人生の夕暮れ時に・22016年03月06日 21時58分10秒

★これも「病気」「障害」だとしても アクセスランキング:115 位

 我、マス坊を知る者は、たぶん誰もが感じているだろう。この男はヘンだと。人間社会の中で、どうにも受け入れがたい、対応に困惑する「違和感」と「異質感」、それこそが我の個性であって、実はその当人こそいちばんそれを自覚し他者との付き合い方、距離の取り方がこの歳になってもまったくつかめないでいる。

 しかしそんなことよりも生きていくうえで一番悩む、困ることは、ともかく何事もきちんとできない、つまりモノゴトを片付けられないことで、その結果として様々なトラブルや失敗、面倒な事態が多発していく。だらしなさの極致が我だと言いえる。
 我が人生を振り返れば、まさにそうしただらさなさ、きちんとできないことからの失敗失態の連続であり、仕事も続かず恋人との関係も長続きせず、友人もできては失うことの繰り返しとなるのは、そのとうぜんの結果、帰結なのである。

 これは韜晦でも自己憐憫、自慰的内省でもなく、まったくもって我ながらどうしてこうなのかと呆れかえる。しかし、だからと言って、してしまったことを振り返り悔やんでくよくよしたり絶望に苛まれても、そんな眠れぬ夜は自殺しか道はないわけで、「生まれてすみません」と記して死んでしまえばもう人様にご迷惑はかけないかわりに、老親を深く哀しませ我は地獄に墜ちていく。
 今は、我はそんなどうしようもなく罪深い我をも見捨てず愛してくれる「神」の存在を知ったから、こんな我を生かし、生きているのには理由があると信じて、とにもかくにも死なずに、こんな我ができること、なすべきことを自問しつつこの時代を生きている。

 しかし、何をやるにしてもその処理能力の遅さ、判断の甘さ、考えの浅さはどうしようもなく、一番の問題は、まずともかく部屋が片付かず、常にしっちゃかめっちゃかとなって、結果として必要なもの、使うもの、大事なのものがみつからないという騒動を繰り返す。
 ある意味、我がだらしなさは、革命的にだらしない。いや、それだと良いことのようにとられてしまうから犯罪的ですらある。

 ウチでは、無頼庵と称して、拙宅二階の全部繋げば二十畳ほどのスペースを開放して、フォークシンガーを招いてライブや大型テレビでビデオ上映する「映画塾」をやっていた。
 が、その企画の度毎に、毎回その数日前から大騒ぎで部屋の片づけ、掃除に追われて当日、客入れの直前までも空間設営、スペースを作るのに必死となってしまう。
 毎回やっているのだから、何故にそうした「騒動」を繰り返すのかと自分でも訝しく思うが、そこは生活の場でもあるから、いったん何もない空間ができたとしても時間と共にまたじょじよにモノは増え続けてすぐに足の踏み場がなくなってしまう。ごく頻繁にイベントが続けばそうならないが、今は間に何ヵ月か空いたりしてしまうといくら友人ムラコシ氏が朝から来て懸命に片づけてくれても常に元の木阿弥となる。

 どうしていつもこうなのであろうか。若い時からずっと悩んできた。むろん常に何事もきちんとできる人にとっては、そんなん当たり前じゃないか、いったい何故そんな簡単なことができいのかと逆に不思議に思うであろう。バカかこいつはと。頭おかしいんとちゃうと。そう、頭がおかしいのである。

 大人になってから古本屋という稼業故に偶然手に取った本で知ったことだったが、この世には「片付けられない症候群」なる「病気」が存在している。それは英語では、ADHDといい、注意欠陥/多動性障害と訳されている。詳しいことは、専門のサイトがあるのでご参照頂きたい。
http://adhd.co.jp/otona/shoujou/animation.html
 そこにも大人のADHDについて詳しく漫画などで症例が紹介されている。じっさいのところ、我は病院に行き、検査受けたことなどないが、おそらくほぼ間違いなくこの病気に当てはまる。まさに、そこに書いてあるように、『大人のADHDといっても、大人になってから初めて出現するものではありません。不注意、多動性、衝動性という3 つの症状に、子どものころからずっと悩まされており、多くの人は自分なりの工夫や対策を考えて努力していますが、それにもかかわらず、状況が改善せず大人になり、うまく生活することができず困っているのです』。
 そしてそこのリストにある、
多動性

・落ち着かない感じ
・貧乏ゆすりなど、目的のない動き


衝動性

・思ったことをすぐに口にしてしまう
・衝動買いをしてしまう


不注意

・仕事などでケアレスミスをする
・忘れ物、なくし物が多い
・約束を守れない、間に合わない
・時間管理が苦手
・仕事や作業を順序だてて行うことが苦手
・片付けるのが苦手

          こそ、まさに我マス坊の性格、特性そのものであり、その考えなしの衝動的性格も含めて、ああ、俺はそうだったのかと得心してしまった。でも、だから何なんだである。
 そう、それが「病気」「病的結果」だとしたとしても何一つ問題は解決しない。
 鼻水や咳、熱が出たとして、病院でインフルエンザだと診断されれば、病名はわかるしどう対処すれば良いか指示され、薬も出してもらえる。が、このADHDは効果的治療薬はないようだし、医者に行き、そうだと認定されたとしても何一つ事態は改善されるわけでもない。そう、治るわけではない。
 できることは周囲が、この人はそういう「病気」なんだと理解しそのうえで、そういう障害がある人だとわかって付き合ってもらうしかない。しかし、私はADHDなんです。皆さんにご迷惑かけますが、病気なんで宜しくお願いします、ご理解のうえお付き合いください、と言い回ったって何になろう。まったく意味がない。

 まあ、何にせよマスダのこのだらしない、片付けられない、何事にも迂闊な考えなしの性格、気質は、たとえ脳の機能障害だとか病気だとしてもそれで免罪されることでも社会的に容認されるわけでもないのは当然であろう。仮にADHDだと認定されたとしてもそれに甘んじ安穏とするのではなく、治らないまでもその症状を悪化させないよう、より軽度のものへとしていく努力はこれからも常に求められる。
 そしてようやくだが、今回のショック療法は、ある程度少しでも効果を上げ始めた気がしている。

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