自分をみつける、とか本当の自分を知ってほしいなどという。でも本当の自分なんて実はどこにもない。自分が考えているイメージの自分と、他者が抱くイメージの自分を含めて「自分」なのだ。
 なのに本来の自分とは正反対に誤解されていると嘆くとは、大阪の市長は弁護士にもなったオツムがある方なのに、実に子供的、幼いなあと呆れてしまった。ならば「本来の私」を言行も含めて誤解されないよう襟を正して示せばよいではないか。
 だが米軍高官に、兵士には風俗活用をと雑談にせようっかり進言する、それこそが本来の自分でしょ。