宵闇迫れば悩みは果てなし・続きの①2022年06月14日 22時57分43秒

★悩み多き者よ~それは我

 悩み多き者よ 時代は変わっている
 全てのことが あらゆるものが
 悲しみの朝に 苦しみの夜に
 絶えず時はめぐり 繰り返されている

 ああ人生は一片の木の葉のように
 ああ風が吹けば何もかもが終りなのさ
 流れゆく時に遅れてはいけない
 移りゆく社会に遅れてはいけない  ※斎藤哲夫 「悩み多き者よ」

 とは、敬愛する斎藤哲夫のごく初期の名曲の一節だが、「若き哲学者」として、鮮烈かつ衝撃的なデビューの後、数々の音楽的にも素晴らしいアルバムや耳に残る楽曲を多く作り、先年一時闘病の時もあったが、今も現役で活動しているこの天才シンガーソングライターはもっともっと高く評価され厚遇されるべきだと思うのは我だけだろうか。

 さておき、百人の人がいれば人生は百通りあるわけで、ならば当然悩みも百通りある。
 さまざまな悩みはいつの時代も誰にもあるわけで、子供には子供の、若者には若者の、大人には大人の、老人には老人の悩みが当然ある。
 若い時は、学校の試験や進路のこと、将来のこと等に悩み、社会人になれば、仕事上の悩み、職場での悩みがあり、結婚すれば、家庭の悩み、夫婦の悩み、そして子供ができれば子育ての悩みがあり、老いてくれば、病や身体の悩みや老後、死後の悩みがある。
 まさに悩みは一生尽きない。お釈迦様は、生老病死を四大苦と説いたが、人が生きることとは、その時々の悩みとどう向き合うか、どう対処していくかとと同義とも言えよう。

 ただ若い時の悩みは、ごくごく目先のことや、あるいは高所大局的な社会に対する漠然とした不安のようなもので、自分の場合は、今思うとノンキな明るい悩みであったと思える。
 むろん、今では、学校でのイジメや家庭内の虐待、貧困のために進学ができない等非常に切羽詰まったリアルな悩みはいくらでもあり、そのために自死を選ぶ子供もたくさんいることも現実である。
 我も学校には常に馴染めず中退するか、とかその悩みの渦中にあるときは、悩んだ挙句に自殺も考えたことはあった。しかし今思えば、若い時の悩みは、一過性のものであって、自ら死を選ばずともやがて時が過ぎ去れば、解決はしないまでも何とか過ぎ去るものだと断言しよう。何とかなるわけでなくとも時が解決することも多々あるのだ。

 何故ならば、若いときならば、まだ人生にはたっぷり時間が残っていて、生きていれば何度挫折や失敗しようともまだやり直せるからだ。そう、何も学校や会社だけが必要かつ不可欠な居場所ではないのである。
 人は自分の、自分だけの人生なのだから、どう生きたって良いのだ。他者に迷惑かけなければ、何をしてどこでどうやって生きてもどれだけ身勝手だってかまわないではないか。
 どんなに絶望しても、生きていれば、つまり時間があるならば、人生は何とかなる。
 このとことんダメの、何一つきちんとできなかった、社会から落ちこぼれた我のような人間が、これでも何とか死なずにぬくぬくと臆面もなく還暦過ぎまで生きてこれたのだから、とりあえずでも人生は何とかなったのである。この先はわからないとしても。
 
 しかし、若い時の悩みと、今我が感じている老齢の悩みはやはり質も色合いも切迫感も全く違う。
 何故ならば、そこには残された時間の量が大きく関係しているからだ。まあ、若い時から、何度でもやり直せる、今度こそ頑張ろうと失敗の都度、自らに言い聞かせてここまで来てしまったわけで、いよいよ切羽詰まって焦ってきたという、まさに自業自得のお笑い種なのであるが。

 そう、夕闇迫れば悩みは果てなし、まさに日が暮れるときになって悩む悩みは、切実なものがある。もう、先延ばしもやり直すことも時間切れ、タイムアップとなってきたのだ。では、どうしたら良いのか?

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