ギターを手に、唇にうたを持て2012年10月04日 16時29分09秒

★「フォークソング」のお誘い~自分の好きなうたを自分のギターで唄えるって楽しい!


 これはたぶん何でも同じだろうが、スポーツでも演劇でも音楽でも場に「観客」を求めるものは実は客として観るよりも自らもやるほうがずっと楽しいし面白い。
 もっとも大衆に人気あるスポーツ、野球だってサッカーだって皆いちどはやったことはあるだろうし、今だって機会あればそうしたチームを組みたいと願う人も多いであろう。それと同じで、ただじっと椅子に座ってステージのそれを見聴きしているよりも自分で演ったほうが楽しさは段違いである。

 それは演劇、演奏という観覧の楽しみを否定するものではない。たとえば落語など演芸には磨かれたプロの芸が確かに存在し、素人が見よう見まねで始めてモノになるものではそもそもない。
 沢村貞子の随筆などを読むと、昔の江戸っ子はよく「それは金がとれる芸か」と口にしたという。確かに芸として考えた場合、素人芸はいかに巧みであろうともしょせん金がとれる域に達さない。志ん生の落語がそっくり真似ができ一席演じられたからといってそれで落語家にはなれないしだいいち金はとれない。

 今自分が問題としているのはそもそもそうした「プロの世界」の話ではない。あくまでも素人、アマチュアとして、音楽、演劇、その他スポーツであれ何でもやってみることを提案している。そこでの楽しみを説いている。まあ、スポーツの世界は単に記録などの「能力」だけの世界だから、逆にすごい才能さえあれば案外プロへの道はたやすいかもしれない。素人、無名だってマラソン大会で好成績を出してオリンピックへ出るという可能性もある。水泳だって柔道だって早く強ければそれで飯が食えていく。

 だが、芸術芸能の分野では、そうした技能とは別なものも大きく求められ関係しているから素人とプロの差は歴然としているし、その違いは認めないとならないと考える。でもだからこそ、プロとは一線を画して素人、アマチュアという立場も成り立つのである。
 日曜野球、草野球にはプロの試合とはまた別の楽しさ、面白さがあると信ずるし、それを観ても面白いが何より自分もまた試合に出られるのが楽しいはずだ。それと同じく、演劇だって、いや昔8ミリフィルムで映画を撮り自主上映会をやっていた者からすると、映画でさえ自分でやってみることはとてつもなく楽しい。それは演劇公演も。一度舞台に立てばやみつきになるとはよく聞く話だ。

 ただ、そうした芝居などはそもそも一人ではなかなか成り立たない。一人芝居とかパフォーマンスという手もあるかもしれないが、素人がそんなことをまず始めようとは思わないはず。それをやるのはプロを目指す者であろう。
 しかし音楽はまず一人でも始められる。逆に明大マンドリンクラブのような形態を考えなければ本来一人ですべきことかもしれない。コーラスグループに入って、皆で第九を謡えるようになるという手もあろう。だが、まず自分でたとえば自分の好きな曲をギター伴奏で、うたえるようになるということはとても有意義なことではないか。

 今の時代、カラオケはあまねく普及し、店でも家でもときには、野外でもマイクと歌詞本を手に声を張り上げるということは可能である。しかし、そこに面白さは認めるが、それはきわめて「出来合い」であって、そのシステムがないと成り立たない。またシステムはあっても自分の十八番が入っていないと唄えない。
 だが、自分が考える「うた」はアコスティックギター1本あれば電気も電池もない山の中でも自らの肉声だけでいくらでもうたえる。何でもうたえる。その楽しみははかりしれない。

 と、長々と書いたが、これは、6日にウチでやる「フォークソング講座」の宣伝なのである。自分はフォークとは、素人のもの、アマチュアの音楽だとそもそも考えている。むろん金がとれる芸を持つ人も多々そこには存在している。しかし、ある意味、他の芸術、芸能と比べてきわめて垣根の低いこの「音楽行為」をもっともっと広く知ってほしいし普及させたいと願う。
 キナ昌吉の謂いだったか、「すべての兵器を楽器に変えよう」、という言葉がある。一人一人、誰もが楽器を手にしそれが弾けるようになり、皆で唄えるようになれば、そうした世界には戦争もいさかいも争いもなくなるであろう。音楽にはそうした力が確かにある。

 「フォークソング」とは別にしちめんどくさいことでも難解なことでも大変でもちっともない。自分のうたいたいことを自分らの手でうたにしたり、唄いたいうたをうたっていくということに他ならない。ただ、それにはある程度、最低限の知識と技術の手ほどきが必要かと考えた。誰かに教わるのが簡単だけれどプロの人は忙しいからそんなことは教えてくれないし弟子もとらない。
 なので、不肖増坊が僭越ながらこうした講座、ワークショップを企画したという次第だ。これから一年間、月一でちまちま続けていく。途中からでもかまわない。できるだけ多くの関心と好奇心ある方のご参加を願っている。
 そしてまた自分もこの行為を通して「うた」とは何かその答えを見出したいと思っている。