生き方のフォームは変えられない2014年01月26日 23時27分37秒

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 今日は昼間は汗ばむほどのぽかぽか陽気。そして今はまた北風が音を立てて吹き荒れている。今晩からまた冷え込むらしい。

 昨晩は、青梅線河辺駅前に先だってできたミュージック・カフェ「W.Saloon」へ出向いて、中川五郎氏のライブに顔出してきた。共演は、ウチ、無頼庵でもおなじみのベテランシンガー西島寛二さんとROSEさんという豪華な組み合わせだった。そこでのライブについてはまた別稿で書き足す予定だが、あるうたを聴いてようやく凹んだ気分も立ち直った。そのことを書きたい。

 人間、50年も60年も生きていると当然ながらその生き方のスタイルができてくる。スタイルというよりも癖、習い性と言ったほうが適切かもしれない。そして固まってしまったそれはおいそれとは直せない。本人が直したいと願ってもうんと若い時ならともかく考え方も行動も歳を重ねるごとにより頑なになってより変えにくくなる。

 若い時から考えなしで、何事においても慎重どころか焚火ならばまず手を出してみて火傷してから火とは熱いものと学ぶような生き方をしてきた。だから当然あちこちで行く先々でトラブルを起こす。その都度学ぶところもなくもないが、根本がバカで学習能力も劣っているので一時は反省もし大人しくもなるが、やがてすぐに忘れてまた同様の失敗を繰り返す。余計なことを言ったり書いたり、してはならないことをしてしまう。
 昔から付き合いのある友人からは、普通のバカよりタチの悪いバカと言われている。普通のバカなら難しいことは言わないしやらない。俺は考えて考えて挙句に常識外れのことをしでかす。人から指摘され呆れられてようやくはたと気がつく。

 今回、当ブログで、昨年書いたある記事内で、とある今も営業中の店の実名を出したところ、その店に迷惑が及ぶ事態となった。また、その店もだが、間に立った知人にも多大な損失と心労をおかけした。そもそも店と彼の間であったことを彼から聴いてそのまま断りもなくブログに書いてしまったのである。当時は酒に溺れていて酔いに任せて書いた記憶があるがそれは言い訳にもなりやしない。

 どうせこんなブログなどほとんど誰も読んでいないはずという甘えもあった。今改めてインターネットとは実に怖いし、誰に読まれるかわからないのだと気づく。書くからには常に誰か他者に迷惑が及ばないか責任と覚悟を持たねばと強く自戒している。
 自分に危害が及ぶならよい。何を言われようと批判されようとバカにされようとそれは覚悟のうえだ。問題は深く考えずうっかり書いたことで、自分ではない誰かが傷ついたり騒動が起きたり様々な迷惑がかかることだ。自らは何を書いても臆するものはないが、書くからには慎重に、何でも迂闊には書いてはならないということをようやく今回学んだ。

 バカだからそんなことをする、と言ってもそれで赦されるわけでもない。そして自分でもさすがにいい歳して何でいつまでもこうしたことを繰り返すのかとさすがにうんざりもしてきた。何とかこの愚かな失敗ばかりの人生から抜け出ることはできないものか。もう一度人生をやり直せたらと鬱々しながら当然考えもする。

 しかし、もう半世紀以上もこのスタイル、この生き方で生きてきたのだ。間違っていたって今さら変えることができるのか。何歳まで残りの人生を生きられるのかはともかく、もう三分の二は確実に過ぎてしまったのである。この生き方でやっていくしかないのではないか。他に何か手があるか。

 故色川武大先生ならこうしたものを「フォーム」と呼ぶ。一度できたフォームは崩してはならないと説いている。そう、野球のピッチャーでも同じであろう。もうベテランになってしまったらそれを崩して⒈から作り変えるよりも今あるそれを調整して一日でも長く現役を続けられるようにしていく。
 野球という世界がそうだとすれば、まして自分のような自己流で作り上げてしまったフォームは、今さら自らで変えられるはずがない。ならばこのスタイル、このフォームでともかく投げ続けるしかない。

 そして思った。今回のブログでの失態。ご迷惑をおかけした方々にはたいへん申し訳ないが、これもまた「失投」、またはワイルドピッチだと考えられないか。大きく振りかぶって投げたものの、キャッチャーのミットから大きくそれた暴投となってしまったと。時にはその一球で敗戦投手となることもあろう。しかし、長く投げ続けていればそうした失投もあるだろう。それも仕方ない。
 反省はする。しかし、大事なことは自らマウンドを降りるのではなく、「監督」におろされるまで一球でも多く投げ続けていくことではないのか。
 そしてこれからも丁寧に、ストライクがとれるようミットめがけて投げ込んでいく。へなちょこボールと言われようとも自己流のかっこ悪いフォームでストレートを一球一球投げ込んでいく。
 自分ができることはそれしかないではないか。生きるとは、人生とはもはやそれが習い性ならば、そうして投げ続けるしかないではないか。

 野球などに関心のない、スポーツ全般嫌いの自分が野球を例えに出したのは、昨晩のライブの場で、西島寛二さんがうたった「スライダーを覚えて」という曲を聴き、上記のようなことを考えたからだ。
 このうたは、日本人の好きな野球というスポーツの投手を喩にして「人生」というものの根源、深い底のところをうたい上げたとても内省的な佳曲で、このところ彼にはいつも歌って頂いている。何度聴いても心に染み入るような深い味わいのある素晴らしいうただ。

 その曲のオリジナルは、世界で活躍するデザイナーであり自ら音楽活動もされている山本耀司のアルバム中からのもので「スライダーを覚えて(作詞:吉田秀穂/作曲・編曲:松田幸一)」と表記されている。そのオリジナルは実はまだ聞いたことはないのだが、名ハーモニカ奏者である「アリちゃん」の作ったこの曲は、西島さんの渋い声と実に相俟っていると思える。
 ぜひ一人でも多くの方に聴いてもらいたい。日本にもこんなに深い内省的なうたがあることに驚かされるであろう。

 「打ち取ったのはぼくなのか、打ち取られたのはぼくなのか・・・」 今回の一投を見るまでもなく、元よりコントロールなどないのである。ならばこそオーソドックスに、読み手というミットをめがけて一投一投ストレートを丁寧に投げ込んでいきたい。自分もまた常に自問しつつ。

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