旧い上着よ、さようなら2016年02月15日 07時04分52秒

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 春の嵐が過ぎ去り、突然春がきた。
 昨日(14日)の朝、表に出たら夜半の強い風雨で台風の後にように植木の鉢は倒され庭先は惨憺たる有様だった。木々は先に剪定したばかりだったから被害はなかったが。
 そしてその嵐のあとは晴れたら一気に汗ばむほどに気温が上がった。5月頃の陽気だとテレビは報じていた。寒いのも辛いが、急に暑くなると気持ち悪く、体調がついていかないからか昨日は一日頭が痛かった。
 まあ、たくさん着込むより身軽に、Tシャツ一枚に素足で過ごせるならどれだけ楽か春の訪れで確認できた。そして思う。何で、あんなに着込んでいたのか、その必要があったのかと訝しくさえ感じる。

 フランス人は、じっさい何枚洋服を持っているか知らないが、件のベストセラー本ではないが、確かに彼らは持ち物は少ない。人は裸で、無一文で生まれ、何一つあの世に持って行けず、また裸で死ぬのだから本当は何もいらないのである。ある意味、日々の食事と当座の着るもの、そして安心して眠れる寝床さえあれば事足りる。
 かといって、生活道具、生きていくのに必要なものは、百円ショップでの使い捨て的なもので十分かというわけではない。もちろん今はそれで食べ物から下着類、老眼鏡まで買えるのだから品質にこだわらなければ百円ショップだけでほぼ人生をおくれる。
 だが、百円ショップで事足りる人生の価値は、百円の価値しかないのではないか。そこに行けばつい安いからとあれこれ使わないガラクタやすぐ壊れてしまう、アイディア商品のようなものをいくつも買い込んでしまう。そして結局ろくに使いもしない。そしてそうしたものに囲まれて、限りある金と人生を消費していく。

 ならば仏人のように、できるだけモノは持たず、持つとき、買う時はよくよく吟味して、本当に必要なものを、長く使えるように価格は高くても良いものを選んで身の回りに置いていく。それは絶対的に正しい。
 それは一点豪華主義とは違う。安い賃貸アパートに暮らしながらも派手な外車に乗っている男を知っているが、そうした贅沢は金さえ入ればとめどもなく広がっていく。
 それは欲望であり、物欲であり、生活の質とモノの値段は比例はするが、高級品は良いものと同義ではないし、持っている金の多寡と人生の質や価値と関係しない。
 それよりも生活の質、人生の価値をどう高めるかが問われている。

 何でこんなことを書いているかといえば、仏人とは真逆の、物好きである者として、今さら彼らのようなシンプルライフに憧れて断捨離などしないが故、物との関係をこのところずっと考え続けているからだ。生きていくのにいったい何が、どれだけのものが必要なのかと。
 この歳まで生きて、あれこれ大概のものは手に入れてもうほぼ過不足なく、いや、過剰にはあるが、ないものはもはやほぼない状況となった。それは質の低い、百均レベルだとしてもだ。
 ならば今これからは、そうしたものを整理分別して、本当に必要な、じっさいに使うものだけを我が人生に置こうと思う。本当に確かな良いものを残すべく。
 
 古い上着よ、さようなら、とは名曲「青い山脈」の一節であるが、まさに戦後のあの一時期、大衆の心にはそうした気概が満ちていたかと思いやる。軍人や官憲が威張りちらし、個人の自由や人権は一切国家の名の下に抑圧されていた軍国主義、全体主義の世は敗戦によって終わり、民主主義と平和憲法という新しい思想がこの国にもたらされたのだ。
 それがいつしか逆戻りして、日米軍事同盟と再軍備の末の解釈改憲、さらには九条を変えるべく明文改憲せねば、違憲状態だと安倍晋三は詭弁の極論を吐く世相となった。軍備には軍備で立ち向かうことの無理とその結末は、アメリカのような銃社会がもたらす繰り返される悲惨な事件を見なくとも誰でもわかることではないか。

 一方金権政治は、甘利氏の疑惑を見るまでもなく自民党の体質としてまさに旧態依然であり、どれほど政治改革が叫ばれ選挙制度改革はやったとしても何一つ口利き政治は変わりはしない。大企業からの献金を是とする政治家たちは相変わらず汚職の金まみれなのである。
 そんな奴らの旧い政治の総仕上げが、憲法改正であり、今また今の日本人全員に古い上着を無理やり着せようとしているのだ。しかもその上着には個別に識別番号、マイナンバーが付いているから脱ぎたくても一度着たら絶対に脱げないような仕組みなのだ。
  
 今の日本の政治、そうした旧態依然の戦前のものに戻すか、改めて今、窓を開けて民主主義、憲法を守る立憲主義という新しい風を迎え入れるか、今我々は真に問われている。
 春が来た。古い上着はもう二度と着たくない。窓を開け放して風を取り込みTシャツ一枚で生きて行こう。