この小さな自分が大きな世界と①2012年10月03日 22時02分55秒

★まず原発について再考してみた。

 昨日は早めに寝たので体調はだいぶ戻った。昨日に引き続き、本日も夕方から雨が降り、急にひどく気温が低くなった。室内でも上に羽織るものがないと間違いなく風邪をひく。一昨日の真夏日から一転してこう寒暖の差があるのは老いた身にはこたえる。何ごとも極端から極端なのである。

 今季節は夏から秋へと、そしてこれから冬へと向かっていく変わり目のときである。そして眼をもっと大きく見開けば、この日本社会も世界も、そして地球全体も大きな変わり目にある。我々はそんな特別なときに今生きている。
 
 言うまでもなく、それは変革であり、今そこまで来ている大きな危機をどう乗り切るかその瀬戸際にある。地球規模の環境破壊と人口増加、結果としての異常気象、人類はこのまま無事にこれからもこの文明を謳歌できるか未来はあるのか誰だって不安に思うのではないか。
 自分は子もなく孫もないから、この身一つで死んでしまうので思い残すこともさほどないが、子々孫々ある人たちはやはり子供たち、家族、一族の行く末が不安であれこれ案ずるのではないか。いったい世界は、地球は、そしてこの国はこれからどうなっていくのかと。

 人は生まれてくることも生まれてくる時代も何一つ選ぶことはできやしない。しかし、今自分がこんな大変な時代に生まれ今も生きていることは偶然であれやはりそれは必然だと考えなくてはならないと思う。
 というのは全てのことには実は偶然などなく、起きることには全てそこに意味があると考えるからで、全てのことい意味やメッセージがあるにば、我々が今こんな時代に生きているからにはそこに、意味と役割があるはずなのである。

 その観点に立って、今私たちがすべきことと出来ることは何なのか考えてみたく思う。
 負の遺産ということばがある。オゾン層破壊による地球温暖化、そして南極北極の氷床の減少、その結果として海面上昇など環境変化も人類のみならず地球の全生物にとって大きな不安であるが、この国の問題ひとつとっても原発から出る、たまりに溜まった大量の高レベル放射性廃棄物の問題だって日本人のみならず人類の将来に大きな不安の影を落としている。今だって福島事故がもたらした高放射能の残土や瓦礫の処理施設だって受け入れ先がどこも決まらないのである。地下深くに埋めてしまうという地層処分も異論が出てきた。そうした核のゴミをそのまま、先送りにしていったい未来の人類に21世紀の人たちはどんな言い訳ができるのであろうか。

 こうした負の遺産、今までの繁栄のツケを彼らに負わせるのはあまりに無責任だとしか思えない。場合によっては20世紀、21世紀に生きた我々のせいで未来の人命が死滅してしまうかもしれない。未来の英知で問題を何とかしてもらえるだろうと考えるのは楽観主義にも程があろう。我々の仕出かした「問題」は我々でできる限り何とか片づけなくてはならないはずだ。
 その観点に立ったとき、まず何よりもすべきことは、原発はすぐさまゼロにしていくことである。もういっさいの建設も稼動もしてはならない。稼動する限り核のゴミはまた新たに生まれる。
 新たな原発事故の可能性の有無以前に、トイレのない家である原子力発電所はそもそも存在自体が成り立たないと誰もが認識すべきである。日本経済のためにとか、もしものときのことを考えると原発は維持すべきという論はある。しかし、どこにトイレのない家がある。あるとしたら室内に糞便を溜め込むしかない。その結果糞便は溜まりに溜まり室内に溢れて家人は生活できなくなる。しかもその糞便は超危険極まりなく、安全なレベルに戻るまで何万年もかかるのである。

 原子力発電所を考えた人は大バカか狂人であろう。今も安全が確保されたと推進する輩も。いくらそれが便利で効率よくローコストだとしたとしてもその核のゴミの処理はどうするか方法がなく、国民的合意と科学的安全性が確保されない限り稼動はできまいしすべきではない。生物のいない別な惑星でならまだしも、地震大国であるこの狭い日本の国土に今だって海岸沿いに何十もの原発が次なる再稼動を待っているのである。我々は今こそ目先の損得ではなく、将来、未来を見据えてできる限り「負の遺産」を今ここから失くしていくよう努力しなければならないはずだ。たぶんそれこそが今生きている我々の責任と役割なのだと信ずる。

 そう、今ならばまだきっと変えられる。変わる。変わっていく。まだ間に合う。

 政治判断を覆すべく、我々国民、一般大衆がすべきこと、できることを数回にわけて考えてみたい。