中川五郎&豊田勇造+館野公一@谷保かけこみ亭2012年10月26日 01時29分41秒

左から舘野、五郎、ぼけまる、勇造の皆さん
★関西フォークの重鎮二人の素晴らしいライブであった。

 日付も変わってしまったが、10月25日、東京国立市谷保のかけこみ亭での勇造&五郎のライブから帰ってこれを記す。終電で帰ってきた。

 中川五郎と豊田勇造、同い年で、高校時代よりギターを手に音楽活動を始めた二人で、ピート・シーガーに深く影響を受けたのも同じく共に同志社大学に通った仲であるはずだが、意外にライブではあまり接点がない。40数年のキャリアがあるフォーク界の重鎮、いつまでも若々しく精力的に活動中の大人気の超ベテランであり、増坊も大敬愛するお二方である。

 そんなで気がついてみると、この二人のジョイントは自分も観るのが始めてであった。五郎さん曰く、仲が悪いから、と言っていたがもちろんそれは冗談で、逆に昔からよく知る長い付き合いだからこそ個々のフィールドでそれぞれ独自の活動に励んでいたからに他ならない。今回は増坊の地元かけこみ亭で恒例の勇造ライブに五郎さんが加わるのだから何が何でも顔出さねばならない。おまけにサポートは二人とも親しいおなじみ館野公一さんである。

 もう何も今さら説明も解説も一切不要だと思うのだが、本当に良いコンサートであった。まず館野さんがオープニングアクトを務め、ついで五郎さんが約1時間、館野さんのサポートで演り、休憩後、9時から勇造さんが1時間。そして、最後は、三人で、まず五郎さんが、最近彼が訳し、脱原発集会でも唄われているウイ・シャル・オーバーカムの日本語曲を、そして最後は、「さあ、もういっぺん=大文字」を勇造さんが堂々と歌い上げその場全員の合唱で終わった。合間合間に店のマスターぼけまるさんが飛び入りで乱入したのはご愛嬌ということでまあ仕方ない。これがかけこみ亭の味わいなのである。

 何だかんだいっても、超ベテランお二人はギターもバンジョーもぴったり息もあい、そこに館野さんの達者なマンドリンが色を添えて、予想した以上のよく出来た素晴らしいステージとなった。
 個人的には久々に聴いた豊田勇造という男のギターも含めてテンションの高さに圧倒された。いつもながら感心させられる音楽のレベルの高さである。年齢を度外視しても今の彼に敵う歌い手はフォーク界のみならず日本にはいなのではないか。そう思うほど毎度のことながら勇造という男は全てにおいて高みにいる。本当に素晴らしい一夜であった。

 さらに今回行って良かった事は、彼のソングブックが買えたことで、風太とケンカして以来、関西のフォークシーンとは疎くなってしまっていたので知らなかったが、ビレッジプレスから、豊田勇造の全アルバムの歌詞とコード、解説を網羅した本が出ていたのだ。それが雲遊天下誌の五十嵐氏から直売で買えた。むろん勇造のサインも入れてもらったし本当に嬉しい。
 昔の貴重な写真も載っているし、これは自分にとって、館野さんが作った「高田渡読本」と並んで生涯の宝ものである。死んだら棺桶に入れてもらうつもりだ。

 帰り道、最終の南武線、立川行きを谷保駅のホームで待っている間、その本を繰っていて思わず目頭が熱くなった。懐かしさだけではない。豊田勇造という男の約40年間の人生の系譜がそこに収められていたわけだが、ある意味それは自分自身にも深く重なったからだ。

 彼が発見の会から出した「さあ、もういっぺん」には、しっかり譜面が付いていて、自分はそれでギターというものを意識して練習したことを思い出した。むろんあの高石さんがナターシャセブンと共に出した何枚ものカントリーのアルバムも細かい解説と譜面があったけれど、出来合いの曲ばかりで正直ピンと来なかった。田中研二の「チャーリーフロイド」と共に付録のコード譜から学んだことは大きい。つまり自分のギターの師は勇造だったんだと今気がついた。

 そんなこんな様々な思いがわいた一夜であった。疎遠になっていた人たちとも会えたし、また音楽に力をもらったという思いでいる。何も焦ること急ぐことは何もない。
 そう、勇造もうたっている。
  
 生き急ぐことはない 死に急ぐこともないと

様々な果たせぬ思いが・・・2012年10月26日 20時41分35秒

★かなわぬ思いを抱えて記すこと。

 今これを記すは10月26日の夜9時前。本当は今頃、吉祥寺のブロンで岡大介、熊坂るつこ他のライブを聴いているはずなのだが今家にいる。実は行くつもりで先ほどまで準備していたのだが、故あって断念した。でも悔いはない。誘ってくれたルッちゃんには後ほどメールで詫びて郵送で渡すものを送るつもりだ。

 昨晩、かけこみ亭で、勇造&五郎のライブを観て、終電ぎりぎりで何とか帰れた。そして今日は「社員」を久々に招いて家の用事を片づけて、作業後は夕刻から吉祥寺に出、8時より始まるスナックブロンの閉店ラストライブに顔出すつもりでいた。
 が、昨日の夜から急に母の体調が悪く、自分はかけこみ亭に出かけて不在だったのだが、夕食後に吐いたり下痢したりと調子を崩したとのことで、それは今日も続いて胃が痛いと不調を訴えているのでどうしたものか迷ったが今晩の外出は断念せざるえなかったのだ。

 最後のブロンでのライブ、さぞや盛況で、参加できなかったことを深く残念に思うが、それもまた仕方ない。彼らはまだ若いし、こちらが生きていればいつかまた同様の場に立ち会えるかと思う。心残りなのは、今回一緒に出る「東京大衆歌謡楽団」と会えなかったことで、それもまた運命なのかと思うしかない。ただ、昨晩に引き続きそう毎日楽しい出会いばかりは続かないということを心すべきであろう。日曜にはまた勇造さんと会う約束もしているのだ。

 桑名正博、結局死んでしまった。何とか奇跡は起きるかと信じていたし、絶対カムバックなると思っていたが、いたしかたない。まだ59歳。ほぼ即死状態だっただから実に長くよく頑張ったとつくづく思う。みんなの思いが通じたのだと思う。しかしこれもまた天命、宿命だったのだと今は思うしかない。
 ただ、自分の中には今も、直接出会った桑名が、原田芳雄御大と共に今もずっと生きているし、それは永久に色褪せない。ファニカンのアルバムと共に、あの男は永遠に生き続けている。ロックミュージックというものをまさに具現化した人であった。カッコいい不良として生涯好き勝手気ままに生きた男。残念だが悲しくはない。よく頑張った。本当に有難うと言いたい。日本のロックをかじった人たちの永遠の憧れ、桑名。永ちゃんの泥臭さ、どん底の貧乏から這い上がった成り上がりとはまさに天と地、雲泥の差であった。永ちゃんは下品ギリギリの泥臭さ、そこから持ち上げていくベタなダイナミックさが身上だったが、桑名はあくまでもスマートかつ軽やかさで粋なロンドンぽさであった。それこそが生まれ、環境であろう。銀のスプーンを咥えて生まれてそのまま死んだ男であった。あの時代も今もあんなカッコいい人はいない。

 たぶん今晩は寝ながら泣く。親しくはなくても少しでも出会う機会があり、共に呑んだ人が死ぬのは辛い。若松監督が死に、桑名も死に、辛く打ちのめされた感があるが、自分が死なない限り彼らは今も生き続ける。亡き人を思い語り伝えることこそ生者の役割務めであろう。彼らの思いを受け継いでいく。オレはまだ死なない。ただそれだけである。