地獄ではないが地獄に近しいと思えること・追記2018年12月01日 21時22分46秒

★壊れていく父はいつまで「人間性」を保てるのか

 今朝、父をショートステイに送り出し、今日は久々に一人でやっと落ち着いた心満ちた気分でいる。※といってもまた階下でトラさんが啼きだしたが。
 父は今週は月曜の夕刻からずっと家に居て、さすがに五泊もずっと介護しているとほんとうに気が休まらない。老犬トラさんの夜啼きと相まって、Wで交互に騒ぎ立てるので眠りがとれず睡眠不足は限界に達した。
 信号無視でまた切符切られるは、転んで膝をしたたか打ち付けるは、懐も身体も痛い目に遭い、何とかこの月末を終えられた。
 今日は昼に、近所の家系ラーメンのサービスデーで、無料のライスもたらふく食べて、久しぶりにとことんたっぷり食べたという満腹感を得た。
 父がいるときは、その世話に追われてゆっくり座って食事したことはない。常に作りながらか、つくった料理を立ったままつまんで、それで済ませるか後は、せんべいなど菓子類で小腹を満たすとかして、一日一食きちんと食べられるかどうかだ。
 夜は夜で、いつ犬や父に起こされるかわからないから、このところは服は着たままで、耳すませながら夜警の仕事の仮眠的浅い眠りしかとれない。
 まあ、それは母の死の前後もそうであったし、けっきょく「それから」以後、我には二度と心休まる、のんびりしたとことん解き放たれた気分のときは失くなってしまったということだろう。
 しかしそれでも今日の夕方、北からの強い風に吹かれながら、我家のケヤキの褪せた葉が、一気に散り落ちていく光景を眺めながら深い深呼吸して久方の解放感を味わえた。

 さて、呆け、つまり認知症が進んでますます手がかかるようになってきた我が父について、今さらながら日々新たな驚きと憂いがある。
 考えてみれば、我は90代半ばの人間と暮らしたことはなかったし、周りを見回しても親族も含めてそんな事例はどこにもない。
 我が母方の祖母は、百歳近くまで生きた人だったが、晩年は病院施設をたらい回しにされていたから、その娘や息子たち、つまり母の兄弟も共に生活して世話したのは八十代半ばまでではなかろうか。
 じっさいこんな歳まで我が父が生き永らえて、しかも共に我が家で生活し一人で面倒見ることになるとは、まったく想像すらしなかった。迅雷と言うのはまさに不可解で予想もつかないものだとつくづく思える。
 我のプランでは、認知症の父がまず先に逝き、元気な母と二人暮らしがある程度長く続くものと考えていた。まあ、母は父より五歳ほど年下だったし普通女の方が長生きなのが当たり前なのだから、我の予測はあながち甘いとか判断ミスとは言えないはずだろう。

 男同士、それまであまり仲の良くなかった親子が二人で暮らす大変さについてはいくらでも書けるが、それ以前に、このところ痛切に感じているのは、呆けの進行による人格崩壊とも呼べる異常行動である。
 昔は、認知症のことを、痴呆症とも呼んだ。つまり、呆けが進むと、やがては痴呆に、つまり何もわからないバカになってしまうと考えていたのである。
 しかし、それではあまりに差別的だとか、呆けても意思や感情はしっかりあるのだから、痴呆になるのではない、という認識・理解が進み、認知症なる表現が今では一般的になった。※「認知症」という名称では正しく状態を表していないと考えるのは我だけか。認知不能症なり、認知衰弱症というのが正しいのではないか。
 でも我に言わせれば、このところの父の言動は、何もわからない状態=痴呆どころか、訳の分からないことを言い騒ぐ=発狂してしまった「キチガイ」状態というのが正しいとさえ思える騒動をしでかしている。
 確かに、我が父の場合、九十半ばまで生きてしまうと、ろくに歩けないし何もできないし何もわからない、そしてろくに食べられないという、ほとんど何もできない、わからない状態である。
 それでおとなしく施設のベッドで寝た切りになってくれれば介護する側には手がかからず大いに楽である。そしてそのままさらに衰弱してすべての機能が低下して死を迎える。
 まあ、それが普通の道筋で事故や急性の病以外、人は誰もがそんな風にして緩慢に死を迎えて当たり前に死に至る。
 ところが父のように、その一歩手前で、キチガイになってしまうのはどうしてなのか。呆けるとはそんなアクティブなこともあるのであろうか。

 思うのだが、人間と人間性というのは別のものだ。生物としての「人間」は喜怒哀楽を持ち、思考し行動して自立して生きていく。
 だが、それは他の動物も程度の差はあれどほぼ同じで、感情は乏しくともただ生まれたからには精いっぱい幼少期意外はほぼ一人で生きてやがて老いて衰弱し一人で死んでいく。
 「人間性」とは、そうした動物としての人間が、真に人間として、人間らしくある姿、様式、資質だと考える。つまり社会性であり、言語を通しての共感性等、他者を認め理解し許し共に皆で助け合う感情である。
 我が父は元より若いころから、この社会的人間性が乏しいニンゲンであったのだけど、今はさらにその息子との関係でも人間性の欠落がひどくなってしまった。
 老いて衰弱して他の臓器は皆、機能低下し弛緩しその能力は落ちる一方なのに、脳だけは、まだ活発に活動中のようで、本当の「痴呆」には至らない。我が父の場合は、逆にこのところのように「誤作動」してしまい、ここは自分の家ではない、自分の家に帰らせてくれと騒ぎもするし、閉じ込められたとパニック起こすと、火事場の馬鹿力的突発行動に躊躇なく出るのだ。
 けっきょく、夢現の夢と現実の区別がわからなくなり、夢で見たことが現実になり、それに囚われ頭いっぱいにもなるのだろう。
 我々はまだ正常なニンゲンは、夢を見てもしばらくはそれが夢だと気づかなくともやがて今のは夢だったと、目覚めてからはこちら側、現実世界に戻って来る。
 父は今のところはまだ何とかこちら側に戻ってきているが、やがてはさらに向う側に行ってしまい、やがていつかはもう帰って来なくなるのではないか。
 怒りや不安、恐怖などの感情だけが最後まで残り、それで助けてくれとか、早く家に帰してくれ、家に帰りたいと、自宅にいても騒ぎまくる。
 完全に「正気」のときがなくなってしまえば、もう施設でも病院でも彼にとってどこでも同じのはずで、そのときがいつ来るのか、息子として日々覚悟を決めて対応していくしかない。

 老いの地獄とは、当人もだが、周りを巻き込んでいく。しかしそれが長生きした者の当然の報いなのだと思える。そう、良いことも悪いことも含めて。

お別れは突然に2018年12月06日 17時47分19秒

★母亡き後、慕い気にかけて来た人の急死

 少年老い易く、ならば老人死に易いものだとつくづく思う。歳も歳だから当人も周囲も何も悔いはないと思うが、亡き母の親友が今朝がた急逝した。百歳間近かと思う。
 昨日の午後も会いに行き、言葉を交わしたときは変わらず元気な様子だったので、先ほど夕方訃報を知らされ信じられない思いでとりあえず遺体に対面して来た。
 顔色も良くまさに眠っているとしか思えない穏やかな御顔であった。思わず声上げて泣いた。こんなに号泣したのはいつ以来か。母のときは長い間折々泣き続けたけど思う存分声上げて泣いた記憶がない。

 その婆さん、Aさんは、長年古家に一人暮らしの方で、今日もヘルパーが来たとき、ベッドに横になって既に亡くなっているのを発見されたとのこと。医者の診断では心不全とのことで、朝食を一人で摂って、それから苦しくなって横になったまま息を引き取ったのではないかと。
 
 Aさん、は、我が母より確か10歳上の方で、ダンナは、戦前からの共産党の活動家で戦後も党の要職にあった人だと聞いている。母から、彼女の新婚時代、特高の刑事が逮捕しに土足で家に上がり込んで来たと聞いていたから、今こそ、当人からもっと「治安維持法」のあった戦前・戦中についてのことを詳しく聴いておくべきだった。
 我が母は、親しくしてきた年上のAさんが1人でも元気で暮らしているのだから、私ももっと頑張らねばね、と常々言ってたけど、けっきょく2年前癌に倒れ先に逝った。
 我としては、その母が長年一番親しく慕い常に頼りにしてきた方なので、同世代最後の一人として常に気にかけていた。山梨へ行くたび向うの野菜やパンなど差し入れて様子を窺っていた。
 我にとっては亡き母代わりに、彼女のことを慕い常に気にかけて来たつもりでいたのだ。

 先日も好物だと言ってくれたパンとリンゴなど持って伺おうとしたのだけれど、ちょうど月末はショートステイに行ったらしく不在で、ようやく一昨日の夜行ってみた。
 室内に灯りはついてるのに何回チャイムを鳴らしても鍵は開かず出てこないので、仕方なく家の裏に回り台所のドアが鍵かかってなかったのでそこから入った。
 彼女は椅子に座りうつらうつらしていた。で、中に上がり、山梨のおみやげを渡したが、積年の古家なので、いったん開けたドアが戸口が歪んでしまってなかなかどうにも閉まらない。
 暖かい晩だったので、とりあえず外からガラクタ立てかけて開かないようにしたけど、どうにも開いてしまうようで、いったん家に戻ったら当人から電話でドアが閉まらなくて困る、と苦情があり、もう一度ロープを持って行き、室内からドアノブを流しの足にロープで引っ掛けて引っ張り何とか外に開かないよう応急処置した。
 それでウチの知り合いで我が家も建ててくれた大工カワムラさんに昨日の午前中電話して、Aさん宅の台所のドアが枠自体が歪んでいるから閉まらくなったので、できるだけ早く直してくれるよう依頼した。

 耳も遠い年寄りなので電話だとそのことを伝えにくいかと、午後出かけたついでに直接お宅に寄って、月曜には大工さんが修理に来るからと当人に話した。
 そのときもヘルパーをはじめ彼女の友人たちがちょうど何人か来ていて、変わらず元気そうであった。眼も良く見えず耳も遠いが、頭はしっかりしていて俳句の集まりを一人暮らしの自宅で続けていたりと百歳近いお年でも仲間たちに囲まれ慕われ支えられてお元気だったので間違いなく百歳は迎えられると誰もが思っていた。
 そう、気になっていたのは、我が開けたことで閉まらなくなってしまった台所のドアであり、暖冬とはいえ早く隙間風が入らぬよう処置しないと心配だと何か不安な気持ちがしていた。

 そしたら夕方電話で、母の知人の方から連絡くれと留守電があり、たぶんAさん宅に関係してのことだろうと予感はしたが、かけたらAさんが今朝がた急死したという知らせであった。まさに耳を疑った。そして悔いた。
 昨日の今日である。確かにいつ死んでもおかしくない高齢だったわけだけれど。

 今頃は、我が母と二人で、いやかつての仲間たち皆で、あの世で楽しく語り合っていることかと思う。
 そして今、我に残されたのは実の父だけとなったわけで、まさに彼もいつ死んでもおかしくない年齢なのだから、慈しみ大事にして向き合わねばと今さらながらAさんの突然の死、お別れを受けて思う。
 何歳であろうと関係ない。死は常に突然やってくる。そして全てが終わり色を失う。

我もまた、明日をも知れぬ身だからこそ2018年12月07日 00時04分16秒

★12/23日、あるがまま決行します。ぜひどなたでもお越しください。

 前回記したが、昨日6日、我にとって母亡き後ずっと、母同様に慕い大切に思い親しくしてきた近所に住む老婦人が急死してつい取り乱してしまった。前日も会い、台所のドアの工事確認の話をしたばかりだったから、昨日今日の話でほんとうに驚いた。まさかこんなにあっけなく急に死ぬとは、絶句である。

 が、やや時間を置いて冷静に考えてみると、百歳直前まで住み慣れた自宅で過ごせて、ピンピンころりの言葉通りに死の直前まで日常生活を続け、誰の手も煩わさず眠るように?安らかに自宅で死んだのだからこれはとても良いことなのである。
 我も含めた周囲が、故人はあまりに元気で長くずっと生き続けていたため、まだまだ長生きする、当分死ぬはずないと、その死の「想定」をまったくしていなかったため驚き動揺してしまっただけで、当然起こるべく、そしてある意味実に理想的な、まさに大往生であったのだ。
 ならば哀しむべきこともないはずなのだが、やはり我にとって親たち世代の懐かしい昔の人、しかも父よりも高齢の最後まで残っていた仲間が亡くなるとやはり淋しさと喪失感は何とも言えない。どうにもやるせないということに尽きる。遺体に向き合ってもまだ信じられない。
 もうこれで我が知る限り周囲では我が父が最高齢となってしまったわけで、いよいよファイナルカウントの鐘が鳴り出したという感じがしている。そう、Aさんのように、今晩はまったく元気でも明日をも知れないのだ。

 長生きしている人が身近にいてまだ健在ということは、その存在自体、年老いて来た者にとって先の指針、目印であり、ならばまだ頑張れる、あの人のようにあの歳まで頑張らねばという支え、救いだったのだと今気づく。
 その指針がなくなってしまえば、海図なしの航海を誰もが単独で荒海に漕ぎだすようなもので、老い先、という未知の状態はどんなものであるのか、大きな不安に襲われる人も多いのではないだろうか。

 今、母亡き後一番親しみ慕ってきた方の急死を受けて、今さらながら人が今まだ共に、この世に在ること、共に生きていることの有難さを心から深く噛みしめている。
 天国とか、あの世とか、死後の世界が我らにまたあることを願い信じたいが、それはそれとして、現世では死んだ人とはもう二度と会えない、言葉は交わせない、コンタクトとれない。
 遺体に向き合って思ったが、ただそこには冷たくなった骸、魂の抜け殻があるだけで、肝心のその大事な人はもうこの世から消えてしまっている。半日前、会って話して軽口を叩き元気だった人はもうこの世のどこにもいない。あっという間、一晩明けたらあっけなく訃報がもたらされた。まさに、夜半に嵐が吹かぬものかは、である。
 生と死、老いた人との関係とはこうしたものなのであった。いや、年齢は関係ない。老いも若きも人や犬猫だって関係なく死は突然訪れる。我も含めて共に今、我らがこうして同時代を共に生きて在ること自体が実はとてつもなく「有難い」こと、つまり奇跡的なことだったのである。決して当たり前のことではなかったのだ。

 ならば、何であれ、全て一期一会の気持ちで、精いっぱい向き合わねばならないはずだし、まして老いてきた者たち、我らは、この先、何につけてもいつかそのうち、またいつか、などと先延ばしを考えてはならないのであった。
 誰もがうんと若ければ、お互い「その先」「またいつか」もあろう。だが、もう皆多くが還暦、古希を越えてしまえば、その先のいつかまたはもう来ない可能性が高い。そう、それは年齢が上がるにつれてどんどん上昇していく。つまり明日はまた来るか、あるのかそれ自体まったくわからない。
 ならばどんなことでもお互い会えるうちに会い、できるときにできることを少しでもやっていくしかない。またいつかそのうちに、何て考えて後回し、先延ばしにしておくと、結局死に行く者はあっけなく死んで、取り返しのつかないことになる。
 すべて、今これが最後、その先のことはあるか分からないという一期一会の気持ちでこれからはやっていくしかない。

 拙宅での無頼庵クリスマス謝恩ライブパーティ、当日まで二週間に迫って来た。が、正直に告白すればまだ何の準備も片付けもほとんどできていない。
 いろいろ他の案件や雑事もあって、焦る気持ちを抱えつつ時間だけが過ぎて当日が近づいてくるというのが現実で、果たしてどうしたものかと大いに不安である。
 が、今さら片付いていないから今年も中止して来年に延期なんてできやしないし、じっさい参加申し込みは増え続けてそれぞれ皆さん各自のフェイスブックで告知さえしてくれている。ともかくどんな状態であろうとやるしかないのだ。
 我がどこまで片付けられるかはともかく、そうした皆が集う機会が作れるならば、たとえスペースはひどい状態であろうともあるがまま公開してお招きするしかない。
 そう、その先はもうないかもしれないし、どれほどひどい状態であろうとも今年を終えて、もし来年また開催できるならばそのときはよりマシにしていけば良いだけの話ではないか。
 見栄もテライも恥も外聞もない。どんな状況であろうとも「その先」のことはどうなるか我をも明日のことは知れないのだから、有難くも拙宅へ来てくれる方は歓待しお待ちするしかない。

 このブログをお読みの方で、我とは面識なく直にお会いしたことのない人であろうとも、もし関心とお時間あらばどうかお越し頂きたい。平成最後の、という文言が巷に溢れている歳末だが、もしかしたら我にとっても最期の「クリスマス謝恩ライブパーティ」となるかもしれない。
 生きている間に、まだ見ぬ、会いたい人、会うべき人とどれだけ我は会えるのだろうか。2018年の年末という同時代、有難くも偶然共にまだ生きている仲間たちとぜひ出会いたいと願う。
 いつかまた、とかそのうちに、ということはなくはないだろうが、歳と共に時間と共にその可能性は減っていくことは間違いない。もう若くはない僕らが、共に皆で会い一緒の時間をどれだけ過ごすことができるのだろうか。

全てが終わりの時が近づき2018年12月11日 20時53分08秒

★ようやく見えた、何とかなりそうな気がしてきた。

 寒い寒いである。外は冷たい雨が音立てて本格的に降っている。久々のまとまった雨だ。
 天気予報では、八王子辺りから東京でも西多摩地区は、雪の予報が出ていて、さすがの我も青くなった。
 というのもこの暖冬、まだ何も冬支度はしていなく、母の遺した蘭科の鉢植えなど、寒さに弱い観葉植物は全部外に出しっぱなしだったから雪が降るとは予想だにせず、慌てふためいた。家に入れないと全滅となってしまう。
 確かにこの数日冷え込んできて、夏日のあった今年の12月もやっと冬らしくなっていくのかと思ったら、いきなりの初雪予報にはまいった。
23日の拙宅での人を招くイベントを前に、いよいよカウントダウンとなってきて、時間に追われているところ、今日は曇天の下、今にも雪が降りそうな冬ざれた空をオスプレイが何機も轟音たてて飛び交っていた。
 父をまた施設に送り出し、犬猫の様子伺いながら家の片づけ進めている。正直な話、やっと作業が始まった。動き出した気がしている。
 拙宅には、三階というか屋根裏部屋があり、そこに久しぶりに上がって確認したらまだスペースがあることがわかった。不要な空箱や紙袋などすぐ捨てられるガラクタ類をどかせば、そこにまだモノが置ける。
 溜まった本や雑誌、レコードなどいったいどこに移動させれば、と苦慮していたが、その空間を発見して気が楽になった。

 雨だか雪が降り出す前に、庭に出ていた寒さに弱い鉢物は全部屋内にとりこんだ。運ぶのに一苦労しそうなゴムの樹やガジュマルはとりあえずビニール袋をかぶせた。
 父もだいぶ歩けなくなってきたと施設の職員から連絡があった。老犬も夜啼き徘徊がさらに悪化して薬飲ませても効果がない。昼夜関係なくひっきりなしに吠えて騒いでいる。
 終わりのときが近づいている。終わりは始まりでもある。新しく始まる、始めていくためにもまずはいろいんなものを終わりにしなければならない。その時は近い。

12月12日、冷たい雨の朝、老犬死す。2018年12月12日 08時50分33秒

★またもお別れは突然に、しかも迂闊にも我が死なせてしまった。

 書くべきか今も迷うが、これまでずっと一連の経緯を記してきた以上、何もふれずに頬かむりしてやり過ごすことはできない。申し訳ない。

 毎度、当ブログで愚痴こぼしてきた、呆けて徘徊遠吠えしまくりの老犬トラさんは死んでしまった。老衰とか自然死ではない。
 家の中での事故死で、ある意味我がうっかり殺したようなものなのだ。今、毎度のことながら自分の愚かさと迂闊さ、そしてつまるところ人としての弱さ、低さを痛いほど噛みしめている。まったく情けない。

 縁あって山梨から引き取ってウチに来てまだ2年弱。去年の冬から衰弱が進み、このところの呆けの悪化とまた歩行困難が始まってきたことから、この冬が越せるだろうかと案じていたが、まさかこんな形で別れが来るとは思いもしなかった。
 元々来た時からあまり若くなく、前の飼い主に可愛がられず飼われていたらしく人間に対して警戒心と畏怖感だけは強く、人に甘えたりとかまったく愛嬌ないどころか最後までその犬の反応はつかめなかった。当初は頭を撫でようとしただけでぶたれるかとビクッと身体をすくめるような有様だった。
 名前もわからないので、こちらでトラと名づけて、トラさんと日々呼びかけてもそれが自分のことだとわかっているのか、呼んでも来るわけでなし何も反応は一切返さない。徘徊してるとき道で捕まえても、我が飼主だと果たしてわかっていたのだろうか、抗いも喜びもしやしない。
 ただこのところはやっと何か機嫌か体調がいいときなのか、尻尾ふってるときもよくあったし、何考えてるか表情がつかめないだけ、人間には一切甘えない、まあそういう個性なのだと諦めて飼い続けていた。
 そして昨年の秋口から、外に出していると吠えて泣き叫びずっと騒ぎ出し、ご近所から苦情噴出、仕方なく以後ずっと室内飼いすることとなった。寒さもだが、犬も呆けて認知症となって、何か漠然とした不安感がそうさせるのだと医師は言い、じっさい家の中だと吠えることなく静かに眠ってくれていた。とうぜん、排便排尿のときは、したくなると自分で吠えて外に出たいと騒ぐ。その都度、夜でも連れ出していた。

 それが、このところ頻出してきて、昼間眠らせているのがいけなかったのか、夜になると必ず毎晩最低三度は外に出たいと騒いで我を起こす。夕方、夕食時、犬に食餌与えるとまた散歩、それからしばらく静かに眠っていて、我も零時ごろ二階の自室で眠りにつくと午前一時半頃、次いで3時か4時、そして早朝6時前頃。
 これでは我も睡眠が分割されて長く眠れないだけでなく、一度外に出て短時間でも散歩してしまうと、眼が冴えてまたすぐに眠りにつけやしない。そんなで午前過ぎに一度起こされて、そのまま寝疲れないままベッドで本読んだりしているとまたトラさんが吠え出すということもあって、慢性的に睡眠不足となり、そこに父が在宅の日は、寝坊も昼寝もできず、目覚めていても常時片頭痛がして体調がずっと悪かった。
 しかもトラさんは、小便とかしたくて騒ぎ外に出したはずでも、家に戻るとまた少しすると同様に鳴き叫び出す。当人も何で外に出たいのか、出たことすら忘れてしまうのか、何度でも徘徊したがる。夜になると、いやこのところは昼間でも何度でも吠えて徘徊したがる。

 夏場はそんなでその都度付き合って、彼女がとことん疲れ果てるまで深夜の街をかなりの距離歩き回った。じっさい昼間は足も重くほとんど歩けず、寝てばかりなのに、夜になると元気になるのか、ひっきりなしに吠えて外に出たがる。
 このところ季節も変わり寒くなって来て、さすがに飼い主も寒さと疲労が溜まって来て、トラさんに深夜起こされると、紐を外して勝手に自分でしばらく徘徊させて少ししてから連れ戻しに行くようにもした。
 徘徊しているときは吠えないし、歩くのもよたよたなので、この町内会の中、数十m以内しか行かない。しかし、深夜でも車も走ることもあるので、老犬の一人歩きは事故に遭うかもと光る首輪も買ったばかりだった。

 そして昨夜。天気予報では、雪となるかもという話だったが、夕方から降り出した雨はかなり強く夜じゅう降り続いていた。
 トラさんは、こちらが寝る前、夜11時ごろだったか一度軽く散歩に出して、それからは騒がずわりと静かに珍しくすぐ眠ってくれた。
 が、午前3時前頃、また下で騒ぐ声がして起こされて、眠たい目をこすり雨降る中、傘さしてこの町内会を軽く一周した。が、その時は小便したのか雨で道が濡れていたこともありよく確認できなかった。
 で、一度玄関に入れた後もまだ外に出たそうなので、もう一度雨の中道に出して玄関から様子を窺っていると、犬は悄然として雨の中ただ立ち尽くしているだけだったので、抱きかかえて家に入れて居間に連れて来た。
 そして濡れた身体拭いてやって、外は雨降ってるのわかっただろう、寒いしもうおとなしく静かに眠りな、と言い含めて我は二階のベッドに戻った。
 枕元の文庫本を開いて下の様子を窺っていたら、やはり少ししたらまた鳴き騒ぎ出す声が聞こえた。が、いちおう今散歩は行ったばかりだし、外は雨で雪の予報が出るほど寒い晩なのだから、いくら吠えようがもうほっておくしかないと考え、そのままいつしか我も眠ってしまった。

 じっさい、散歩の後、すぐに静かに犬も眠るのはこのところ稀で、また少しすると呆けの虫が騒ぐのか、必ずまた鳴いて吠えて騒ぎ出す。その都度付き合っていたら我の身体が持たない。睡眠不足で死んでしまう。
 だから、犬のいるコタツのある四畳半にはペットシーツを敷き詰め、その上に布絨毯も載せてあるので、またその部屋で失禁や排便したとしても後で始末すればいいかと、とりあえず散歩を終えた後は、また騒いでいようが放擲することにこのところしていた。真夜中なのである。何度でも繰り返していたらとても付き合いきれない。

 そして、今朝がた。外はまだ雨が降っていた。我の予想した通り雪にはならなかった。時刻は8時過ぎている。
 父がショートステイで、家に居ない日だとしてもずいぶん長く眠ってしまった。いつもなら必ず明け方、今頃なら6時前後に一度は起こされるのに、と訝しく思いながら下に降りた。トラさんも寒いし雨降ってるのでまだ深く眠ってるのかと思いながら。
 が、下の四畳半の居間はトラさんの姿がなく、あっ、また掘り炬燵に落ちたとすぐにわかった。が、父用に壁にとりつけてあるバーにかけてあるフックにひっかけてあるトラさんの紐はピンピンに伸びている。慌ててコタツを覗いたら、トラはコタツの一番奥に落ちていて首が引っ張られて首吊り状態となっている。
 引き吊りだして、心臓マッサージをして名前を呼んで何度も何度も身体をさすったが、もう反応はなかった。掘り炬燵に身体だけ落ちて息が出来なくなって窒息したのだ。

 拙宅のコタツは、掘り炬燵式で、これまでもトラさんはうっかり落ちることが何度かあった。ただそのときは、フック側のある手前側のほうに落ちるので、紐の長さには余裕があったし、落ちても中で啼き騒いでいる程度で「救出」できた。
 それでも今は落ちないように、夜中は大きなイグサの座布団を盾にしてトラさんの側からは蓋をしてあった。その蓋としての座布団は、反対側から畳と同じ高さコタツの内径サイズ半分の桟で押しつけてあった。つまりウチのコタツは、人間が足を入れられるのは半分だけにしてあった。
 あろうことかトラさんは、いつも彼女がいる場所から一番奥の、堀コタツの「堀」、つまり凹んでいる部分にお尻から落ちて首吊り状態となってしまったのだ。
 フックに紐をかけておかねば良かったと言うご意見もあろう。が、紐を結んでいないと夜中徘徊して、台所のほうに行ったりまた騒動を引き起こす。その都度動けなくなってまた鳴き騒ぐ。だから念のために、コタツにも落ちないよう紐を繋いでおいたのだ。それが裏目に出た。

 雨は午後には上がった。庭の真ん中、ケヤキやイチョウから離れた根っこのあまりないところを見据えてスコップで穴を掘り、夕刻近くトラさんの遺骸を埋めた。大きなどっしりした身体は呆けはともかくまだ元気そうでこの「事故」さえなければまだまだしばらく生き永らえると思えた。イチョウの黄葉を敷き詰め、直接冷たい土に触れないよう体にもかけてやった。
 トラさんの死に顔に、イチョウの葉に、我の涙がぼたぼたしたたり落ちた。縁あって山梨から引き取ったのにこんな最期を迎えるとはただ痛恨の極みという言葉しかない。断腸の思いという言葉通り今も胃が痛い。

 手のかかる老犬トラさんはこうして突然死んでしまった。今はもう冷たい土の下だ。が、これでもう犬に夜中何度も起こされず、ぐっすり眠るときが我に来るとは思えない。今もまだ下からトラさんが啼いて我を呼ぶ声が幻聴のように、だがはっきり聞こえる。
 また我の迂闊さと愚かさが失態を招いた。悔やんでも悔やみきれない。ほんとうにかわいそうなことをした。老い先短い不遇な犬なのだから、もっとやさしく、とことん愛しつくしてやるべきだったのに。

すべてが有難く思える、新しい朝に2018年12月13日 09時44分19秒

★自分の人生を生き直していく

 昨夜は、午前四時前に一度だけ、トラさんが啼いているような気がして目覚めた。
 が、夜は深閑として当然ながらもう毎夜のなき声、吠え声はなかった。起きてトイレに行き、それからがあれこれ考えてしまいなかなか寝つけず辛かった。誰の人生にもこんな夜はあると思いながら。

 老犬には可哀想なことをしたと今も胸が張り裂けるような悔いが残る。が、ここでまた止まって鬱々と自らを責め嘆き続けても時間が戻せるわけでなし、何にもならないしもはやどうにもできない。
 ただ、居間に下りて、いつもいた場所にいつもそこにいた犬の姿がない「空白」、「不在」は、そこを見るたび何ともやるせない気分になる。胸が締め付けられる。しかし時間が経てばまたそれが当たり前になっていくことだろう。
 
 今日も晴れても厚い雲が空を覆い、北国のような曇天模様だが、ときたま暖かい陽射しも出る。晴れれば暖かい。寒さも一段落した感じだ。
 トラさんには申し訳ないが、これでやっと自分の人生に落ち着いて向き合えると思えてきた。何より自分のペースでモノゴトをコントロールできることだ。

 新しい朝がまた来た。死んでしまった者、やがて死んでいく者、そしてまだ生きている者たちすべてに、今はただ有難い気がしている。
 ありがとう、という感謝の言葉は、言うまでもなく「有難い」から来ている。つまり、じっさい有る事が難しいことに、感謝してこの言葉は存在している。
 我が、この世に生を受け、物心ついてから半世紀以上もまだ死なず、無事に生きていることだって本来有難いことであるはずだし思えば奇跡に思える。
 それは未だ健在の父も同じく、また我と関わるみんなすべて、人のみならず動物生き物すべてが、今この世に、同時代に共に生きていること自体が有難いことなんだなあとつくづく思える。

 ならばこそ一日一日、一つ一つ、もうこれで最期かもと、明日は来ないかもという気持ちで、まさに一期一会の気持ちで何事にも誰にも向き合い、その時を大切にしていきたい。
 神の見えざる手、という言葉があるが、生き物の生き死にも含めて、全ては神のはからいなのであろう。「則天去私」と漱石は晩年記している。そう、まさにそう思える。

 これからも様々な悩みやトラブル、耐え難い哀しみ、そしてそのことの苦しみは我を襲うことだろう。眠れぬ夜も繰り返すだろう。
 しかし、生きている限りまた新しい朝は来る。そして新しい一日が始まる。あとはただその一日、ひと時を、丁寧に無駄なく慈しみ生きていくだけだ。我にまだやるべきことと成すべきことはいくらでもあるのだから。
 愚かな我は、これからも忍耐と寛容さを試され問われ続けていく。次回こそもう少しは良い答えを出したいと切に願いながら。

 今もふと下でトラさんが吠えて騒ぎだした気がする。幻聴だろう。が、そんな犬が家にいたことを忘れずに、その「声」に急き立てられるようにしてしっかりこれから生きていこう。
 それこそが死んでしまった者たちに対するまだ生きている者の責務なのだから。亡き者たちの声に耳を傾けていかねばならない。

泣きたくなるほどの青い空2018年12月15日 12時08分33秒

★哀しいほどのお天気に

 昨日今日と久しぶりに朝から明るく晴れ渡って空は雲一つない青空、快晴であった。
 うたの文句や文学の世界では、泣きたくなる程の青空、哀しいほどのお天気、といったフレーズがよくあるが、確かにこの季節の青空、とことん快晴の朝などは何故か胸が痛くなるような泣きたいような哀しみを覚えるのは我だけではないだろう。
 そう、このところ不測の別れが続きもう泣きたい気持ち、なのである。
 そこに、強権・傲慢安倍政権の沖縄の民意を一顧だにしない辺野古への土砂投入も始まり、何とも心中はやるせない、情けない気持ちでいっぱいだ。
 気がつけば泣かないまでも涙目で青い空の下、思わず口からうたが出た。
 嘆きは誰でも 知っている
 この世は悲哀の 海だもの
 泣いちゃいけない 男だよ

 鶴田浩二の往年のヒット曲『街のサンドイッチマン』の一節だ。

 まさに、この世は悲哀の海だとつくづく思う。何でこんな哀しく辛いことが起こるのか。生き物の生き死には人智の及ぶところではないのだから仕方ない。それでも人はなかなかそれが受け入れがたい。
 それどころか、何度も選挙で民意は示され、沖縄の心は、辺野古の美ら海に米軍新基地建設はいらないと訴え続けているのに、まったく意に介さず臆面なくも「沖縄に寄り添う」と口で言いつつ新基地建設に突き進む政権、国家とは、いったい何であろうか。
 すべての権力、三権を手中に収めたとしても安倍晋三に、こんな非道かつ無法なことを白昼堂々強行が許されるのか。もはやナチス的独裁でしかなく民主主義そのものが問われている。国会さえも軽視しどんな法案もろくに審議もしない。こんなことが当たり前のように許されるとしたら法治国家と言えるのか。

 豊かな自然の海を埋立て新たに戦争のための恒久的な基地をつくって米軍に提供してやる。辺野古の海は消えたとしても「悲哀の海」は沖縄のみならず誰の心にも広がっていく。
 普天間の基地が返還となったとしてもこれからも米軍機は、オスプレイも含めて新基地周辺で、横田で、そして全国の米軍基地あるところで事故や墜落していくことだろう。そして米軍兵士の起こした事件事故は深く問われることなくこれからも繰り返されるだろう。
 そのどこまでも青い冬の空をオスプレイが轟音たてて横田へと飛んでいく。

 子どものように思う存分声上げて泣けたらとも願うが、泣いてすっきり気分が晴れることならばそれもしよう。もう恥ずかしいとか「男」だからいけないなんて思わない。
 何故こんなことがいつまでも続くのか。そして無法が許されるのか。その理由もわかっている。残念なことだが、あえて書けば多くの国民の無知と無関心である。今の政治に対する無関心と諦めの心が、安倍政治を支えている。そして沖縄に対する内地の人たちの無知・無関心がある。

 だからこそ、様々な哀しみは哀しみとして、泣きたい気持ちを抱えながらも、この世は悲哀の海だとしても、「胸にそよ風抱いて」生きていく。
 我は、当たり前のことを世に問う「街のサンドイッチマン」でありたいと願う。

また冷たい雨。いよいよ23日が近づきラストスパートだ2018年12月17日 08時10分19秒

★霜も降りて一気に冬がやってきた。

 今までは暖冬で、12月でも「夏日」があるほどある意味過ごしやすい暖かい今冬だったが、ちょうど拙宅のイチョウの落葉が終わったのに合わせるように、本格的に寒くなった。
 昨日の朝は、限りなく零度に近かったようで、今まで青々として未だ花実をつけていたプランターのミニトマトやししとうの苗もついに全部ぐったりと寒さに萎れてしまった。
 いくつかまだ出しっぱなしにしてあった寒さに弱い植物も大慌てで屋内にしまわねばならない。
 また今年も冬が当たり前のようにやってくる。そしてもう二週間足らずで今年2018年も終わる。テレビではこの一年を振り返る特集番組が始まった。

 手のかかっていた老犬も死んでしまったので、これからは父が不在のときは、基本全部自分の時間がとれるようになった。
 今日明日朝までは、父がいるが、その後は、精力的に23日の無頼庵謝恩ライブパーティの準備に専念できる。
 まだお客を迎え入れるだけのスペースはつくれていないが、何とか今週半ばには片付けは終わるかと思える。そうしないと当日の料理などの「仕込み」に取り掛かれない。
 そのために、今日から一泊で、また笠間より我の親友「社員」氏を招いた。二人で、不要なモノはゴミとしてまとめたり、今すぐ使わない機材や楽器、溜まったレコード、雑誌類は三階、屋根裏に運び上げてしまおうと思ってる。さすれば、一昨年よりは広い空間が作れるのではないか。

 今さらだが、友人知人、お世話になった人たちに、「お誘い」のメールなど流した。ミュージシャンもかなり来てくれるようだ。
 拙ブログの読者の方で、我に多少の関心ある方、拙宅にも興味ある人は遠慮なくお越し頂きたい。
 今は、すべてあるがまま、に、あるものを曝け出していこうと思っている。我の人生も残り少なくなってきた。あとはどれだけ心残りなく、今までお世話になった「有難い人」たちに、御礼を返していけるかだ。

 ※参加される方は、場所など詳細はメールなりしますので、このブログの「コメント」にメルアドとお名前などお送りください。非公開で返信いたしますので。

老犬亡き今、犬の恩返しを思う2018年12月20日 18時42分52秒

★23日の拙宅でのパーティを前にして

 このところ幸い晴れて穏やかな冬空が続く。20日の木曜となった。

 ようやく今週になってから本腰入れて懸命かつ必死に二階広間の片付けを進めている。
 まずその前に、月~火と、笠間より友人を招き、階段に積み上げたまま、溜まりに溜まってしまい人ひとり通るのもやっととなっていた本の山を全部庭先に下ろした。
 玄関先、上り口の積み上げた雑誌の山も外に出したし、薪ストーブのある土間も、靴入れの棚も外に出して、直でストーブまで辿りつけるようスペースを空けた。
 問題は、その肝心の会場となる広間にまだまだ山積みままの本やらギターやらレコードの箱だが、何とかまだあと当日まで二日あるので、お客が座れるスペースは作れるかと思う。
 ただ、そろそろ当日の料理の仕込みにも取り掛からねばならないわけで、鶏を丸々一羽早く買わねばならない。もし余裕あれば、二羽あれば、十分皆に行きわたるかと思う。
 焼く前に塩水に漬けて、下処理しないとならないので、遅くとも前日昼頃までにはまずその作業を始めないとならない。
 庭先に出した本の山も基本処分する方向のものだが、市の紙ゴミ回収日は過ぎてしまったのと、もう一度再確認してからと考えているので、みっともないけれどブルーシートかけて、後日ゆっくり処分することに決めた。何しろ一朝一夕に数年来溜まりに溜まったものが一気に全部処分できるはずもないのだから。
 庭先は情けない有様でもともかくお客が集うことがかなえば、今回はそれだけでも良しと前向きに考えることにした。

 さて、老犬が死んで一週間過ぎた。いや、正しくは我が死なせて、である。
 今もまだ何ともやるせない、可哀想なことをしたと、痛恨の苦い思いは強くあるけれど、正直に告白すれば、犬がまだ生きていたらたぶん今回のパーティの片付けはもっともっと遅れていたことだろう。
 昼夜問わず啼いて騒ぐ犬がいなくなったので、犬に振り回されずにようやく自分のペースで作業を進めることができるようになった。
 それでもまだ遅々とした歩みで、捗りはあまり進んでいないが、休みたい時に休み、体調優先しつつ進められることは実に有難い。
 犬が死んでくれて、と言うのは不謹慎だし、良いことだったと絶対思わないが、ほんとうに以前のまま、老犬を抱えながら片付けを進め当日に向けて準備し当日を迎えるのはしんどかったと今つくづく思える。
 たとえ片付けは終わって当日を無事迎えられたとしても睡眠不足と疲労で我は倒れてしまったのではないか。命縮めたことは間違いない。

 つまり、思えば、老衰の手のかかる父と呆けて徘徊、夜啼きする老犬を抱えて、何かこの家でやる事自体無謀だったのだと気づく。
 父は当日の前日からお泊りさせて不在としても昼夜騒ぐ老犬が室内にいたら、パーティの準備も含めて落ち着いてそれに集中できなかったかと思える。
 迂闊にも事故死させて、苦しい思いをさせて殺してしまった者が言う資格はないけれど、それもこれも犬の気遣い、つまり飼われたことの恩返しだったようにさえ思う。
 ほんとうにかわいそうなことをした。しかし、今、当日23日に向けて日々必死にその準備に追われながら、その犬の「不在」が有難いと思っている自分がいる。非情であろう。しかし、非力にも二兎を追うことはできなかった。そう、いっぱいいっぱいであった。

 そもそも我の今回の計画自体が無理無体であったのだ。だから犬は死んでしまったのだ。ならば、我はもう一度新たな犬を飼い、その死なせた犬の分もお詫びとしてまた可愛がり最期まで世話せねばならない。それこそが供養ということだろう。人は嗤うかもしれないが、これが我のリクツなのだ。
 もう今年は時間がないが、来年こそまたどこかでおトラさんのような不遇な身にある犬を探して共にまた暮らそうと考えている。
 人は一人では生きていけない。特に我は、犬が傍らにいないと淋しくてオカシクなる。猫も可愛いけれど、犬こそが人類の原始の頃からの最良のパートナーなのである。
 犬は常に応えてくれる。こちらを思いやり気遣う。愛せば愛を何倍も返してくれる。ならばこれからも犬と共に暮らしていきたい。

包み隠さず、全てをあるがままお見せしよう、迎え入れよう2018年12月22日 23時59分22秒

★こんな人間なのだ、仕方ない。恥も外聞もない。

 雨もよいの暖かい冬至である。いよいよ拙宅での「クリスマス謝恩ライブパーティ」は明日となった。
 連日それに向けて、必死に場所づくりと準備に専念しているのだが、正直に告白すると、まだ道半ばというか、何とかやっと人を招き入れるだけの空間は拵えられたかと思える。
 が、そこを掃除機かけて、椅子並べてきちんとセッティングするのだってかなり時間かかるだろうし、トイレの前の踊り場他、他にも片付けなければならない場所が手つかずで、いよいよ明日の夕刻、客人が来られるわけだが、果たしてそれまでにどこまで取り繕うことができるかどうかだ。
 掃除だけではない。出す料理の下準備もあるし、買い足さねばならないものもある。
 自分としては、何とか昼までには「掃除」等、場所づくりは成し終えて、料理づくりに取り掛かれたらと拙に願う。
 今、何とか夕刻買ってきた、丸の鶏などを塩水に漬けんで、メインの「鶏料理」だけは下準備終えた。が、他はまだ何一つ手つかずで、果たして場所作りや掃除の作業と並行してどこまでベストが尽くせるか自分でも不安でならない。
 実は、昨晩は心労からか、胃がもたれて苦しく真夜中に苦しくて起きてしまった。吐くべきか迷ったが、胃薬飲んで、しばらく起きて気を静めて何とか収まりそれからは熟睡できた。
 そして7時前に起きて、父を起こすまで二階の片付け進めて、8時過ぎ父を起こして、世話して飯食わせて支度してショートステイに送り出した。
 そう、昨日は一日、父が家に居る日だったので、二階の片付け、スペースづくりに専念できなかったのだ。
 ちちを送り出してやっと一息、明日のための買い物行ったり、昼寝もせず今まで必死に、本や雑誌、それに未整理の紙ものなどを箱に詰めては階下の、母の寝ていた四畳半に運び下ろしていた。
 本当は一つ一つ、要不要の分別をやらねばならず、実際それを進めていたのだが、12/23日が近づき、どう考えてもとても間に合わないと判断し、結局、一切合切ともかく移動させるため、箱詰めしては階下へ下ろしたのだ。
 これは「移動」に過ぎないから根本的には片付いたことにはならない。が、もはや時間的にはそれ以外の手段はなく、毎度の姑息な方法でしか場所は作れないのだからそれもこれも仕方ない。
 しかし、それだって今現在、とても全部綺麗スッキリ片付くかどうかとても思えず、ともかく目的は客人を迎え入れ、歓待することなのだから、ともかく空間さえ作れれば、他はどうでもいい、と覚悟を決めた。
 今日は弱い雨も降り出したこともあり、先に庭に出した本の山も含めて、ビニールシートはかけたが、もう完全に見かけはゴミ屋敷の態である。庇の下も含めてごちゃごちゃと乱雑にガラクタがとっちらかって山積みとなっている。恥ずかしいし、何とかもう少し隠すようなことはできないものかと模索したいが、今はまず二階広間のセッティングと、料理に取り掛からねばならないわけで、たぶん庭や他の気にかかる部分までとても手が回らないだろう。
 
 本当に情けなく恥ずかしい。しかし、そんな有様こそが現実であり、そした状態をつくってしまったのも我なのだ。ならば包み隠して何食わぬ顔してもそれは嘘であり、現実ではない。
 ならば、もうあるがまま、ほんとうの自分をお見せし、迎え入れることこそが、カミングアウトではないが、正直なのではないか。
 それで呆れ果てる方も当然いるだろうし、結果拒絶されてもまた仕方ない。でも、情けないが、こういう人間なのだ。それでも御礼の気持ちでお世話になった人たちを歓待したいと心から願う。
 童話「泣いた赤鬼」ではないけれど、こんなどうしようもない人間がいたことを、あからさまに、あるがままにお見せして、客人を迎えたい。

 
 拙ブログの読み手の方も含めて、どなたでも歓待したい。拙宅の電話は、042-541-6245 である。最寄りの駅は、青梅線昭島。詳しくはお問い合わせください。あるいは当ブログにコメントください。