2018年の大晦日に ― 2018年12月31日 00時13分48秒
★長い旅から帰って来たような
久々に本格的な風邪をひいた。あまりに寒いからだし、疲れがどっと出たこともある。
実はこの暮れの27日木曜から一泊で、犬のベルコさんと人も犬も一人一匹で山梨へ行っていた。年末寒波襲来は知っていたけど、天気も良いし大したことないと甘く考えていた。
幸い帰省渋滞にも巻き込まれず、朝から出て早めに向うに着いたのは良かったのだが、半端ない寒さでまいった。
雪はまだなく、天気も晴れてたのだが、昼間でも零度という電光掲示板の表示にはまいった。まあ、その民家兼倉庫のある場所は、標高も高くたぶん東京では高尾山や青梅の御岳山の頂上より高位置だと思うが、東京の暖冬気分で迂闊かつ気軽な格好で行ったら山里の寒さは心底堪えた。
途中で買い物したり時間くって、着いたのは午後2時。晴れていても肺が痛くなるほど空気は冷たく深閑としていて、着いた時から寒気がして鼻水がぽとぽと死したり落ちた。こりゃ温泉に入らないとマズイと思い、荷物下ろしもそこそこに、さらに山奥の増冨ラジウム温泉へ30分かけて山道を走らせた。
そこは標高千メートルを越す。雨もないのに風花というのか、細かい雪がちらちら舞っていた。瑞牆山の登山帰りの若者たちが来ていたが、他は湯治のかなり年配の客しかいなく、いつ降ったものかカチンカチンに凍りついた雪の固まりが駐車場に点在している。ここはまたさらに寒い。
むろん昼間でも既に氷点下である。そして毎度ながら我のお気に入り、名物のぬるい温泉に入った。※ここは4種類の温度の違う浴槽があり、長時間入って健康を取り戻す保養施設なのである。
が、さすがに外がそんなに寒いとどんなに長く湯に浸かっても暖まらない。いつもは、半野外の25度の源泉にものぼせた後は一度は入るのだが、とてもそんな勇気はなく、けっきょく温泉どころか42度の、温泉水ではなくフツーの、一番熱く沸かした湯船にひたすら入って、それでも何か暖まった気にならないまま閉館時間6時に出てまた山道を下って帰って来た。
そして、古民家に戻って灯油ストーブをつけて、向き合うようにくっついて暖を取りそのストーブにーの上にヤカンでお湯わかして、ひたすらお湯割りを飲んで身体を温めたが、とても起きて何かする気はおきず、ストーブの前から離れられないなら起きていても仕方ないと早く布団に入った。10時前であったか。
ほんとうは、せっかく行ったからには、一人で腰据えて運び込んで山積みになったままの古本の整理をしようと目論んでいたのがストーブから少しでも離れると吐く息が白く、手指や足の先は痺れたように冷え込んで作業などとてもできやしない。
二階の個室で電気アンカ入れて熱い布団にくるまって眠ったものの鼻がつまり口が乾き、喉も痛くて深夜に一度起きてしまった。そして間違いなく風邪ひいたと気づいた。
それからともかく寝ようと手元の文庫本開いたりスマホをチェックしたり時間を潰していたら、突然ある事に気がついた。
掘り炬燵のスイッチをつけっぱなしにしてきたかもしれないと。しかも前日朝、父を起こしてコタツに入れるために、最強のレベルに設定したままの可能性が高いかもと。こりゃ大変だと突然鼓動が早くなった。
以前も書いたかと思うが、拙宅の掘り炬燵は、火事の危険性が高くて今冬は使うのをずっと躊躇っていたのだ。
昨年までは使ったのだが、呆けた父がコタツの中によく新聞やティシュなど紙ゴミを落とす。そしてコタツの熱源は、一番底に設置されているから、その上にそうした紙類が落ちて発火には至らなかったが、焦げて燃え出す寸前ことが何度かあったのだ。
むろん一番強くスイッチを設定しなければ基本安全のはずなのである。ところが、呆け人間は何故かいつも最強の数値に勝手にスイッチを設定してしまう。あまりの熱さに足が粉をふくほどである。そうでもしないと暖かく感じないらしい。
我がいるときは常に注意して、温度は下げるようにしてコタツの中もこまめにチェックしているのだが、父だけ一人でテレビ見せる時もあり、いつ何時火事が起こるかもしれぬと、父の老化と高齢が重なって来た今、こうしたコタツは怖くて使えない、どうしたものかと考えていた。
ただ、中にホットカーペットのようなものを入れてコタツにしても、父曰くちっとも暖かくないとまた自分であれこれいじり出すので、この年末、仕方なくまたコタツ再開したのであった。
で、あろうことか、今回山梨へ行くとき、戸締りや火の元は確認したのだが、肝心のコタツはスイッチ切ったかはっきり覚えがないことに気がついたのだった。
もし、最強のスイッチのままで誰も不在のままつけっ放しにした場合、底に設置してある発熱する電熱線の部分に何か紙類が落ちて乗っかっていたら発火する可能性が高い。
気がつき、一度気に出すと、その不安に囚われるのが小心かつ不安神経症の我の悪癖というか病的なところで、山梨にいるのだから、そのときはそのときと諦めてどっしり構えることなど到底できなくなって、それからはもう眠るに眠れなくなってしまった。
火事にならないためにも深夜でもすぐさま直帰しようかと真剣に考えもしたが、まだ外は真っ暗でしかも氷点下の寒さだし、今回運んできた本や雑誌類も、車からは下ろしたもののまだ大部分は外に出しっぱなしだったので、夜間の移動は断念した。
覚悟決めてもう少し寝ようとも努力したが、やはり気が昂ぶり無理だと思い、階下に降りて、またストーブをつけて、前に運び込み部屋中に積み上げたままにしてあった本や雑誌の山を取り崩しては整理分別する作業を始めた。鼻水をポタポタ垂らしつつ、むろんときおりストーブにあたり、熱いドリンクを飲みながらである。
そうこうしているうちに長い冬の夜も白み始め、ようやく7時頃には山影のその古民家にも朝の光が射しこんできたので、外に出しっぱなしの雑誌類を室内に運び込んだり車の中の残りのものを下ろしたりと大慌てで作業を終えた。
そして夏中こちらに置いてあった冬用のタイヤを空いた荷台に積み込み、午前8時過ぎ犬と共に大慌てで山を下り韮崎の街へ向かった。農協直売所に少し立ち寄った以外、すぐに韮崎インターに入り、そのまま一路東京へ。午前11時過ぎには帰宅できた。
我が家は、というと、当然ながら火災など起きず無事であった。が、その変わらない姿を見るまでどれほどドキドキして胸が苦しかったことか。
家に入り、先日片付けたばかりの広い二階の部屋に上がり、ああ無事で良かったと膝まづき心から神に感謝した。
じっさいこの季節、いつどんなきっかけで火災に遭うかそれは誰にもわからない。私事だが、我は子どもの頃、一度自宅でボヤ火災を起こしたことがあるし、10年ほど前には、拙宅の増改築に際して、大工に預けておいた家財など楽器類も含めてその分全部不測の失火で焼失したことがある。
つまり二度も火事に遭った者として、三度目が起きてもちっとも不思議でないし、じっさいもしまた火事を起こすとしたらそれは掘り炬燵がいちばん可能性が高いと確信していたから今回最強のままスイッチをつけっぱなしにして留守にしてしまえば、我の不安もあながち杞憂とは誰も嗤えないかと思う。
しかし、帰ってまずコタツを確認したら何故かスイッチは入ってなくて冷たいままであった。では、やはり出かける以前に、我は無意識的に切っていたのであろうか。
さておき、一度もしかしたら火事で一切合切失ってしまうかもと心配し、もしそうなったらと想像もした家に帰ってきて改めて今在るものをしげしげと眺めて、その「有難さ」を深く深く噛みしめた。
そう、今まではそれが有ることが当たり前だと思っていたし、まさか突然火事などで全てを一切合切失うなんて考えたこともなかった。
しかし、そうした不測の事態は、誰にだって突然起こることであって、かの京都のほんやら洞という有名な喫茶店も火災で焼失させてしまったのは有名な話であることを思うとき、それは決して他人事ではないわけで、人の死と同様、それはいつ誰に起きても別に何の不思議でもない。
だからこそ、我が父がまだ生きて世に在る事も含めて、この家も、その何もかもが我にとってとてつもなく大事な大切な素晴らしいものなのだからこそ、感謝してうんと大事にしなくてはと今さらながら気づかされた。
昔、海外旅行や春の大型連休の時など、やや長く家を留守にしこの住み慣れた街を離れて戻ったときなど、いつも見慣れたはずの風景や家の様子が、妙に新鮮に、stranger的視線で目に映ったことがよくあった。その違和感とは少し違う、すごく不思議な感じは日常がまた戻ると消えてしまうわけだが、その第三者的視線、客観はとても大事なことではないかと気づく。
今回は、ごく短い間、家を空けてまたすぐに帰って来たわけだけれど、何度も往復したルーティン的移動であっても、火事で失うかも、という怖れと不安は、我にまた異質な視線を与えてくれた。
そう、それはあるのが当たり前だといつも思っていたが、それこそ偶然か運の良いだけの話であって、いつあっという間に消失してもちっともオカシクないのであった。
日々の暮らしは毎度毎度同じことの繰り返しでうんざりもし、倦み飽きることばかりだが、そう思ってもそれはいつまで続くか誰もわからないし何の保証もない。
長い旅から戻ったような眼で、今一度我の持っているものを全て見直すと、今さらながらそのモノそれぞれの真の価値と、それぞれの必要性がはっきり見えて来た。
そう、火災などに遭わなくとも、我が死んでしまえば全ては失われるのである。ならば、だからこそその失う、失われる覚悟で、今を、いま在るものどもを大事に慈しみ大切にして生きねばならなかったのだ。
それは時間も、人間関係もすべて同じ。いつまでそれがあるか、続くか、それは誰にもわからない。だからこそ今在るものを大切にして無駄なく活かして用いていかねばならないのである。
2018年も今日で終わる。我はその新しい視線で、すべて在ることは当たり前だなんて思わず、有難さ、で新しい年を丁寧に生きていこうと思う。
久々に本格的な風邪をひいた。あまりに寒いからだし、疲れがどっと出たこともある。
実はこの暮れの27日木曜から一泊で、犬のベルコさんと人も犬も一人一匹で山梨へ行っていた。年末寒波襲来は知っていたけど、天気も良いし大したことないと甘く考えていた。
幸い帰省渋滞にも巻き込まれず、朝から出て早めに向うに着いたのは良かったのだが、半端ない寒さでまいった。
雪はまだなく、天気も晴れてたのだが、昼間でも零度という電光掲示板の表示にはまいった。まあ、その民家兼倉庫のある場所は、標高も高くたぶん東京では高尾山や青梅の御岳山の頂上より高位置だと思うが、東京の暖冬気分で迂闊かつ気軽な格好で行ったら山里の寒さは心底堪えた。
途中で買い物したり時間くって、着いたのは午後2時。晴れていても肺が痛くなるほど空気は冷たく深閑としていて、着いた時から寒気がして鼻水がぽとぽと死したり落ちた。こりゃ温泉に入らないとマズイと思い、荷物下ろしもそこそこに、さらに山奥の増冨ラジウム温泉へ30分かけて山道を走らせた。
そこは標高千メートルを越す。雨もないのに風花というのか、細かい雪がちらちら舞っていた。瑞牆山の登山帰りの若者たちが来ていたが、他は湯治のかなり年配の客しかいなく、いつ降ったものかカチンカチンに凍りついた雪の固まりが駐車場に点在している。ここはまたさらに寒い。
むろん昼間でも既に氷点下である。そして毎度ながら我のお気に入り、名物のぬるい温泉に入った。※ここは4種類の温度の違う浴槽があり、長時間入って健康を取り戻す保養施設なのである。
が、さすがに外がそんなに寒いとどんなに長く湯に浸かっても暖まらない。いつもは、半野外の25度の源泉にものぼせた後は一度は入るのだが、とてもそんな勇気はなく、けっきょく温泉どころか42度の、温泉水ではなくフツーの、一番熱く沸かした湯船にひたすら入って、それでも何か暖まった気にならないまま閉館時間6時に出てまた山道を下って帰って来た。
そして、古民家に戻って灯油ストーブをつけて、向き合うようにくっついて暖を取りそのストーブにーの上にヤカンでお湯わかして、ひたすらお湯割りを飲んで身体を温めたが、とても起きて何かする気はおきず、ストーブの前から離れられないなら起きていても仕方ないと早く布団に入った。10時前であったか。
ほんとうは、せっかく行ったからには、一人で腰据えて運び込んで山積みになったままの古本の整理をしようと目論んでいたのがストーブから少しでも離れると吐く息が白く、手指や足の先は痺れたように冷え込んで作業などとてもできやしない。
二階の個室で電気アンカ入れて熱い布団にくるまって眠ったものの鼻がつまり口が乾き、喉も痛くて深夜に一度起きてしまった。そして間違いなく風邪ひいたと気づいた。
それからともかく寝ようと手元の文庫本開いたりスマホをチェックしたり時間を潰していたら、突然ある事に気がついた。
掘り炬燵のスイッチをつけっぱなしにしてきたかもしれないと。しかも前日朝、父を起こしてコタツに入れるために、最強のレベルに設定したままの可能性が高いかもと。こりゃ大変だと突然鼓動が早くなった。
以前も書いたかと思うが、拙宅の掘り炬燵は、火事の危険性が高くて今冬は使うのをずっと躊躇っていたのだ。
昨年までは使ったのだが、呆けた父がコタツの中によく新聞やティシュなど紙ゴミを落とす。そしてコタツの熱源は、一番底に設置されているから、その上にそうした紙類が落ちて発火には至らなかったが、焦げて燃え出す寸前ことが何度かあったのだ。
むろん一番強くスイッチを設定しなければ基本安全のはずなのである。ところが、呆け人間は何故かいつも最強の数値に勝手にスイッチを設定してしまう。あまりの熱さに足が粉をふくほどである。そうでもしないと暖かく感じないらしい。
我がいるときは常に注意して、温度は下げるようにしてコタツの中もこまめにチェックしているのだが、父だけ一人でテレビ見せる時もあり、いつ何時火事が起こるかもしれぬと、父の老化と高齢が重なって来た今、こうしたコタツは怖くて使えない、どうしたものかと考えていた。
ただ、中にホットカーペットのようなものを入れてコタツにしても、父曰くちっとも暖かくないとまた自分であれこれいじり出すので、この年末、仕方なくまたコタツ再開したのであった。
で、あろうことか、今回山梨へ行くとき、戸締りや火の元は確認したのだが、肝心のコタツはスイッチ切ったかはっきり覚えがないことに気がついたのだった。
もし、最強のスイッチのままで誰も不在のままつけっ放しにした場合、底に設置してある発熱する電熱線の部分に何か紙類が落ちて乗っかっていたら発火する可能性が高い。
気がつき、一度気に出すと、その不安に囚われるのが小心かつ不安神経症の我の悪癖というか病的なところで、山梨にいるのだから、そのときはそのときと諦めてどっしり構えることなど到底できなくなって、それからはもう眠るに眠れなくなってしまった。
火事にならないためにも深夜でもすぐさま直帰しようかと真剣に考えもしたが、まだ外は真っ暗でしかも氷点下の寒さだし、今回運んできた本や雑誌類も、車からは下ろしたもののまだ大部分は外に出しっぱなしだったので、夜間の移動は断念した。
覚悟決めてもう少し寝ようとも努力したが、やはり気が昂ぶり無理だと思い、階下に降りて、またストーブをつけて、前に運び込み部屋中に積み上げたままにしてあった本や雑誌の山を取り崩しては整理分別する作業を始めた。鼻水をポタポタ垂らしつつ、むろんときおりストーブにあたり、熱いドリンクを飲みながらである。
そうこうしているうちに長い冬の夜も白み始め、ようやく7時頃には山影のその古民家にも朝の光が射しこんできたので、外に出しっぱなしの雑誌類を室内に運び込んだり車の中の残りのものを下ろしたりと大慌てで作業を終えた。
そして夏中こちらに置いてあった冬用のタイヤを空いた荷台に積み込み、午前8時過ぎ犬と共に大慌てで山を下り韮崎の街へ向かった。農協直売所に少し立ち寄った以外、すぐに韮崎インターに入り、そのまま一路東京へ。午前11時過ぎには帰宅できた。
我が家は、というと、当然ながら火災など起きず無事であった。が、その変わらない姿を見るまでどれほどドキドキして胸が苦しかったことか。
家に入り、先日片付けたばかりの広い二階の部屋に上がり、ああ無事で良かったと膝まづき心から神に感謝した。
じっさいこの季節、いつどんなきっかけで火災に遭うかそれは誰にもわからない。私事だが、我は子どもの頃、一度自宅でボヤ火災を起こしたことがあるし、10年ほど前には、拙宅の増改築に際して、大工に預けておいた家財など楽器類も含めてその分全部不測の失火で焼失したことがある。
つまり二度も火事に遭った者として、三度目が起きてもちっとも不思議でないし、じっさいもしまた火事を起こすとしたらそれは掘り炬燵がいちばん可能性が高いと確信していたから今回最強のままスイッチをつけっぱなしにして留守にしてしまえば、我の不安もあながち杞憂とは誰も嗤えないかと思う。
しかし、帰ってまずコタツを確認したら何故かスイッチは入ってなくて冷たいままであった。では、やはり出かける以前に、我は無意識的に切っていたのであろうか。
さておき、一度もしかしたら火事で一切合切失ってしまうかもと心配し、もしそうなったらと想像もした家に帰ってきて改めて今在るものをしげしげと眺めて、その「有難さ」を深く深く噛みしめた。
そう、今まではそれが有ることが当たり前だと思っていたし、まさか突然火事などで全てを一切合切失うなんて考えたこともなかった。
しかし、そうした不測の事態は、誰にだって突然起こることであって、かの京都のほんやら洞という有名な喫茶店も火災で焼失させてしまったのは有名な話であることを思うとき、それは決して他人事ではないわけで、人の死と同様、それはいつ誰に起きても別に何の不思議でもない。
だからこそ、我が父がまだ生きて世に在る事も含めて、この家も、その何もかもが我にとってとてつもなく大事な大切な素晴らしいものなのだからこそ、感謝してうんと大事にしなくてはと今さらながら気づかされた。
昔、海外旅行や春の大型連休の時など、やや長く家を留守にしこの住み慣れた街を離れて戻ったときなど、いつも見慣れたはずの風景や家の様子が、妙に新鮮に、stranger的視線で目に映ったことがよくあった。その違和感とは少し違う、すごく不思議な感じは日常がまた戻ると消えてしまうわけだが、その第三者的視線、客観はとても大事なことではないかと気づく。
今回は、ごく短い間、家を空けてまたすぐに帰って来たわけだけれど、何度も往復したルーティン的移動であっても、火事で失うかも、という怖れと不安は、我にまた異質な視線を与えてくれた。
そう、それはあるのが当たり前だといつも思っていたが、それこそ偶然か運の良いだけの話であって、いつあっという間に消失してもちっともオカシクないのであった。
日々の暮らしは毎度毎度同じことの繰り返しでうんざりもし、倦み飽きることばかりだが、そう思ってもそれはいつまで続くか誰もわからないし何の保証もない。
長い旅から戻ったような眼で、今一度我の持っているものを全て見直すと、今さらながらそのモノそれぞれの真の価値と、それぞれの必要性がはっきり見えて来た。
そう、火災などに遭わなくとも、我が死んでしまえば全ては失われるのである。ならば、だからこそその失う、失われる覚悟で、今を、いま在るものどもを大事に慈しみ大切にして生きねばならなかったのだ。
それは時間も、人間関係もすべて同じ。いつまでそれがあるか、続くか、それは誰にもわからない。だからこそ今在るものを大切にして無駄なく活かして用いていかねばならないのである。
2018年も今日で終わる。我はその新しい視線で、すべて在ることは当たり前だなんて思わず、有難さ、で新しい年を丁寧に生きていこうと思う。
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