死に行く人と生きることとは2016年08月15日 23時07分54秒

★死に向かいつつある人と暮らして、本や話で知ることと実体験の大きさを痛感している。

 母はまだ生きている。まず、いろいろご心配されて励ましのメールやお手紙など、あるいはお見舞いの品をお送りして頂いた方々にとりあえずこの場で御礼申したい。
 本当は個々個別に、きちんと返礼の手紙なり、せめて返信メールを、と思うものの、じっさい日々疲労と睡眠不足は限界ギリギリまで達していて、今はとてもそうした時間がとれない。
 一昨日は、父の騒動で前夜ほとんど一睡もできなかったので、倒れ込むように、我も失神して眠ってしまった。昨晩は、母の体調が悪く、夜間だったが、外来診察を頼み、初めて家で点滴入れてもらった。
 その点滴が終わって母の腕から針を抜かねばならないので、午前2時まで、枕元で必死に睡魔と闘い、一仕事終えてやっと眠った。
 正直、ブログ書くどころではない。そして、こうして我が状況、つまり老いて病み、死に向かう者たちの現況、レポートのようなものを書き記すことの我の身勝手さ、後ろめたさもこのところ痛感している。自分のやっていることについて自問している。

 死者は生者を煩わすべからず、ならば、死に行く者もまた同様なのではないのか。
 というのは、母の友人で、いろいろお世話になっている人から、入院中に何度も電話があったので、退院後、こちらから母にスマホでベッドの上から電話させた。

 その際、こちらからつい、食事が摂れなくて痩せてむくみも出て大変だとか話してしまった。そしたら、その方はその後大変心配されて、ウチの宅電に何度も、栄養ドリンクを薄めて飲んだらどうか、梅干しを何々してどうのとか、いろいろ食事が進むよう、アドバイスを我にしてくれた。
 実に有難いと思う。が、試してみる価値はあるかとも思うが、エンシュア・リキッドという口からとるカロリーメイトをドリンクにしたような栄養補助食品の類も甘いから嫌だとか薬クサイと嫌がるので、おそらくリポビタンの類など飲むとは思えない。今はお茶やポカリスエットのようなものさえ、厭い、ただの水なら良く噛んで飲み下すのがやっとなのである。
 だからその人から、教えたことやってみたか、どうだったかと電話がかかってきても返事に窮するし、こちとらもう心身が疲弊しているときに、そうした電話は、正直有難迷惑に思えてしまった。

 しかし勝手な言い草であろう。向うは、こちらの状況を知らされ心痛めて、何とかしてやれることはないか、と自らの体験などを元に、看護している我にあれこれ親切にもアドバイスしてくれているのだ。
 それは間違いなく善意であり、本当にこちらのことを心配してくれてのことだ。何とかしてやりたいし、このままだと死んでしまう、何とか助けたいという気持ちの表れなのである。
 しかし、有難いけれど、深夜早朝を問わず母の下の世話、つまり紙パンツを替えて、陰部を拭いて洗浄し、敷いているシーツなども取り替えたり洗濯したり、むくんだ足を撫でてさすったり、とりあえず三食、飯を作って食べたがらない老親二人に懇願しときに恫喝して少しでも食べさせるだけでまさに疲労困憊、心身が疲弊していっぱいいっぱいだから、そうした電話応対だけでもしんどいのである。

 そしてつまるところ、正直に状態が悪いことをその方に伝えてしまったことが行けなかったのだと深く悔いた。何でも正直に、あからさまでありたいと思っていた。が、人が死に行く状況であることを知らせてしまえば、知った人にとっても死の影がさす。そして心配され不安になり憂鬱になっていく。申し訳ないことをしてしまった。

 もう10年か、もっと経つか、我が大学時代に好きだった後輩の女の子が癌で死んだ。まだ40代そこそこだったのではなかったか。
 その人は、我だけでなくその頃の大学のアイドル的存在で誰からも愛されていた。直接の恋愛関係にはならなかったが、卒業後も付き合いがあり、やがて彼女は結婚して二児を設け、友人として我は家族ぐるみで付き合っていた。彼女の紹介で、同じ職場で働いたこともあったし旦那が始めた喫茶店の手伝いもしたことがあった。
 が、病気で入院したことは彼女のダンナから知らされたが、詳しいことは皆目説明されず、見舞いに行きたくても断られ、せいぜいお見舞いに絵本とか送ったり手紙を出すぐらいのことしかできず、ただ案ずるばかりであった。
 そして亡くなってから初めて、葬儀の席で、癌であったことなどが知らされて愕然とするばかりであった。せめて病室ででももう一度会い、言葉をかけたかったと今でも思う。

 しかしそれは彼らの意思であり、おそらく当人も誰にも会いたくなかったのかもしれない。病んだ姿を見せて皆に心配かけるよりは、詳しいことは何も知らさないというのが、彼女たちのやさしさや矜持であったのかと今にして思う。ある意味強い立派な選択だと今わかる。

 ただ、我はこうも思う。人は誰もがやがては老い、病み、そして死に臨んでいく。生者と死者、死に行く者とを分けて、生者は生者だけで死者のことなど何も知らず考えずに生きていくのが正しいことなのであろうか。
 死を想え、という言葉がある。死というものは誰にでも必ず訪れるものであるからこそ、自ら当事者になる前に、もっと深く学び考え知る必要があるのではないのか。

 今、こんな状況になって、本当に辛く日に何度も涙することもある。しかし、この体験ができて良かったと間違いなく思う。この経験をなくして我は生きていたとしても本当に歪んだ愚かなままであったに間違いない。少しは賢くなったか俺は? いや、少しは愛を知った。
 日々いろんなことを考えさせられ、ああこうしたものか、こうだったのかと気づき学ばされていく。すべてのことが伏線であり、結びつき今にこれからに続いていく。
 死とは、実に多くのことを考えさせ多くのものを生者に与えてくれる。残念ながら、人は生者と暮らし、生きることで学ぶこと以上に、「死」を通してこそ、死者からのみ「生きること」の意味と価値は学べない。

 それはあの大戦も同様だし、近年続く大震災もまた同じであろう。大惨事は多くの死者を生み生者と別けた。そう、思えば今日は鎮魂と追悼の8月15日である。

 世界中の誰にも神のご加護がありますように。今はただすべてが有難い。

コメント

_ 2016の夏 ― 2016/08/16 16時08分31秒

イイブログです。
近年、両親を亡くした経験が重なり、思わず涙が流れました。
何もできない外野ですが~離れたことろから日々祈る事だけはできます。
陰ながら応援しており*ます

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